第23話 エバンス邸
春も終わりを告げ、いよいよ初夏が訪れる頃。
麗らかな青空の下、柔らかな新緑と艶やかな花々が一部の隙もなく整えられた庭。
その高台にあるテラスで、柔らかな笑みを浮かべたはアシェルは内心頭を抱えていた。
「紅茶のお味は如何かしら」
目の前に座っているのはこの屋敷の令嬢、ミア・ローズ・エバンス。そしてアシェルの隣に座っているのが。
「トーリさん?」
音もなくカップを置いた桃里は我関せずとばかりに優雅に微笑んだ。
「とても美味しいです」
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時は遡ること一週間前。アシェルが桃里と城下町に下りセオドアの元を訪れた夜だった。
「招待状?」
「はい。ミア様から茶会の招待を承りました」
「…今はそれどころではないというのに」
執務室で頭を抱えて項垂れたアシェルに、イーニアスは困ったように眉尻を下げながらメイドの用意したお茶を注いだ。
「政務が溜まっているのも事実ですが、ミア様の件もその括りに入るのでは?」
「それはそうだが」
額を机にくっつけたままぐずるように首を振る姿は普段の彼とは異なっている。人目がない場所、特にイーニアスやセオドアだけになるとアシェルは年相応の顔を覗かせる。
「…政に加えて兄さんが戻る手配もしないといけないし、母様ともまだ話ができていないんだぞ。父は…論外だが。お祖父様の世話もリヴィや晴人たちに任せきりで、仕事は増える一方だ」
呻くアシェルのためにイーニアスは紅茶の横にクッキーの乗った皿を差し出した。
「おい…」
「はい、先程殿下が棚に仕舞われた"桃里様からのクッキー"です」
「なぜ今出す。というか勝手に出すなよ。それにまだ腹は減ってない」
「甘いものは別腹と言うでしょう」
それに放っておいたら後生大事にしまってカビだらけにしそうだから、とは言わずにイーニアスはそっと皿を勧めた。
「差し出がましいことですが、今は少しミア様のご機嫌も伺っておいた方が得策かと思います」
「どういう意味だ」
ちらりと目を上げるアシェルから視線を外したイーニアスは、机に捨置かれている招待状を手にとった。
「もちろん中は見ておりませんが、使いの者によるとミア様は殿下と……桃里様もお招きのようです」
「桃里を?なぜ?」
「そこまでは。ですが最近、城での彼女の様子が少しおかしいという報告はメイド達からも入っています」
概ね嫉妬の類とは思うが相手は公爵令嬢で、しかもアシェルの婚約者でもある。無碍にすることは許されず、ひいては桃里たちへもよくないことが起こるかもしれない。
「桃里には伝えたのか?」
「いえ、まだ。先程お戻りになられたところですから。ですが晴人様へはお伝えしておきました。『どうせ城にいても勉学以外にやることもない引きこもりの娘なのでお好きに』と言われました」
「あの人は少し…いや、だいぶそういうところがあるな」
桃里の世話役らしきあの青年はどこか主に気安いというか、雑な面が多い。
しかし当の本人たちがまったく気にしていないのだから、向こうの国ではそういうものなのかもしれないとイーニアスはすっかり慣れてしまっていた。
「わかった。桃里には俺から明日話す」
「必要であればドレスを用意させますが」
「それはリヴィだな。そういうのはあいつの方が詳しい」
「わかりました。ではオリヴィア様には私からお伝えします」
ずるずると億劫そうに起き上がったアシェルは桃里から貰ったクッキーを一口齧り、ふわりと目元を和らげた。
その姿を見てイーニアスは書類の束を纏めるふりをして小さく微笑む。
どこにでもあるような、洗練されたシェフの味とは違う庶民の手作りであるにも関わらず、あの少女から貰ったというだけで氷の瞳をあっさり溶かすのだ。
(不思議な娘だ)
凛とした涼しい空気を持つ異国の姫君。イーニアスとしては公爵令嬢よりも彼女の方が主の隣には似合うのにと、心の中だけで呟いた。
