第32話 海デート
灯台から身を乗り出すと、潮風が吹き上げてきて長い髪が煽られる。
「わぁ…!」
どこまでも続く青い海は、高い日差しを浴びてキラキラと水面を輝かせていた。
「桃里」
落ちそうになるのも構わず興奮気味に海を見下ろしていた桃里は、腕を引かれて振り返る。
「危ないだろう」
「これくらい平気だ。落ちるようなヘマはしな…」
得意気に言いながら軽々と柵に腰をかけた瞬間、一際強い風が吹き上がり桃里の体がぐらりと揺れた。
「おわっ」
「馬鹿っ…!」
意外と強い力で腕を引っ張られ、傾いだ体は背中から落ちるようにアッシュの胸に抱き留められた。
「まったく…だから言っただろう。また落ちる気か」
「…ごめん」
さすがに調子に乗りすぎたと素直に謝るも、やはりまだ海が気になり浮ついてしまう。そんな桃里にアッシュは呆れたように小さく笑いながら姿勢を正してくれた。
「もっと近くまで連れて行くから、少し落ち着け」
「はーい」
*******
アシェルの執務室から転移魔法を利用して訪れたのは灯台の展望台だ。
この灯台は城下町から少し南に位置する場所にあり、アシェルが幼い頃からのお気に入りの場所だった。
当時よく城から抜け出しては探し回されていたアシェルが、見様見真似のでたらめに転移ルートを引いた初めての場所でもある。
もちろんそんなことはすぐにバレてしまったのだが、疲れた時にお忍びで来る程度はお目溢しをもらえるようになり、つい数年前まではよくひっそりと訪れていた。
「それにしても魔法っていうのは凄いな!一瞬で遠くに来られるなんて。晴人だってこんなことできないぞ」
「行き来できる場所は限られているけどな」
一度自ら行ったことがあり、両側に魔法陣を刻んで道を作らなければ転移魔法は使えない。
そもそもこの技術自体が易々と使えるものではないのだが、アシェルには母親譲りの魔力と才能があったらしい。
「おや、坊っちゃん。お久しぶりですの」
螺旋階段を下って地上に降りると小柄な老人がうやうやしく帽子を取って頭を下げた。
老人は何十年も前からこの灯台守りをしていて、アシェルも幼い頃からの馴染みだった。
「エイダンも元気そうでなによりだ。なかなか来れずにすまない」
「いやいや、気に留めてもらえておっただけでこの爺も生きていた甲斐がありますぞ。それに」
エイダンはアシェルの後ろにいた桃里に白く濁った目を向けて、目尻に深く皺を刻んだ。
「いつも一人で来ていた坊っちゃんに今日はお連れがおるようじゃしの」
ふぉふぉと、嬉しそうに笑う老人に僅かにむず痒い気持ちになりながらアシェルは桃里を紹介する。
異国から来た少女で彼女の父親と祖父が知り合いなのだと言うと、エイダンはほうと何やら得心したように何度も頷く。
「なんももてなしはできんが、ゆっくりしていくといいよ」
それだけ言って灯台に入っていく老人は桃里とすれ違いざま、何やら耳打ちしてから緩慢な歩みで扉の奥へと消えていった。
「エイダンは何て言ってたんだ?」
海岸へ繋がる階段を歩きながらつい気になって問いかけるも、桃里は何か含むような顔をしてから「別にー?」言ってさっさと駆け出して行ってしまう。
「あっ、待て!転けるぞ!」
「転けないよ!」
言葉の通り数段飛ばしに軽々と階段を駆け降りていく桃里は、続く磯も難なく越えて海面ギリギリでようやく止まった。
「わぁ…」
桃里から聞こえてきた二度目の感嘆の声は先程よりも儚くて、どこか遠くを望むような声だった。
凪いだ海は地平線の果まで青々と澄んでいて、寄せては引いていく波もいつもより穏やかに思える。
「海を横から見たのは初めてだ」
「横から?」
「いつもはさっきの灯台からみたいに見下ろしてるだけだったから」
潮風に吹かれて気持ち良さそうに目を細めて海を眺めた桃里は、ぴんと閃いたようにその場にしゃがむと片手を水面につけてそして、おもむろに一口海水を口に含んだ。
