第123話 深山の里
湯けむりが漂う広い浴場で、ようやく湯に浸かったアシェルはどっと疲れ果てていた。
押し流されるように連れてこられた広い浴場に驚いたのも束の間。鼠たちに汚れた服を剥がされるや否や、あれよあれよと髪を洗われて背中を流され、それはもう怒涛の勢いだった。
(鼠に湯浴みの世話をされる日がくるとは思わなかった…)
王家で育ったアシェルはそれなりに人に世話をされることには慣れている。小さい頃から使用人たちに囲まれ、身の回りの世話はすべてメイドがやってくれていた。
しかしあまりそれが好きではなかったアシェルは、最近では側に置くのはイーニアスだけで、身の回りのことは自分で行っていた。
(疲れた…)
はぁと重い吐息をついて湯に沈み込む。見上げたそこには曇天の空が広がっていて、そういえば屋外にあるのだと改めて思い出した。
数人で入っても十分に足が伸ばせる広い湯船に、少しとろみのある草の香りがする不思議な湯。
何もかもが突然で考えなければならないことは山ほどあるはずなのに、そんなことはどうでもよくなるほどにこの湯は心地良くて心身が癒えていくようだ。
「…不思議だ、体が軽くなった気がする」
「ここは湯治にも使われる薬湯だからな」
「湯治か…シルフィルドにも西の領地にも温泉があっ――」
しれっと返ってきた言葉につい答えてしまってから、アシェルは慌てて辺りを見渡した。当然姿はどこにもない。しかし今のは確かに桃里の声だった。
「桃里!?」
「ん?」
ばしゃっと水音を立ててアシェルは背後を振り返る。そこには成人男性の二倍ほどの高さの柵があるだけだが、確かに声はそちら側から返ってきた。
「な、何してるんだ!」
「何って、湯浴み。お菊に入れって言われただろ」
「いやいやいや、そうじゃなくって…」
いったい何がどうなっているんだ。混乱するアシェルに桃里はああ、と納得したようなのんびりとした声を出した。
「ここは元々でかいひとつの湯殿なんだ。そこに柵を作って女湯と男湯に分けた。母上がここに来たくらいの時に作ったって言ってたかな」
妖はあまりそういうのは気にしないから、とからから笑う桃里の言葉はほとんど頭に入っていなかった。
(つ、つまり…)
この柵の向こう側には今の自分と同じように、というか同じ湯に浸かった桃里がいるということだ。
(落ち着けるか!)
このままではせっかく癒やされたのに別の疲れが吹き出してしまう。とっとと上がってしまおう。そう決意したアシェルが湯から上がろうとした時、背筋にざらりと何かが這った。
「ッ!?…うわぁっ!!」
咄嗟に振り払おうとしてつるりと足が滑る。ばしゃんっと一際大きな音が響いたと同時に、「どうした!?」桃里の声が先程よりも鮮明に聞こえた。
「あ」
「あ」
湯けむりが漂う中で、二人の視線と声がばちっと重なる。湯殿の中でひっくり返るアシェルを見下ろすように、桃里が柵から身を乗り出していた。
「ごめんなしゃい、ごめんなしゃい…」
アシェルの眼前で正座をして、めそめそと泣いているのは一つ目の蛙のような妖だった。べろんと伸びた長い舌が板の間に落ちて、ちろちろと動いている。
「あっしも旦那にご挨拶しようと思っただけなんでやんす…」
めそめそめそめそ。大粒の涙を零す姿にさすがに胸が痛んできた(こちらは悪いことは何もしてないけれど)。
「そいつは"垢舐め"」
「ここの湯殿番をしてるんだ」
「垢舐めの好物は垢だから」
「水回りはこいつが掃除してくれてるよ」
口々に言いながらアシェルに着物を着せてくれているのは鉄鼠の麦と苗だ(他にも粟、稗、豆…とたくさんいるがさすがに覚えきれない)。
