第27話 夜明け前
濁流の中から這い上がった場所は偶然にも木の根の這う空洞だった。
奥行きはあまりなく高さもないが、二人で入るには充分な広さだ。
「はぁっ……はっ……」
水を含んだ衣服は想像以上に重い。それでも片腕に抱き留めていた桃里を引きずりあげたアシェルは、休む間も惜しんで青くなった唇に顔を寄せる。
微弱ながら呼吸があることに安堵するとそのまま桃里を抱きしめて呪文を唱えた。ふわりと包み込むように暖かな風が吹き、二人の濡れた体を乾かしていく。
「桃里、起きろ桃里。――起きてくれっ!」
気絶していたのが幸いしたのか水は飲んでいないようだ。何度も肩を揺すって呼びかけると、桃里は小さな咳きをしてから堅く閉じていた瞼をうっすらと開いた。
虚ろだった紅い瞳が、徐々に焦点を結んでアシェルを捉える。
「アッシュ……」
「よかった…!」
「イッ…!!」
掠れた声を聞き思わず覆いかぶさるように抱き締めると、今度は先より大きな呻き声が漏れた。
「そうだ怪我…!大丈夫か?」
「ん…大丈夫。このくらい、すぐに治る」
言葉とは裏腹に、覇気のない声で体を起こした桃里の背に腕を回して介助するとそのまま壁際に座らせる。
「少し待っててくれ」
とりあえず目覚めてくれたことに安堵したアシェルはジャケットを桃里の肩にかけてから、入口近くに寄って再び呪文を紡ぐ。
見えない風の膜が川の轟音を遮った。
「魔法で結界を張った。川が落ち着くまで此処にいよう」
小さな灯りとなる火球を燈して足元に落とすと、それまで暗がりでわからなかった桃里の身体がぼんやりと浮かび上がる。
「っ…おまえ!酷い怪我じゃないか!」
「猫みたいな狼に襲われた。少し噛まれたけど…大したことはない」
「大したことあるに決まってるだろう!」
アシェルは自身のシャツの袖を引き裂く。次いで血に濡れてぼろ切れのようになっていた桃里の手袋をそっと取り去り、露わになった傷口にシャツを巻き付けた。
「本当は清潔な布がいいが、ないよりはマシだろう」
赤いドレスが仇となりわかりにくいが、肉をえぐるような痛々しい噛み傷は腕以外にもあるだろう。
「他に傷は?」
「……肩と、左手。ドレスのおかげでそれ以外は大丈夫、だけど」
つい、と桃里はボロボロになったドレスの裾を持ち上げた。
「落ちたときに足を折ったみたいだ。…それに、せっかくリヴィが選んでくれたドレスを汚してしまった」
「そんなものどうでもいいだろう!」
怪我よりもドレスを気にしている桃里に思わず怒鳴り声をあげてしまったアシェルは、はっと我に返ると改めて白磁の頬に手を添えた。少しだけだが体温が戻ってきている。
「ドレスよりも、桃里が無事でいてくれることの方が大事なんだ」
「そう、か。…うん。……ごめん」
驚いたように瞬いたかと思うと子供のように何度も頷いて小さく謝った桃里に、アシェルはできるだけ柔らかく微笑みかける。
「…そういう時は、ありがとうと言ってくれ」
こつんと額を合わせて懇願するように呟いたアシェルの背に弱々しい桃里の手が添えられる。彼女はもう一度頷いてから小さな声で「ありがとう」呟いた。
肩と左手にも布を巻かれ、赤黒く腫れている右の足首には剣の鞘を添え木にして固定される。
狭い空洞内で最小限の灯りと動きだけで黙々と処置をしてくれるアシェルを、桃里は赤い瞳でじっと見つめていた。
「なんだ?」
「いや、手慣れてるなと思って」
「ああ」
一通り手当を終えてようやく隣に腰を落ち着けたアシェルは、一息ついてから少し歪む外の景色に視線を向ける。
「二年前までは騎士団に所属していたんだ」
「王の息子なのに兵士をしていたのか?」
「兵士、とは少し違うが。魔法を学ぶ一環として騎士団で鍛錬を積んでいた。…こんなことなら医療魔法もちゃんと学んでおけばよかった」
