第28話 嵐のあとに
ガシャンっと激しい音を立てて割れた瓶の中から、どろりとした赤黒い液体が零れ落ちた。滴るそれは毛足の長い絨毯に吸い込まれる前にひとりでに霧散する。
「どういうことですのお父様!」
「すまなかった、許してくれミア。あれは私にも想定外だったのだ」
癇癪を起こして部屋中のものに当たる娘に、エバンス公爵はなんとか落ち着かせようと逆に冷静だった。しかしその様子が気に入らなかったのか、ミアは更に顔を赤くする。
「わたくしまで魔獣に襲われて今日のために卸したドレスを破かれましたのよ!?しかも殿下はわたくしを心配するどころか飛び出していって!そんなにあの女が特別だと言うの!?」
先程よりも大きな音を立てて茶器が絨毯に叩きつけられ、今度こそ茶色い染みが広がった。
「わかっている、ミア。だから私はおまえに言われた通りにあれを入手したんだ。それに大丈夫、あの崖を落ちたのであろう?だったらあの娘はもう」
濁しつつもそこまで言ったところでようやく少し溜飲が下がったのか、ミアは力なくソファに座り込んだ。
「だったらどうして…殿下は戻ってこられないの」
その時、遠慮がちなノックとともにメイドのくぐもった声が聞こえた。
「失礼いたします。旦那様、城からの使者と名乗る方がいらっしゃいました」
「使者だと?馬鹿な、こんなに早く来るわけがないだろう!」
「し、しかし…そう名乗られておいでで…」
「もういい、わかった。すぐに出る」
メイドの声に露骨に苛立ちながら、娘と同じ乱雑さで扉を開ける。避けそこねて転んだメイドには目もくれず、公爵は玄関へと向かった。
どこで計算が狂ったのか、一人娘のためにと図ったことが何一つ上手くいっていない。そもそもアシェルが悪いのだ。ミアという婚約者がいながら他の女に懸想して。
公爵家を継いで四半世紀。やっと王座に手が届いたというのに。
「お初にお目にかかります、エバンス公爵様。あたしは城より参上仕りました、桃里様の従者のシロエと申します」
「同じく、クロトと申す」
可愛らしくお辞儀をしたのはメイド服に身を包んだ愛らしい少女と、庭師のような格好をした少年だった。
客間ではなく玄関先で待っていた二人はとても城から来た火急の使者とは思えない、端的に言えば頼りなかった。
「あの、失礼ですが城の兵士の方々は」
値踏みするように訝しみながら訪ねると、シロエと名乗ったメイドはまるでお茶の話をするようにゆっくりとした口調でふわふわと笑う。
「この雨で兵の方たちは思うように進めないのであたしたちだけ先に参りました」
「…はぁ、そう、ですか。かく言う家の者たちも雨に阻まれ殿下の捜索が難航しておりまして…」
「イーニアス殿はどちらにおられる?」
メイドと違い庭師スタイルの少年、クロトははっきりとした物言いをする。その眼差しはどこか猛禽類のそれを思わせた。
「イーニアス殿は、殿下と一緒に…トーリさんを探しに」
公爵の言葉を遮るようにダンッと強い音と共に雨音が強まった。驚き振り返る二人の後ろに現れたのは、たった今話していた人物、イーニアスだ。
「シロエ殿、クロト殿!」
「大変!びしょ濡れ!」
「あーあ、泥だらけじゃん」
急に砕けた話し方をする二人とは対象的にイーニアスは乱れた息を整えるように数回深呼吸をすると、普段と変わらぬ口調で状況を説明した。
「なるほどな、まぁお嬢も一緒だし大丈夫だろ」
「クロト殿、その桃里様が大怪我を負われていると今ご説明を…」
「へーきへーき。犬だか猫だかに噛まれて崖から落ちたくらいじゃどってことないさ。…まぁでも」
「晴人様のお説教を受けるのはお嬢だけにしてほしいから早く迎えにいくにゃ!っあ、いく、ます!」
先程までのは体裁だったようで、いよいよおかしな言動に拍車がかかってきたメイドと庭師に口を挟むことさえできずにいた公爵に、ようやくイーニアスが視線を向けた。
「エバンス公爵様。魔獣がまだうろついているかもしれません。じきに城の者達が来るとは思いますが、その時は丘のテラスで待機させて下さい。私は彼らを案内します」
「しょ、承知しました。その様に」
再び雨の中を駆けていく後ろ姿を呆気に取られて見送った公爵の耳に、再び何かが破れる音が届く。またミアの癇癪かと、さすがの公爵も頭を抱えた。
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「…遅かったな、イーノ」
少し疲れたような掠れた声はしかし、安堵の色を含んで腹心の名を呼んだ。
「申し訳ございません。ご無事で何よりです、殿下」
雨もあがり川の水嵩も減った暁の空の下で、穏やかな風とともに鳥の鳴き声が響く。
「あーあ、なんつーとこで寝てんの」
「ふふ、でもお嬢が人前で、しかもお外で寝ちゃうなんて珍しいね」
洞穴を覗いたクロトとシロエは呆れと慈愛を滲ませて、イーニアスは主の無事にようやく緊張の糸を切った。
