第29話 帰路のひととき
昨日、麗らかにお茶会をしたテラスには、アシェルが呼び寄せた兵士がまるで戦の前線のような緊張とともに陣を張っていた。
桃里はそこで簡素なシャツに着替えるとそのまま来たときにと同じ馬車に乗り込こみ、手の中にある欠けて汚れてしまった髪留めを見下ろしていた。
「待たせてすまない」
一刻ほどしてエバンス公爵家に立ち寄っていたアシェルが戻ると、外で見張りをしていたイーニアスも御者席に乗り込んだ。
「エバンス公爵に話をつけてきた。一部兵は残していく。魔獣はあれから現れていないがまた出てこないとは限らない。俺たちも戻って今回の件を洗い直そ…桃里?」
アシェルの声も耳に入ってこないほど、桃里はぼんやりと髪留めに視線を落としたままだった。
「……」
「……」
「出発します」御者席にいるイーニアスが隣に座る猫と屋根の上にいる鴉(二人とも動物の姿になっている)、そして客席で沈黙している二人に一言かけるとゆっくりと馬車が動き出す。
昨夜の雨で悪路となっている道をがたがたと車輪が駆ける音だけが響いていた。
「…あの」
「ん?」
「…さっきは、その、見苦しいことをした」
ようやく持ち上がった顔はわずかにバツが悪そうだったが、向かいに座ったアシェルは何も言わずにふっと笑う。
「気にするな。そんな日もある」
そこでまたぱたりと会話が止まる。絶妙なバツの悪さを感じて景色を眺めることに徹しようとするも、アシェルはまるで気にしていない風に声をかけてきた。
「そういえば忙しくて言い損ねていたが、兄さんが戻る日が十日後に決まった」
「え?」
その言葉に思わず反応すると今度はアシェルが窓の外に目を向ける。
「その時に別の者を迎えをやらせるつもりだったんだが…また俺たちも行かないか?」
「いや、でもそれはさすがに…」
「イーノも一緒だし、もちろん桃里にも少し力仕事をしてもらうことになるが」
「そんなことはいくらでもするけど、でも」
この前の訪問とは違い、お忍びで城へ戻る第一王子の出迎えに付き添うのはさすがにどうかと言おうとした桃里に、悪戯っぽくアシェルは笑った。
「少しくらいは時間もあるだろう。ついでにまた串焼きを食べに行こう」
「…うん」
串焼きと聞いてくぅぅんっと腹が鳴る。一瞬の間を置いて笑い出したアシェルに、桃里はほんの少し恥ずかしそうに、いつもより声を大きくして伸びをした。
「ああ!そうだな!腹が減った!肉が食べたい!」
「城に戻ったら食事にしよう。ご所望どおり肉を用意させる。ああでもその前にまずは、入浴だな」
既に乾いているとはいえ先程まで水に浸されて泥まみれになっていた二人は、お互いの酷いぼろ姿を見つめて思わず笑う。
来た時のかしこまった装いとは正反対の有様があまりにもおかしくて、一度笑い出すと止まらなくなる。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。少なくともこの国に来てからは初めてのことで、桃里は涙を滲ませながら腹を抱えて笑い続けた。
車外のイーニアスと猫も顔を見合わせて笑い、鴉はつまらなさそうにクァっと鳴いた。




