第114話 暁の約束
まるで子供のように声をあげて泣き続けていた桃里が落ち着く頃には、夜も随分と更けていた。
「…落ち着いたか?」
「ん……」
魔法で冷やしたハンカチを目元に当ててやると、泣き疲れた桃里は素直にアシェルの膝に頭を預けてくる。
無防備な姿で身を委ねてくる桃里を愛おしく思いつつ、アシェルは静かに乱れた髪を撫で梳かした。
「……手、ごめん」
「手?」
痛いくらい枯れてしまった声に尋ねられ、すっかり忘れていたそこに視線を落とす。猫に引っ掻かれたような赤い筋が三本、手の甲に走っていた。
「ああ、これくらい平気だよ」
「……痛くない?」
「痛くないよ」
なるべく柔らかな声音を心がけながらあやすように髪を撫でると、安堵したのか少しだけ口角が緩んだ気がした。
どれくらいそうしていただろうか、静寂が続く。アシェルは何も言わず、さらさらと流れる髪を梳いていた。
「……たくさん、死んだ」
もう眠ってしまったかと思っていた桃里がぽつりと呟いた。
「シンシアや、他の使用人たち…それに、ミアや…アリスも……」
喉が痛むのかひきつった声で挙げられる名前を、アシェルは相槌を打つのみで黙って聞いていた。今の桃里は何か答えてほしいわけではない。ただ聞いてほしいのだと思ったからだ。
「それに、アシェルたちの父親も……」
ぴくりと、僅かにアシェルの眉が動く。今日まで誰も口には出さなかったが、誰もが思っていたことだった。現国王であり父でもあるルーカス。彼はもうきっと、生きてはいない。
あの離宮で九尾がその姿の一部を現した洞窟のような穴。あそこには元々寝室に繋がる扉があった。
そこがあのような様になったということは、例え生きていたとしてもおそらく、それはもう父ではない。人ではない何かになっているだろう。
撫でる手は止めないまま、つい無意識に窓の外を見つめて物思いに耽っていたアシェルの耳に、桃里の声がはっきりと届いた。
「――自分だけが、泣けないと思った」
ぐずっと洟を啜った声音にまた湿ったものが混ざる。桃里は強く握りしめた右手を胸元に寄せて、また小さく肩を震わせた。
「…もう誰も、死なせたくないっ……」
「っ……」
冷たいハンカチに熱が滲んだ。
「私がっ…もっと強ければ……誰も死ななくて済んだのにっ…」
「違う」
「っ私が、腑抜けだったから…みんなは…晴人は、死んだんだっ…!」
「違う…!」
咄嗟に体が動いていた。覆いかぶさるように震える身体を抱きしめると、ぽとりとハンカチが床に落ちた。
いつもより真っ赤に染まった瞳は悔やむように歪んでいて、そこにいつもの光はない。
「桃里に救われた者もいる!君が戦ってくれたから、多くの使用人たちも、俺たちも生きているんだ…!」
アシェルの言葉を拒むようにもがく桃里を、逃がすまいと強く抱き寄せた。
「ミアやエバンス家の人間も、桃里が祈ってくれたから解放された」
「でも死んだ…!」
「救ったんだ!」
背中に立てられた爪がざりっとシャツを裂く。感情が昂ぶり不安定になっているのか、桃里の姿がまた鬼の容姿へと変形する。
「…桃里は何も悪くない。戦ってくれたんだ。君も、晴人も。俺たちのために」
桃里の叫びはそのまま自分の叫びのようで、痛いほど胸に刺さる。護れなかったのは自分の方だ。桃里の背中を援護することしかできず、あの瞬間、飛び出すことすらできなかった。
「…もう、嫌だ…人が死ぬのは……大切な人がいなくなるのは…もう…いやだよ……」
拭っても拭っても果てることのない涙を止める術はなく、アシェルにはただ抱きしめることしかできない。
これ以上、痛みと後悔に泣き続けてしまったら、本当に桃里が壊れてしまいそうだった。
「…はるひと…晴人の、最期の声が…聞こえない……」
嗚咽にまみれた唇が喘ぐ。
「あ、あんな、にっ…いつも、うるさかったのに…あの、ときのっ、こと、目を閉じたら、何度も、思い出すのにっ……」
あの日からずっと虚空を見つめていた桃里の瞳が映していたものに、アシェルは思わず言葉を失う。もういないただ一人を求めて彷徨う手が虚しく宙を掻いた。
「晴人のっ…言葉だけが、聞こえない」
空を惑う手を捕まえて囲うように抱きしめた。こんなことしかできない己の無力さに嫌気がさして堪らない。しかしアシェルは思考は止めてはいなかった。
桃里が探し求めいる晴人の言葉。最期に残した彼の言葉。死の間際、愛おしい者にかけるとしたら、自分なら。
「"幸せに"」
「っ……」
激しく上下する背中をとんとんと叩きながら、アシェルは静かに呟いた。
「幸せに、なってほしい。俺ならきっと…そう願う」
そっと桃里の肩を押して体を離すと、見開かれていた瞳が揺れた。
『……桃里…、幸せ、に……』
果たして桃里に届いただろうか。本当に晴人がそう言ったかはアシェルにもわからない。それでも今の彼女が少しでも前を向けるなら、それこそが晴人の望みなのではないだろうか。
晴人はきっと自身を思って涙に暮れること望んではいないだろう。そんなことのために護ったわけでもないだろう。
「…晴人は、ここにいる」
桃里が握りしめているそこをそっと撫でた後、アシェルは自身の胸に手を置いた。
「晴人は桃里の、ここにいるから」
晴人だけじゃない。死んでいった者たちも、みんな誰かの心にいる。決して消えることはない。
「それに、俺たちはもう誰も死なない」
涙でぐしゃぐしゃになった頬に手を添えた。あまりにも熱い体温が、桃里がまだ生きていることを教えてくれる。
「俺は、死なない。桃里より先に、死んだりしない」
ぐっと桃里の喉が鳴り、そのまま抱きついてくる小さな体をアシェルはしっかりと受け止めた。
しとしとと降る雨のようにシャツを濡らす熱に、アシェルはようやく微笑んだ。
「――ああ、でも。俺も桃里に先に死なれるのは嫌だな」
また乱れてしまった紅い髪を撫でながら、アシェルはふと思案して、そしてそっと耳元に唇を寄せた。
「だからその時は、一緒に死のう」
「なっ…」
まるで内緒話をするように囁くと、がばりと桃里の顔が上がる。先程までとは違う、驚いたように開かれた瞳には少しだけ光が戻っていた。
「死ぬ時は、二人一緒だ。それまでは…一緒に生きよう、桃里」
自分でも驚くほどに柔らかい声で、しかしはっきりとそう告げる。国だとか継承者だとか、そんなことはどうでもよかった。ただ今は、今だけは、彼女と生きたい。
「…馬鹿っ……」
悪態を零した桃里の顔に、僅かにいつもの表情が戻った。
「――死んでからも、一緒だ」
「ふはっ…桃里の方が一枚上手だった」
解けた腕が背中に回る。それに応えるようにアシェルも桃里を抱きしめた。そこに言葉はもう不要だった。
傷付いた心を癒やすように、吹きすさぶ隙間風を遮るように。昏い夜が明けるまで、互いを護るように二人はただ抱きしめあっていた。
暁が、空を染めた。