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大雨の中、クロトの指笛と共に生い茂る木々から飛び立ったのは野鳥たちだった。
彼らは降りしきる雨も増水した川もものともせずに飛び回ると、あっという間に川辺りの崖に不可思議な場所があると報せてくれた。
それがアシェルの張った結界だと察したイーニアスは、シロエの術で水の上を歩けるようにしてもらい、急ぎその場へと向かった(クロトが巨大な翼で空を自由に飛べることをこの時初めて知った)。
「桃里様をこちらへ。私が運びます」
「起こせばいいんだよ」
空洞の中へ手を伸ばすイーニアスの横から身を乗り出したクロトはおもむろに、そして遠慮なく平手で桃里の頬を叩いた。
「おい…!」
「んあ……」
思わず嗜める声をあげたアシェルの膝の上で間抜けた声を漏らした桃里はゆっくりと瞼を持ち上げてから、くあっとあくびをして「…おはよ」と、場にそぐわない緩さで呟いた。
「おはよ〜お嬢。早く起きないと晴人様がカンカンだよ」
「…はるひと…?…晴人。…起きる!ッ〜〜〜!」
突然起き上がったせいで頭を盛大に打つけた桃里は痛みに呻きながらものそのそと空洞を出て、そしてアシェルが止める間もなく川に落ちた。
「桃里!」
「桃里様!」
急いでイーニアスが川からすくい上げると桃里はようやく目が冷めたのか、ぽかんと呆けて周りを見渡す。そして空洞から身を乗り出しているアシェルに焦点を結んだ。
「…ああ、わかった」
「…桃里?」
「ありがとう、アッシュ。助かった」
あちこち破れたドレスにほつれた髪、体も傷と泥だけなのに、朝日を浴びて笑った桃里は何よりも美しくアシェルには見えた。
「足は大丈夫なのか?」
川を抜けて山道まで戻ったところで、クロトに肩を借りながらも平然と歩いている桃里にアシェルは心配そうに声をかける(アシェルやイーニアスでは肩が高すぎるためにクロトが杖役にされていた)。
「大丈夫だ。まだちょっと痛むけど歩けないほどじゃない」
「まったくだらしないったらねーな。着地に失敗だなんて」
「仕方ないだろ、靴に慣れてなかったんだ」
軽口まで叩いている二人に本当に大丈夫そうだと安堵しつつも、アシェルはふと疑問に思う。
桃里ほどの手練が不意打ちだったとはいえ崖から落ちるなんてヘマをするだろうか。
「なぁ、桃里。なんで崖から落ちたんだ?他にも何かいたのか?」
「――あっ…!!」
もしかしたら第三者の介入があったのかもしれない。そう思って少し声を低めた瞬間、桃里は声をあげて自身の体中をまさぐり始めた。
「…ない!ない、ない!」
何がないのかひとしきり服の中を探したあと、おもむろに引き返そうとする桃里を反射的に引き止める。
「落ち着け、どうした」
「…髪留め」
「は?」
「アッシュにもらった髪留め、崖下にいた時にはあったはずなのに…なくしてしまった」
手のひらを見下ろして泣きそうな顔で呟いた桃里に、ようやくアシェルは理解した。その理由に思わず笑みが零れてしまいながら、俯いた頭に手を乗せる。
「髪留めもドレスも、また買えばいい」
なるべく優しく言い聞かすように紡ぐも、すんっと鼻を鳴らす音が聞こえてきてぎょっとする。
「桃里?」
「…やっぱり探しに戻る!!」
ぐっと片腕で顔を拭った桃里は意を決したように踵を返した。
まだ足を引きずったまま今にも走り出しそうな桃里にアシェルはさすがに腕を掴んで制止する。
「いや待て!そんな怪我で馬鹿なことを言うな!」
「馬鹿とはなんだ!あれはおまえがっ」
いつもの桃里なら振り払えるはずなのに、それすらできないほど傷つき疲れているのだ。しかし彼女は諦めてくれる気配もなく、むしろアシェルを引きずらんばかりの勢いだ。
しかしここで折れるわけにはいかない。
「聞いてくれ桃里。俺も、リヴィだって桃里が生きていてくれただけで十分だから…」
じたばたする腕を軽く引いて細い肩を抱き寄せるとやはり疲れていたのだろう、柄にもなく桃里はしゅんと大人しくなった。
「どうしてもあれがいいなら、明日探そう。俺も一緒に行くから」
「…ん」
逡巡の後、こくんと頷いた桃里はこんなにも小さかったのだと。アシェルはこの時改めて知ったと同時に、この小さな温もりがとても、愛おしいと感じた。
「――あの、今更で大変言いづらいのですが」
ようやく落ち着いた桃里の側に寄ったイーニアスは、懐からそっとハンカチに包まれていた髪留めを差し出した。
「これ…!」
「岸下に落ちていたのをクロト殿が見つけてくださったので拾っておきました。少し欠けてしまっていますが…」
「っ〜〜〜鴉!」
「なんだよ、煩いな」
「ありがとう!イーニアスも!」
ぱっと顔を輝かせて礼を言う桃里にクロトは面倒臭そうに、イーニアスは柔らかく微笑んだ。
朝日がゆっくりと空を登り、澄んだ風が吹いていた。




