第122話 故郷への帰還
チチ、と鳥の囀りが聞こえた気がした。湿った土の匂いが鼻孔を擽り、頬からじんわりとした冷たさが伝わってくる。
瞼の裏に感じた光に、アシェルは重たい目を開いた。長い睫毛が青い瞳に影を差す。
ぽたりと手の甲に落ちた水滴を見つめてからしばらく、はっと覚醒したアシェルは弾かれたように起き上がった。
「っ…桃里!?」
つい先程までエバンス公爵邸にいたはずなのに、見渡すそこは緑豊かな山のようだった。
「桃里!」
立ち上がって辺りに視線を巡らせると、うっすら白んできた空の下で夜露に濡れて輝く黒を捉えた。
切り立った崖の先端で桃里はじっと佇んでいた。
「桃里…よかった。無事だったんだな。それにしても、ここは…」
超人的な身体能力を持つ彼女を相手に危険だと諌めることはしない。アシェルは泥濘んだ地面に足を取られないよう気をつけながら桃里の隣に並び、そして目を見張った。
桃里が見下ろすその先には、真上から見ると柵でぐるりと囲まれたちょっとした村のような集落があった。
一際目立つのは柵の切れ目にある紅い柱のようなもの。集落には小さな家のようなものが点在し、その中央と奥には大きな屋敷、そして屋根を覆いそうなほどの巨大な樹木も生えていた。
「ここは…まさか」
「ああ…」
靡いた黒髪の隙間から覗いた紅い瞳が、ゆっくりと細められた。風に煽られた木々がざわめき静寂を打ち消していく。
「私の故郷、――深山の里だ」
*******
上から見下ろしていた時はそれほど遠くに感じなかった山里も、実際に歩いてみるとかなりの距離があった。
「凄いな…ここが桃里の育ったところか」
アシェルが見上げたのは巨大な石柱の門だった。壁もなければ扉もない、縦横に組まれた不思議な形の石柱だ。
道の途中にぽつんとあるそこを潜ると、今度は崖からも見えていた朱色があった。近くで見ると形は先程の石柱と同じで、その左右には犬のようなこれまた不思議な石像が立っている。
『この先、何人たりとも通るべからず』
『この先、何人たりとも通るべからず』
怪訝な顔で見つめていると、どこからともなく地を這うような低い声が響いた。咄嗟に桃里を庇うように前へ出たアシェルの前に、黒い霧のような靄が広がっていく。
「っ…なんだ!」
アシェルの目に映るほどの瘴気なのか。しかしなぜだか悪いもののようには感じない。むしろどちらかというと神聖な、清らかな空気のようで。
「朝来!夜行!」
それでも警戒を解かないアシェルの背後で、その背に庇われていた桃里がおもむろに叫んだ。
ぴくんっと、獣の耳のようものが見えた。耳?
「お嬢!!」
「うわっ、ほんとだ、お嬢だ!」
黒い靄が晴れると同時に、目の前に現れたのは二匹の仔馬ほどもある大きな犬だった。
一匹は毛足の長い白い犬で、もう一匹は同じく毛足が長く色が黒く、しかし頭には角のようなものが生えている。
アシェルと桃里に駆け寄ってきた二匹はすんすんと鼻を鳴らしながら顔を上げて飛びかかり、そして二足で立ち上がった。
「なっ…!?」
目の前にいたはずの二匹の犬は、気づけば上背のある人間の男に変化していた。
「本当にお嬢だ!」
「お嬢が男を連れて帰ってきたぞー!」
イーニアスより背丈の高い白髪の男は興味津々といった様子でアシェルを見下ろし、黒髪の男は背後に向かって大声で吠えている。
「あー、もううるさい!朝っぱらからキャンキャン吠えるな!」
負けず劣らず大声で叫んだ桃里の声も虚しく、二匹、いや、二人は騒ぎながら門の中へと走っていく。
「あっ!おい!おまえら!門番が持ち場を離れるな!」
二人を追いかけていく桃里に、呆然としていたアシェルもはたと我に返って慌ててその背中に続いた。
おずおずと潜った朱色の門から広がっている柵の中はやはり上から見下ろした時よりも随分と広く、シルフィルドの最北の村と同じくらいの規模だった。
「お嬢だって!?」
「わー!ほんとだー!おじょーだー!」
「おかえり、お嬢ー!」
「あらやだよう、この娘ったら本当に男連れだよ」
「お嬢だぁ!食われてなかったかぁ!」
門を抜けると間もなく、桃里とアシェルの周りにわらわらと人(見るからに人じゃないものもいる)が集まってくる。まだ困惑しているアシェルに、好奇心旺盛な視線がまじまじと向けられた。
爬虫類のようなものや、虫らしきもの。鼠やイタチなど、獣っぽいものから、果ては食べ物や器物らしきものまでいて、その中には一見普通の人間もいた。
「もう、ちょっと!ちょっと待て!話は後でするからっ…親父と銀治郎はどこだ!」
「――あらぁ?桃里じゃないかい」
桃里の静止も聞かぬほど興奮しきった面々にすっかり囲まれてしまっていると、人だかりの向こうからやたらと艶っぽい声が割り込んできた。
「お菊!」
「なんだいアンタ、生きてたのかい。便りの一つもないもんだからてっきりもうおっちんだかと思ってたよ」
人垣を割って怠惰な足取りで歩いてきたのは、白い肌と長い黒髪のコントラストが印象的な泣きぼくろの女性だった。はだけた着物から覗く肢体は声音以上に艶めかしい。
「ふぅん…随分と色男を連れてるじゃないか」
桃里には見向きもせずにまっすぐアシェルを捉えた赤茶色の双眸が値踏みするように上下して、赤い唇と同じくにたりと歪んだ。
つつっと細い指先がアシェルの首筋に触れようとした瞬間、ぐいと間に入ったのは桃里だった。
「お菊!」
「おやまぁ。…ふふ」
睨みつけている桃里とは対象的に、女はおかしそうにからから笑うと手を叩いて振り返った。
「――ほらアンタたち!朝餉の用意をしな。朝来と夜行も、持ち場に戻んな!」
「ちぇー、せっかく面白くなってきたのに」
「無駄口叩かない!」
「ひぃ〜!くわばらくわばら〜!」
先程までの気怠げな娼婦のような所作が一転、ちゃきちゃきと指示を出す女にアシェルは完全に混乱していた。
「ほら、桃里。アンタらも風呂に行っといで。まったく小汚いったらありゃしないよ」
言われて互いの姿を見ると、確かにあちこち泥だらけの汗まみれで確かに見られたものじゃない。
「鉄鼠たち!」
「あーい!」
女が呼ぶと、人垣の奥から人間の赤ん坊くらいの大きさの鼠が群れをなして駆け寄ってきた。ぞわっとアシェルの背が粟立った。一匹一匹は可愛らしいが、群れになると絵面が怖すぎる。
「麦、苗。アンタらでこの旦那を世話してやんな」
「あいさっ!」
「こっちこっちー!」
「あっ、おい!ちょ、桃里!?」
鼠の群れに流されるように連れて行かれるアシェルがやっとの思いで振り返ると、桃里もまた同じくすっかり虚無の顔で鼠の群れに押し流されていった。
決死の思いで赴いた妖の国。その国での初日は見ての通り、波乱の幕開けとなった。