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二人が招かれたエバンス公爵家はゲイルシールド城に比べるともちろん劣るものの、貴族の屋敷としては最高クラスの規模である。
そんな屋敷を前にして桃里はげんなりとしていたが、背筋を伸ばして凛と立つ姿には一切の気後れもなく毅然としていた。
赤を基調としたドレスを身に纏い、薄く施された化粧。黒い髪はハーフアップに編み込まれ、繊細な細工が美しい銀色の髪留めで纏められている。
初めてヒールを履いたとは思えないほどスッと立ち上がり歩く所作は、着飾った人間を見慣れている城の者たちですら振り返るほどだった。
そんな桃里を送り出すときのオリヴィアのやりきった顔ときたら、一国の姫でありながらメイド長のような貫禄であった。
「着物より苦しいし、足も窮屈だ。なによりひらひらと鬱陶しい…こっちの女はみんなこんな苦行をしているのか。まるで修行僧だ」
当の本人は馬車に乗るなり、この世の終わりのようにぐったりとしていたが。
「着慣れた物でもよかったのだが…リヴィが舞い上がっていて止められなかった」
というのは建前で、桃里のドレス姿に浮ついているのはアシェルも同じであった。
「いや、訪問着は汚してしまっていたし、他に持ち合わせもなかったから助かってはいるが…私はシャツの方が好きだ」
あまりに辟易している顔に申し訳ないと思うものの、ドレス姿の桃里は着物の時とはまた違った美しさがある。本当は行きたくもなかった茶会だったが、内心では少し感謝してしまったほどだ。
この時までは、そう、柄にもなく少し浮かれていたのだ。
「ようこそ。お待ちしておりました、アシェル殿下。お忙しい中、我が屋敷まで足をお運びいただき光栄ですわ」
呼びつけて、もとい招いておきながらどこか卑屈な物言いをするのは公爵夫人だ。彼女はいかにも貴族といった艶やかな振る舞いで嬉々としてアシェルたちを招き入れた。
「私の方こそお招きに預かり光栄です。エバンス公爵夫人。公爵は本日はご不在で?」
出迎えが彼女しかいないことに少しだけ首を傾げる。
「ええ、主人は急用が入ってしまい…。本来なら殿下をお出迎えするのは主人の役目とはわかっておりますが、どうぞご無礼をお許しください」
大仰なリアクションに早くも疲れを感じつつ、アシェルはにこりと微笑むと緩やかに首を振った。
「いえ。今日は政の話をするつもりはありません。私はプライベートで、ミア嬢にお会いするために来たのですから」
そう優しい声音で紡ぐと夫人はまあっと口に手を当て感極まったように何度も頷いてから、ようやく気づいたようにアシェルの後ろに佇んでいた桃里に視線を向けた。
「あら、あなたがお噂の?」
「ええ、ゲイルシールド城に留学している東の国のご令嬢です」
「はじめまして。天使 桃里と申します。本日はお招きに預かり心より感謝申し上げます」
アシェルの相槌に桃里は半歩前に出ると、優雅な所作でドレスの裾を摘んで丁寧にお辞儀する。
この一週間こちらの作法をオリヴィアに叩き込まれたと言っていたが、その振る舞いはとても初披露とは思えないほど見事もので後ろにいたイーニアスも僅かに目を見張っていた。
「まあ、とても綺麗なお嬢さんね。ミアがご友人にと言った意味もわかりますわ。大したおもてなしもできませんがどうぞ、寛いでいってくださいませ」
「ありがとうございます」
言葉とは裏腹に品定めするような視線にも桃里は微笑みで返して、楚々と半歩後ろに下がる。
玄関を抜け前を歩く夫人の後に続いたアシェルが密かに振り返ると、それに気づいた桃里はべっと小さく舌を出した。
「何を言ってるかわからなかった」と言わんばかりの仕草に思わず吹き出しそうになるのを堪え、アシェルは前を向くと同時に王子の顔を作り直した。




