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第33話 桃源郷と呼ばれた島

 水音を聞いて灯台から見下ろしたエイダンは、海の中でびしょ濡れになって笑っているアシェルに目を丸くするも、嬉しそうに髭を揺らした。


 きっともう間もなく戻ってくるであろう二人のために、毛布と珈琲の準備をはじめよう。




 もうすっかり夏の気配が近くなったとはいえ、水遊びをするにはまだ少々早かった。


 アシェルの魔法で服や髪は乾かしてもらえたが、冷えた体はどうにもならない。桃里はエイダンが羽織らせてくれた少し埃っぽい毛布にすっぽりと包まった。


「お嬢ちゃんは飲めるかい?」


 ことりと机に置かれたのは黒い液体の入ったカップだった。


「これは何だ?紅茶じゃない?」

「珈琲だ。飲み慣れていないと少し苦いかもしれない」

「こーひー」


 顔が映るほど真っ黒な液体が、ほのかな湯気とともにゆらゆらと揺れている。


 紅茶とまったく異なる飲み物をしばらく見つめてから、桃里はおそるおそる口をつけた。 


「っにが!」

「やっぱりな」

「…でもなんだ、癖になるような、変な味だ」


 意外といけると判明しもう一口含むと先程よりじっくりと味わって嚥下する。苦味の中に少し酸味があって、紅茶や煎茶とは違うもののこれはこれで美味しかった。


「意外と美味しいかも」

「そりゃあよかった」


 嬉しそうに笑うエイダンにこくこく頷いてから再びカップを傾ける桃里の隣で、アシェルも珈琲に口をつけた。


 エンダンが仕事に戻った後は二人で灯台ゆかりの本を読んだり、アシェルが知っている逸話を聞いたりと色々な話をしてゆっくりと過ごす。


 その中でナマコは食べれるか食べられないか論争でもうひと悶着起こったりもしたが、城に戻ったら晴人に確認するということで休戦となった。


「ありがとうな、アッシュ」

「うん?」


 誰に邪魔されることなく話し込んでいるうちに、窓から差し込む日差しは赤く染まりはじめている。ほんのひとときとはいえ、桃里はとても幸せだった。


「連れてきてくれて楽しかった」

「…ああ、俺こそ。付き合ってくれてありがとう」


 アシェルの横顔がいつもよりも柔らかく見えるのは夕陽に照らされているからだろうか。


 ふと桃里はエイダンに耳打ちされた言葉を思い出した。


『ここに来たのはお嬢ちゃんが初めてでの。どうぞ坊っちゃんと仲良うしてくだされ』


 アシェルがイーニアスすら連れず、いつも一人でひっそりと来ていた特別な場所。そんな場所に連れてきてもらえたことが嬉しくて、桃里は胸の奥が少し熱くなった気がした。




*******




 遠い遠い海の向こう。


百花(ひゃっか)


 太いしめ縄が施された大きな岩戸の前に立つ鬼の側に、一匹の狐が歩み寄った。


 銀色に黒い毛が混ざる不思議な色をした狐は、鬼の隣まで来るとふわりと人に姿を変える。


「里の方は大丈夫そうや。朝来(あさご)夜行(やこう)もおるし、榊の爺さんも結界を強めてくれたわ」

「そうか」


 狐は岩戸を見つめると、端の方に小さく走った亀裂に目を細めた。


「ほんまにもうアカンみたいやな」

「…ああ」

「亀裂が入って三年になるか。よう保った方やろ」


 裂けるようなひび割れはまだ小さなものであったが、そこからはじわりじわりと微かに黒い靄が滲んでいる。


「…瘴気か」

「まだ外までは出ていないが、こいつも時間の問題だろ」


 里の者さえ踏み入ることを禁じている山奥にあるこの岩戸は、とある悪意の化身たる大妖怪を封印した場所だった。


百花王(ひゃっかおう)銀治郎(ぎんじろう)


 りんっと鈴を鳴らしたような清らかな声が響く。一切の気配もなく二人の後ろに現れたのは、可憐な少女だった。


 肩口でまっすぐ切り揃えられた白髪に、同じく真っ白い着物を纏っている。むしろまだ稚児のようにも見える少女は、底の知れない瞳で鬼と狐をまっすぐ見据えた。


「子鬼を逃したのは正しかったようじゃ」

深山(みやま)

「なんじゃ」


 少女の緑色の瞳を紅い鬼の眼が射抜くように睨めつける。しかし少女は微塵も動じることはなく、静かに次の言葉を待っていた。


()()()は、後どのくらい保つんだ」

「さぁ…それは妾にもわかりかねる。じゃが……」


 深山は岩戸を覆うように茂る木々を見上げて、引き結んだ薄い唇をゆっくりと開いた。


 すべてを見通しているかのような深い深い瞳は果たしてどこを見つめているのか。


「天命尽きるまで」


 ギリッと歯が軋む音がして、狐は鬼を横目で見やった。苛立ちを感じた時、鬼はいつも歯を軋ませる。


 しかし苛立つのも仕方のないことで、狐はそれを咎めはしない。


 なぜならばこの岩戸に封印を施したのは彼の唯一の連れ合いで、そして桃里の母親だった女だ。


 十五年前、この国のための犠牲となった彼女は今も、一人暗闇の中で悪意を抑える役目を担っている。


 だが狐は知っていた。彼女の本当の望みはたったひとつ。それは彼女の望みであると同時に、鬼の望みでもあった。


 ひとの親になった二人のささやかな願い。


 それはただ、一人の娘の健やかな成長と安寧の日々だった。

一章完結です。二章からドタバタ騒動開幕。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

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