第36話 優しくて怖いひと
城に戻るなりアシェルの元に報告へ向かったジュリアと別れて自室に戻った桃里は、そのままソファーに飛び込んだ。
「つ、かっれたぁ〜……」
「お嬢、皺になるから早く脱いじゃうにゃ」
ひっくり返った状態でも構わず着物を解いていくシロエに、桃里はされるがまま怠惰に天井を仰いでいた。
「なぁシロエ」
「はぁい」
「町の娘というのはみんなあんな感じなのか?」
曖昧な問いかけにもシロエは手を止めることなく、脱がせた着物を丁寧に衣紋掛けにかけていく。
「どうかにゃ。あたしもあまり町の人間は知らないけれど、人間はみんな貪欲で醜悪だから」
洗いに出す襦袢や帯揚げを纏めて畳み終えたシロエは、まだソファーに寝そべったままの桃里に笑いかけた。
「でも奥方様は違ったよ」
「…母上はどんな人間だった?」
シャツとパンツに着替えながら、おぼろげな夢の記憶しかない母の後ろ姿を思い浮かべる。
それに少しだけ考える素振りをしたシロエは、ふっと悪戯っぽく口角を持ち上げて三角形の歯を覗かせた。
「弱い妖にも優しくて、お館様よりも怖い人」
「…ふっ、ははっ。そうか」
つられて声を上げて笑った桃里はそのまま再びソファーに倒れ込み、じっと高い天井を見上げる。あのいかにも鬼のしかめっ面をした父より怖いときたか。
「だったら私は母のようになりたいな」
母のように優しくて、強い。そして少しだけ怖い人。物心がつく前にいなくなった母を想いながら、桃里は静かに瞼を落とした。
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控えめなノックの音に短い返事を返すと、一人のメイドが入ってきた。
長い髪を編み込んで纏めた一見なんの変哲もないメイドだが、足音はおろか気配すらなく近付いてくる彼女にアシェルは小さく肩を竦めた。
「逆に怪しさが増しているぞ、ジュリー」
「申し訳ございません、つい癖で」
柔らかい指摘に苦笑しつつ一礼したメイド、ジュリアはアシェルが信頼する数少ない側仕えの一人だ。
「それではご報告を」
「ああ」
「まず主催のモリス伯爵家ですが――」
事の一部始終を聞いたアシェルは最後に深いため息とともに眉間を抑えながら項垂れた。
「そんなことだろうと思ったよ」
「ええ。ですから有益な情報などは特に掴めませんでした」
「…わかった。それで桃里は?」
頭痛に堪えるように押さえたこめかみに薄っすらと青筋が浮いているのは見ないふりをして、ジュリアは穏やかに笑みを浮かべた。
「お部屋でお休みになっておられます。労ってさしあげては?」
「そうしたいのは山々だが…」
ちらりとアシェルが視線を向けたのはまだ山のように積まれている書類の束だ。
「今夜中に片付ければ明日の半日ほどなら空けられるのではないですか」
「それはつまり君も手伝ってくれるってことか?」
「私は桃里様の夕食の支度がございますのでお暇いたします」
あっさりと断ったジュリアにアシェルは非難がましい目を向けてはくるも、諦めたように再び筆を手にとった。どうやら本気で今夜中に終わらせるつもりらしい。
「下がっていい。調べは引き続き進めてくれ」
「承知いたしました。…ああ、それから」
「なんだ?」
既に書類に筆を走らせながら相槌を打つアシェルに、ジュリアは姉のような慈愛を宿した瞳を細めた。
「桃里様はまた鶏の串焼きを召し上がりたいそうです」
「は?」
その一言でぴたりと筆が止まった。本当にわかりやすいと思わず洩れそうになる笑みを押し殺し、ジュリアは礼儀正しく一礼して背を向ける。
「帰りの馬車の中でおっしゃっていたんですよ。殿下にご馳走してもらった串焼きがこの国で一番の好物だと。それでは、失礼いたします」
振り返ることなく執務室を後にしてすぐ、扉の向こうで何やらぶつかる音が聞こえてきた。
(本当、わかりやすいんだから)
ろくにお昼も食べられなかった桃里のために今夜は彼女の好きな食事を用意させようと思っていたけれど、それもまたすぐに書き換えられてしまうだろう。
やはりジュリアは足音ひとつさせず、厨房へと軽やかに歩き出した。