「しょっぱ!」
「それはそうだろう、海水なんだから」
ぺっぺっと舌を出しながら僅かに涙目になる桃里の奇行に、さすがに呆れた顔をしながらアシェルも隣にしゃがみ込む。
「桃里はこうして海を見たことはないのか?」
「うん。山の上から覗くだけだった。断崖絶壁だったから子供は行くなって言われてた」
「大人でも行けなさそうだな」
「でもご祖父上が漂着したのはその断崖だったらしいぞ」
よく無事だったものだと頭を抱えたくなる。そんな断崖絶壁に打ち寄せた祖父を助けた桃里の父親とは、一体どんな人物だったのか。
「桃里の父君はそこを降りられたのか」
「親父というより親父の知り合いが拾いに行ったらしい。大天狗の伯父貴は一人や二人くらい抱えても余裕で飛べるから」
「オオテング?」
「クロトよりずっと強くて怖い烏天狗だ」
いまいちわからない説明ではあったが、クロトが大きな翼を広げて空を飛ぶ姿を見たことがある。なんとなくあれよりも凄い妖なのかと、アシェルはやや強引に自分を納得させた。
「あ」
「ん?」
「ナマコだ!」
「は?」
話している間も物珍しそうに海中を見下ろしていた桃里がぱっと目を輝かせる。そして素早くシャツの袖を捲くりあげると、今度は腕ごと突っ込んで黒い何かを掴み上げた。
「って、なに取ってるんだ!」
「なんだ、アッシュは知らないのか?これはナマコだ」
つい今しがたまで初めての海に好奇心と喜びと、ほんの少し寂しさを混ぜたような表情をしていた桃里が、得体のしれない気持ち悪い塊を掴みあげてどこか誇らしげに胸を反らしている。
「…知ってるけど。そんなもの取るな」
知ってはいるが、だからこそ婦女子でなくとも喜々としてそれを手にする者はまずいないだろう。ぐにぐにと片手で揉みながら見せつけられたアシェルは、さすがに嫌悪感を顕わにする。
「そんなものとは何だ。美味いんだぞ」
「美味いって…食べられるわけないだろ」
「食べれるよ」
「ない。絶対。というか桃里は海のことなんて知らないんだろう。それは食べ物じゃない」
断言できる。地元の漁師でもそんなものはまず食べない。しかしアシェルの言葉に気を悪くしたのかむっと眉を寄せた桃里は、もう一匹近くにいたナマコを捕まえた。
「海のことは知らないけど、たまに商売に来る磯女が持ってきてたのを食べた。ちゃんと美味かった」
両手にナマコを握ったままにじり寄る桃里に、アシェルはしゃがんだまま後退る。
「わ、わかった。わかったから一旦それは逃してやろう」
「わかってない。まだ疑った目だ」
よもや投げつけはしてこないだろうが完全に目が座っている桃里に、手合わせの時にも感じたことのない恐怖を覚えながら更にもう一歩退ったとき、かくんっと踵が岩場に取られた。
「あっ」
「あっ」
二人の声が重なった瞬間、ナマコを手放した桃里の手が咄嗟にアシェルの腕を掴むも時既に遅し。
ばしゃんと激しい水音を立てて、二人して海に倒れ込んだ。
「…っ大丈夫か!?」
「ぷはっ…しょっぱ!」
幸い水嵩は腰ほどしかなく足もつくが、自身に覆いかぶさるように顔から海中に突っ込んだ桃里を、アシェルは慌てて引っ張り上げる。
白磁の肌に艶を増した黒髪を張り付けて、桃里は紅い目を瞬かせていた。
「あー、びっくりした。海の水って軽いんだな」
「軽い?」
「うん、凄く浮く」
浮力のことを言っているのだろうか。そのまま寝そべるように海面に浮いて楽しそうに笑う桃里に、アシェルはほっと息を吐く。
そのままぷかぷかとクラゲのように浮かんでいる桃里の姿を見つめていると、なぜだか唐突に笑いが込み上げてきた。
「ふっ…ははっ」
「えぇ、なんだ、どうした」
「いや、桃里は本当に、めちゃくちゃだ」
海の中で声をあげて笑い出したアシェルに、何がなんだかわからないのだろう、桃里は不思議そうにきょとんとしていた。