自分の手に視線を落としたアシェルを横目に、桃里は納得して頷いた。歳こそさほど変わらないアシェルの手のひらには、確かに何度も潰れた古いマメの痕があった。
「これでも騎士団では色々と学んだつもりだった。剣の扱いもそうだが、魔法の応用に、応急処置の方法。…でも戦地に出たことはない。戦争は俺が産まれる前に終わっていたから」
「平和な国なんだな。…少し羨ましい」
「桃里の国は違うのか?」
アシェルの視線がこちらに向いたことに気付いた桃里は目を伏せて、久しく思い出すことのなかった国へと想いを馳せた。
「んー…平和、とは言い難いかも。私の国は人間と妖、それに神もいる。人間もそうだけど、妖にもいい奴と悪い奴がいたから。父と母は共存する道を模索するために日々戦っていたんだと、思う」
「思う?」
「アッシュと同じ、私が産まれる前の話だ」
「そうか」
桃里は瞼を持ち上げると添え木が施された足元に目を落として苦笑する。
「私は人間と妖の子だ。どちらでもあり、どちらでもなかった。だからこういう怪我はしょっちゅうだった」
すっかりぼさぼさに乱れてしまっている髪を指先で玩びながらふっと笑うと、桃里は再びぼやけた結界の外へと視線を向けた。
「うちの屋敷の裏にも山があった」
不意に語りだした桃里の声に、アシェルは何も言わずに静かに耳を傾ける。
「こことは比べ物にならないほど鬱蒼として、動物や妖もたくさん住んでいる山だった。…ある時、私は親父と山にいた。それはいつものことで、だから私も少し過信していた」
「…それで?」
「置いていかれた」
「置いていかれた?」
庭のように遊んでいた場所から更に深く入り組んだ山の中腹まで進んだ頃、それまで近くにいたはずの父が忽然と消えていた。
昼間とはいえ薄暗い、獣道すら曖昧な場所でしばらく泣きじゃくっていたものの、いよいよ迎えがこないと察した桃里は一人で山を降りることにした。
「一応訊くが、それは幾つくらいの話だ?」
「んー…七つくらいだったかな。ちょうどレオくらいだったと思う」
「子供じゃないか」
「子供だな」
でもな、呟いた桃里の声は愛おしそうで、まるでその時を思い出すように口角を持ち上げる。
「なんとか屋敷に着いた時にはもう散々だった。狼に追い回されて、烏に突かれそうになり、低級の妖に唆されそうになって。帰れたのは奇跡だと思った」
泣きながら屋敷に駆け込むと、出迎えてくれたのは晴人だった。
傷だらけ泥だらけの子供が死にものぐるいで生還したというのに彼は心配のしの字もなく、涼しい顔をしながら「汚い足で屋敷に上がらないでください」と言ったのは忘れられない。
「でも湯に入れられながらふと気づいたんだ。そういえば、追い回されはしたが獣や妖は手は出してはこなかった」
「どうしてだ?」
「親父の妖気が私に染み付いていたんだ」
泥と一緒に洗い流して綺麗な着物に着替えさせられてから気がついた。
置いていかれる直前まで一緒にいた父の妖気は、獣たちを寸前のところで押し留める結界になっていたのだ。
「しかも後から知ったことだけど、親父の眷属が付かず離れず側にいたらしい」
「つまり父君はわかっていて桃里を一人にしたのか」
「要するに仕置きだったんだろう。確かにその頃の私は調子に乗っていた。…今日だってそうだ。一人でも何とかできると、過信していた」
「桃里…」
そこまで話した桃里はひとつ大きな息を吐くと、おもむろにアシェルの肩に頭を預けた。
「大丈夫か?」
「少し眠いだけだ。…なぁ、アッシュ」
「ん?」
傷に触れないように抱き寄せてくれた手が思っていたよりも大きくて温かくて、桃里は安堵の笑みを零す。
「ありがとう」
すうすうと気の抜けた寝息が聞こえてきたのはそのすぐ後だった。




