第115話 再始動
ようやく迎えた朝日の元、桃里は気絶するように意識を手放した。離宮での戦いから休むことなく働き続け、眠ることすらままならずにいたのだから当然のことだった。
意識のない桃里を寝室へと運ぶと、やはりそこは整然としたままだった。主がいなくなった寂しさを残すベッドに桃里を寝かせると、彼女はまるで甘えるように枕に埋まって小さな寝息を立てていた。
もう今日は起きることがないだろう桃里の世話はシロエ(彼女もまた安堵の表情を浮かべていた)に任せて、アシェルはひたすら自分の仕事に専念した。
そしてその翌日、玉座の間に現れた桃里はすっきりとした明るい顔でみんなの前で頭を下げた。
「心配をかけて悪かった。もう大丈夫だから、今日からまたよろしく頼む」
光を取り戻し覇気を宿した声に、真っ先に駆け寄ったのはオリヴィアだった。泣きじゃくるオリヴィアに、申し訳なさそうな顔をする桃里の背中をジュリアがそっと撫でていた。
シロエとオリヴィア、そしてジュリアに囲まれて笑っている桃里を見つめて、ようやく肩の力が抜けたアシェルに声をかけてきたのはマシューだった。
「やっぱり彼女には笑顔が似合うね、殿下」
「そうだな」
「で、なんて言ってトーリを立ち直らせたんだい?」
不意に肩を組まれたアシェルは、つい「いっ…!」声をあげた。あの晩、桃里につけられた背中の引っ掻き傷にマシューの腕が当たったのだ。
「なに、どうしたの」
「…何でもない。というか馴れ馴れしく触るな」
無表情のまま肩に乗る腕を振り払うと、マシューは目ざとく何かを察したのか、赤い筋の走る手を取って広間の影にアシェルを引っ張った。
「…ねぇ、まさかとは思うけど、トーリにやましいことはしてないよね?」
「してるわけないだろッ!」
思わず荒げた声に、何事かと女性陣たちの視線が一斉に向いた。その中には当然、赤い瞳も混ざっていて、アシェルは咳払いとともにもう一度マシューの手を払い退ける。
「…弱ってる女に手を出すほど腐ってない」
「だよね。あんなにビビってた殿下がいきなりそこまでやるわけないよね、よかった」
「おまえ…俺のこと嫌いだろう?」
「当然でしょ。ボクはトーリが好きだから、しかたなくああしただけだもん。もう二度と敵に塩は送らないよ」
しゃあしゃあと言い切ったマシューは、あ然とするアシェルを放置して桃里の元に駆け寄っていく。
確かに今回はマシューに殴られなければ(物理的には殴られていないが)アシェルは踏み出すことができなかった。とはいえ、いつからあそこまで物を言うようになったのか。
「やぁ、トーリ。よく眠れたみたいで何よりだよ」
「ああ。マシューにも心配をかけた、すまなかった」
「気にしないでよ。紳士たるものレディーのことはいつだって心配してしまうものさ」
へらへらと常の調子で軽口を叩いては和やかに桃里と話すマシューに、アシェルは初めて危機感を覚える。あの男は存外に洞察力に長け、何より桃里が求める答えを一番早く見抜いていたのだ。
楽しげな桃里の笑顔も嬉しいはずなのに少しだけ気に入らない。そんな小さな嫉妬心からつい割って入ろうとして、しかし寸前でやめた。
(幸せになってほしい、もんな)
晴人の意思を継ぐなどと、そんなおこがましいことは思っていない。それでもその願いだけはみんな同じなのだ。
マシューたちに囲まれる桃里の後ろに、飄々と微笑みながらもどこか安堵したように佇む男の影があった。彼はまるで、彼女の背中を護るように。
それはほんの一瞬で、錯覚だったかもしれない。そうであってほしいと願うアシェルの心が見せたまやかしかもしれない。
(――晴人)
けれどもアシェルには、確かにそう見えたのだ。
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「お姉様ぁ!お元気になられて本当によかったです…!」
胸に抱きついてきてはわんわんと泣いているオリヴィアに桃里は眉をハの字に下げた。彼女の方がもっと酷い目にあっていたというのに、これほど心配をかけてしまったのが申し訳なかった。
「リヴィこそ、体はもう大丈夫か?」
「ええ!シロエちゃんがとてもよくしてくれたので…シロエちゃんもまだ辛かったでしょうに」
「あたしはもうピンピンにゃ!」
すっかり妖力を取り戻してたシロエはぐっと腕まくりをする仕草で復活を伝えていた。
「よかった。ジュリアも、もう大丈夫か?」
「はい。私は怪我もありませんでしたから」
あえてお互いにシンシアの名を出すことはなく、しかし少し寂しげに目尻を下げて微笑むジュリアに桃里は静かに頷いた。
それぞれの近況を軽く報告してからしばらく、ようやく落ち着きを取り戻したオリヴィアは、ふと思い出したように何かを取り出した。
「お姉様、こちらを」
おずおずと差し出されたのは紺地に赤い花の刺繍が施された小さな巾着袋だった。口を絞る紐は花と同じ赤い色で、普通の巾着より随分と長い。
「いつまでも晴人様をそのままにしておくのはと思いまして、わたしが作りました。…と言っても手芸は苦手で…ほとんどジュリアとシロエちゃんに手伝ってもらったんですけど」
見るとオリヴィアの指にはいくつも包帯が巻かれており、慣れない手で、短い時間で作ってくれたのだとわかった。
「ありがとう、リヴィ」
桃里はオリヴィアたちに背中を向けると、懐から取り出した乳白色の骨を一度撫でた。ずっと裸のまま持ち歩いていた骨を、巾着袋の中に入れる。
まるで誂えたようにぴったりと入ったそれは、小さなお守りのようになった。
「どうだろう」
首に巾着をかけて振り返った桃里に、オリヴィアは満足そうににっこりと微笑んだ。
「大きさもぴったりなようで、よかったですわ」
「ありがとう」
着物の袷に巾着をしまうと、少しだけ胸が温かく感じた。晴人の手はいつも少し冷たかったけれど、オリヴィアたちの想いに包まれた小さな骨が、今は優しい温もりに包まれれていると思うと嬉しかった。
「――してるわけないだろッ!」
しかし突然聞こえたアシェルの声に驚いたようにそちらを見ると、少し離れたところにいた彼は咳払いをして顔を逸した。
何事かとオリヴィアたちと顔を合わせるも、何やら言い争っている二人の様子に思わずみんなで吹き出してしまう。
「みんなが無事で、本当によかった」
明るい笑顔のオリヴィアたち、そして何やら揉めているアシェルとマシュー。
多くは望めなくても、すべての人を守れなくても、今この瞬間を守れたのだと思えば、ほんの僅かでも救われた気がした。




