第118話 争えない血
城壁を超える桃里を見送ったクロトは、彼にして珍しく重い息を吐き出してバルコニーの柵にうなだれた。
「大丈夫だよ」
そんなクロトの隣では、少し寂しそうに目を細めたシロエが人影の消え去った暗い城壁を見つめている。
「お嬢なら、きっと大丈夫」
「…そうだな」
桃里が一人でゲイルシールド城を発つと告げてきたのは今朝のことだった。久々に三人だけになり城下へ降りた時、彼女ははっきりそう言った。
エバンス家を調べたのはクロトで、あそこに鍵があるかもしれないと桃里に教えたのも彼だった。
「だからって速攻行くと思わねぇだろ」
「何言ってるの、お嬢はお館様と暁緒様の娘なんだよ。行動力は並の妖以上だって知ってたにゃ」
「…わぁってるよ、んなことは」
当然二人は付いていくと言ったが、桃里は首を縦には振らなかった。今この城から妖に対抗できる戦力を減らすわけにはいかない。いくら封じられていて、おそらく狙いは桃里だとわかっても、まだ油断はできなかった。
桃里の狙いを知っているのはクロトとシロエ、そしてハロルドとエヴァだけだ。明日には皆にも説明しなくてはいけない。
そういう経緯もあってなのだろう、クロトにしては珍しく少し落ち込んでいるようだった。だからこそシロエはできるだけ明るく努めていた。
「上手くいくよ!きっと…ん?」
いつもと同じように脳天気な振る舞いをしていたシロエが、ぱたりと固まって目を見張る。
「んんん?ねっ、ちょ、ちょっとクロト!あれ!」
「…んー?」
「あれ!あれ見て!!」
柵に頬を押し付けてだらしなく落ちているクロトの腕をぐいぐい引っ張ると、億劫そうに顔が持ち上がり、そして瞳孔が開いた。
「あんのっ、馬鹿!」
クロトとシロエの視線の先には立派な城壁が変わらず佇んでいる。先程と違うことと言えばそこには二つ、新たな人影が現れことだ。
「若様とマシュー様だよね!」
夜目の利くシロエたちにははっきりと見えたその影は、城壁の下で何事か言い争ったような動きをしたあと二人揃って城門の方へ走っていく。
「あーあ…もう。行くぞ、シロエ」
「にゃ!」
「構わんよ」
アシェルたちを引き止めるために追いかけようとしたシロエとクロトを、渋い声が呼び止めた。
「オッサン!」
後ろに立っていたのはハロルドとエヴァだった。二人はまるでわかっていたかのようにバルコニーまで歩み寄ると、もういなくなった二つの影に目を細める。
「いいんだよ、クロト。行かせてやってくれ」
「でも…若もマシューもこの国には欠かせねぇやつらだろ。特に若はここの跡取りでも…」
「わかっておる。だが、惚れた女を一人で行かせる甲斐性なしに、この国は任せられんよ」
豪快に笑いながらあっさり言ってのけたハロルドにクロトは呆れ、シロエは困ったようにエヴァを見つめた。
「あの子は、あの子たちはそんなに軟ではありません。私の子らです。それにお義父様も異国に流れ着いたり、果ては呪われたり…ですが今も元気にこうして此処にいるのですから」
暗闇を見つめるアイスブルーがふっと柔らかくなる。その瞳は優しくもあり、そして誰よりも子供たちを信じる強い芯を宿していた。
「そう、か。…そうだな」
重かったクロトの空気が少しだけ軽くなる。それを感じたシロエは同じように微笑むと、そっともう一度城壁を見やった。
あの壁の向こうはもう、シロエたちの伺いしれない場所だ。それでもきっと大丈夫。
「絶対、お嬢たちは帰ってくるにゃ!」
せめてこの柔らかな月明かり、彼らの道を少しでも照らしてくれることを祈った。
*******
夕食の後、何か引っかかったアシェルは桃里のいる晴人の部屋へ向かっていた。はっきりと何が気になったかはわからないが、先程の彼女は少し様子がおかしかった気がしたのだ。
(もう変なことは考えてないだろうけど…)
けれども何となく、名残りの雪が溶けてしまうような。もう二度と、会えなくなってしまうような。胸騒ぎがして落ち着かない。自然と足が早まった。
「うわっ…!?」
「っ…!?」
廊下の角を曲がったところで正面からぶつかったのはマシューだった。彼も今はこの城の客室の一つを自室にしている。
「殿下!何してるの、こんな時間にこんなところで…あ、もしかしてトーリのとこに行くつもりだったの?」
早く桃里の元に行きたいのに面倒なやつに遭遇してしまった。苛立ちからアシェルの眉間の皺が深くなる。
「そうだが。…まさかおまえも」
「うん。夕食の時の様子が何だか引っかかってね」
その言葉にアシェルの苛立ちが僅かに収まる。さすが、妙なところで目聡い男だ。しかしこれで確信に変わった。やはり今夜の桃里は少しおかしかった。
「まぁいいか。殿下一人に行かせて万が一があっちゃいけないしね!ほら、行くよ」
「それは俺の台詞だっ…って、待て…!」
また好き勝手なことを言い出したマシューに反論しようとして、しかし不意に人の気配を感じたアシェルはその腕を引っ張って柱の影に隠れた。
「ちょっとなに…あ」
咄嗟に口を塞いだ手を剥がしてもがくマシューを抑えつけながら、アシェルはほとんど反射で隠匿の魔法をかけた。
(桃里…?)
あの着物は初めて会ったときのものだ。特に荷物らしいものは持っていないが、腰にはしっかりと刀が差されている。
(こんな時間にどこに行くつもりなんだ)
真っ暗な廊下の窓際。桃里は静かに窓の外を眺めていたかと思うと、次の瞬間、開け放ったそこから飛び降りた。
「とっ…飛んだ!?」
二階の窓から飛び降りた桃里にマシューが目を見張る。しかしアシェルはそんなことには目もくれず、開きっぱなしにされた窓に駆け寄った。
「馬鹿桃里…!」
「えっ、ちょっ、殿下!?」
窓枠に足をかけたアシェルを止めるようにマシューが飛びつく。瞬間、ぶわりと風が吹いた。
「えええ…!?落ちるー!?」
「勝手に付いてきて暴れるな!」
空を飛ぶまではできずとも、落ちる速度を和らげることくらいならアシェルにもできる。
無事に着地したアシェルは間髪入れずに駆け出すも、そこにもう桃里の姿はない。改めて彼女の身体能力の高さを思い知らされる。
「絶対、独りで行かせるかっ!」
桃里に比べれば劣るとはいえ、運動能力なら多少自信がある。なにより彼女を独りには絶対にしたくない。
(約束しただろう…!桃里…!)
光のない夜というのはここまで暗かっただろうか。先の見えない夜が桃里との距離を広げていく気がして、それでもアシェルはがむしゃらに食らいつく。
雲の隙間から差した月明かりが、背中を押してくれている気がした。




