第31話 旅立ちの日
セオドアが大々的に城へ戻ってから十日後、今度は早朝の禁苑からひっそりと出ていく影があった。
一見するとちょっとした商家の好々爺と、そのお付きの下働きの少年にしか見えないでこぼこの二人だ。
「それではもう行くよ」
「くれぐれもお気をつけて」
ハロルドは小さなトランクを一つだけ持ち、軽い手付きで優雅にハットをかぶった。
「クロト、ハロルド様の言いつけはよく守るように。もし何かあれば必ず報せを」
「わかってるよ。あんたこそお嬢の手綱はしっかり握っとけよ」
クロトは今回ハロルドの旅に同行することになった。
ハロルドが呪われた件から公爵家での出来事まで、やはり同じ臭いがする。それは魔法とはまた別の、呪術と呼ばれるものだ。
ゆえに今回のハロルドの隠密旅には妖であるクロトが同行し、護衛とともに見聞を広げるという手はずになった。
既に旅支度は済ましているハロルドに、晴人はゆうに百を超えるであろう呪符を手渡した。
「私の術を込めています。お邪魔でしょうが何かのお力になるかもしれませんのでお持ちください」
「ありがとう、晴人。無関係の君たちに頼むのはお門違いと思われるかもしれんが、孫たちと城を…どうかよろしく頼みます」
呪符を受け取った方とは反対の手で晴人の手をとり頭を下げるハロルドに、桃里が緩やかに首を振って二人のそれに手を重ねた。
「お門違いなものか。私たちはこの城に置いてもらっているんだ。だからご祖父上も無事に帰ってきてくれ」
旅立つのはたったの二人。数はあえて少なくした。クロトには多くの目があり翼がある。以前のような軍行よりもずっと民衆に溶け込みやすい。
「これは私から。アッシュが持っていた幽斬り丸の飾り紐を使って編み直した組紐だ。きっとご祖父上を護ってくれる」
「ありがとう、桃里。――本当に、百花によく似てきた」
臙脂と黒が混ざり合う組紐をハロルドの腕に巻いた桃里は、伏せていた紅い瞳を持ち上げる。
その眼差しは昔見た、真っ赤なピオニーと同じ色だった。
「ご武運を」
見送りは桃里と晴人にシロエだけだ。早朝とはいえアシェルたちが書斎に集まるのは却って怪しまれると判断しての総意だった。
不意に茂みの奥の空間が歪んで大きな扉が生まれる。ここは本来の時刻や天候には左右されないハロルドの魔法の庭。
「それじゃあ、行ってくるよ」
開かれたその扉の向こう側へとハロルドとクロトは躊躇いなく歩を進める。二人が敷居を跨いだその瞬間、ふっと掻き消えるように扉が消えた。
そこはもう何事もなかったかのように、ただ青々とした生垣が緩やかな風に揺れているだけだった。
「行ってしまったな」
「寂しいですか?」
「……意地の悪いことを訊くな」
しばらく三人はハロルドとクロトが消えた場所を眺めてから、桃里は一度目を閉じてから改めて瞼を持ち上げる。
「戻るぞ。私たちにもやることがある」
「はい」
「はいにゃ!」
禁苑を抜けて書斎に戻ると、朝日が少しだけ顔を出している。
窓から差し込むのは赤い、暁の空の光だった。
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行ってしまった。祖父の微かな魔力が消えたことに気づいてペンを止めたアシェルは、静かに立ち上がると窓の外を見つめた。
アシェルの執務室は城下町から港までが一望できる場所にある。
しかしそれとて国のほんの一部にすぎない。一見豊かに見える広大なこの国の、北の果に行くと祖父は言っていた。
しばらく外を眺めていると、こんこんと控えめなノックの音が響き「いるか?」続いたのは桃里の声だった。
「ああ、どうぞ」
そっと開けられた扉から顔を覗かせた桃里は周りを気にしつつ室内に入ってきた。
「ちゃんと見送りはしてきたよ」
「ありがとう」
「それから、これを返すよ」
朝稽古の前だから男物のシャツスタイルで応接用のソファーに座った桃里は、胸ポケットから一粒の勾玉を取り出した。
元々は幽斬り丸についていた飾りで、今日までずっとアシェルが身につけていたものだった。
「紐を使ってしまったから、代わりのものを用意したんだ」
勾玉を下げていた紐の色は、それまでの臙脂から青いものに付け替えられていた。
「これは?」
「私が編んだ。こういうのは苦手だから不格好だけど…」
新しい紐に付け替えられた勾玉を手に取り、アシェルは光にかざしたそれをまじまじと見つめる。
「や、やっぱり気に入らなかったか?なら他のちゃんとしたやつに」
「いや」
感心していただけだったのだが、違う意味に捉えたのか。不安そうな桃里に小さく笑ったアシェルは勾玉を首につけなおす。
「これがいい。ありがとう」
「別に…おまえがいいなら、それでいいけど」
今度は照れたようにそっぽを向いてしまった桃里に胸が温かくなるのを感じつつ、アシェルはふと思いついて窓の外を示した。
「そうだ、桃里。このあと少し時間はあるか?」
突然の問いかけに不思議そうな顔をして、桃里はこくりとひとつ頷く。
「今日はリヴィも仕事があるらしいから、特にやることはない」
「だったら付き合ってくれ」
机に出したままだった書類を簡単に片付けてから、クローゼットにかけていた薄手のジャケットを羽織る。
「海を見に行こう」