麦は短い灰色の髪をした少年、苗は同じ色の髪を頭のてっぺんで括っている少女だった。こうして変化した姿を見ると、先程までまったく見分けがつかなかった鼠たちが、今はちゃんと別人(人?)だとわかる。
そして目の前にはまだめそめそと泣いているアカナメ。
「アカナメ…」
だからさっきから床を舐めているのか。つまり自分の背中も床と同じだったのかと思うとアシェルは絶妙な気持ちになる。
「まぁ…もういいよ。俺も驚きすぎた、すまなかった」
「っだ、旦那ぁ〜!」
「うわっ!」
感極まったのか再びぼろぼろ涙を流して飛びついてきたアカナメを、「「せっかく着せたのにぃ!」」と麦と苗が一言一句ずれずに諌めた。
「ほらほら、お嬢はもう待ってるよ!」
「早く早く!」
アカナメをひっぺがした麦がぐいぐいと背中を押す。大きなカーテンを潜って廊下に放り出されると、そこには本当に桃里が待っていた。
淡い水色の丈の短い着物を着た桃里は、湯上がりで湿った髪をタオルで拭いながらちらりとこちらへ視線を寄越す。しかしアシェルは全力で顔を逸してしまう。
(気まずい)
何も言わない桃里にぐっと喉が鳴る。さっきのあれはアシェルを心配しての行動だったのだろう。しかし割としっかり見えてしまった。そしてたぶん、見られてしまった。
「あ」
「あ」
再び二人の声が重なった。しんっと、廊下が静まり返る。
「…あ、先…どうぞ」
「いや…アッシュが先に」
お互い譲りあったまま、また沈黙が流れた。なんでこんな時に限ってあの鼠たちは出てこないのか。今こそ目撃者としてあの情けない醜態を弁解してくれてもいいだろう。
とはいえ焦れたところで助け舟が来ないことはわかっていた。アシェルは意を決して顔を上げる。
「ごめん!」
「すまなかった!」
三度目。今度は謝罪の声が廊下に響き渡った。瞬く視線がどちらともなく交差する。二の句が繋げなかったアシェルより先に、桃里が頭を下げた。
「は、晴人にも、よく怒られてて。はしたないから止めなさいって、でもつい、いつもの調子で…やって、しまった…」
情けないとか見られたとか、見てしまったとか。そんなことばかり悶々と考えていた自分が恥ずかしくなる。
「いや…俺の方こそ、驚かせて…それから、その……色々、すまなかった」
まっすぐ謝罪をしてくる桃里にアシェルは自身への嫌悪感を覚えつつ、彼女に負けないくらい深く頭を下げた。
「な、なんでアッシュが謝るんだ」
「だから…それは、色々」
廊下の真ん中で向かい合い互いに頭を下げている絵面はなんとも滑稽で、思わず笑いが込み上げてくる。そしてそれは桃里も同じだったのだろう。どちらともなく吹き出した。
「アカナメに会ったよ」
「あいつは初めて見たものは何でも舐めるんだ。前に毒キノコを舐めて失神したことがある」
「毒キノコって妖にも効くのか?」
「さぁ。人によるんじゃないか?私は平気だった」
「桃里は何でも食べるからな」
「何でもは食べない!虫は駄目だ!」
「普通は虫なんて食べないから…」
他愛のない会話。くすくすと、顰めた笑い声が小さく響く。
「行こう、アッシュ。里を案内したい」
「ああ」
何もかもが突然で、考えなければならないことは山ほどある。けれど今は少しだけ、これまでの疲れを癒やしても許されるだろうか。
「その前に飯だな。それを食ったら親父たちの行き先を訊こう。まずはそこからだ」
「そうだな」
不思議な者たちがたくさん住む東の島国。その山間にひっそりとある"深山の里"。ここは桃里の生まれ育った場所で、そして、九尾の生まれた国。




