第113話 牡丹のうた
――緋色の牡丹を髪に挿し
――嫁御は真っ赤な紅を引く
――白粉たたいた頬染めて
――風舞い、花満ち、
――鳥が哭く
「はるひとぉ、もういっかい!」
「…もう三度目ですよ…。いい加減寝てくれませんか…」
「やぁだ!もういっかい!」
ぺちぺちと、紅葉の手で頬を叩くと晴人は大きな溜め息をつく。
「じゃないとねない!」
「寝ないですかぁ…」
紅い髪をぐりぐりと喉元へ押し付けると、短い角が刺さってぐえっと潰れたカエルのような声がしておもしろかった。
「しかたないですねぇ…もう一回だけですよ。それで寝なかったら、大鯰の旦那が来ますからね」
「ぴっ」
「いい子で寝ますか?」
腕の中で揺らされながらしばし大鯰との葛藤を経て、ぽつりと呟く。
「…もういっかい」
「はいはい…」
――緋色の牡丹を髪に挿し……
*******
「…嫁御は真っ赤な紅を引く――」
床に座り込んだまま桃里は乳白色の欠片を撫でた。あんなに大きかった手のひらも、広かった背中も、こんなに小さくなってしまった。
幼い頃は何度もせがんで歌ってもらった子守唄を最後に聞いたのはいつだっただろうか。
「白粉たたいた頬染めて…」
物心がついた頃にはもう当たり前のようにいた。夜行性の妖が多い深山の里で、それは父も例外ではなく。だから桃里はいつも晴人の部屋に忍び込んでは、眠りにつくまで歌をせがんだ。
「…鳥が哭く」
あの頃はお嫁に行く娘を喜び送り出す歌だと思っていたけれど、本当は嫁に出される娘との別れを惜しむ歌だとわかったのはいくつの時だっただろう。
「…とんだ歌を子守唄にしたものだ」
くつりと、喉が鳴る。晴人はどこであんな歌を覚えたのだろう。けれどあの頃は歌の意味なんてどうでもよくて、ただああして、せがむと少し面倒臭そうにしながらも歌ってくれる晴人の声が好きだった。
「…晴人」
――緋色の牡丹を髪に挿し
――嫁御は真っ赤な紅を引く
――白粉たたいた頬染めて
――風舞い、花満ち、
――鳥が哭く
*******
晴人の部屋の前でアシェルは大きく息を吐いた。ここ数日、桃里と二人きりになる時間はなかった。声をかけても躱されて、あからさまに二人になるのを避けられていた。
(イーニアスやジュリアとはいたみたいだが)
それが仕事の手伝いのためだということもわかっているし、立場上、二人が言及してこないとわかってのことだろう。そんなことは理解していたがそれでも憤ってしまう。
(…そんなに、頼りないのか。俺は)
―本当に、バッカじゃないの!―
脳裏にマシューの言葉が蘇った。
―彼女は笑ってるんじゃない、――泣いてるんだよ―
そうだ。頼りないのも事実で、逃げ続けたのも事実だ。あの空っぽの笑顔が、何も映していない瞳が、受け入れてもらえない拒絶が怖かったのだ。
以前もこうして、扉越しに一夜を過ごしたことがあった。あの夜も閉ざされた扉がまるで桃里の殻のように感じたが、心は側に感じられた。
けれど今はあの時とは決定的に違う。この扉はこちら側から開かなければ桃里の心には届かない。
ドアノブにかけた手が微かに震える。意を決して、扉を開いた。
「…ひいろのぼたんを、かみにさし……」
闇に閉ざされた部屋の中、僅かに差し込む月明かりの下から小さな声が聞こえる。
(歌…?)
慎重に一歩目を踏み出した足が何かに当たった。
「っ……」
歌が止まる。雲が流れて室内に徐々に光が増した。ぼんやりとした明かりに照らされた晴人の部屋は、物が散乱し見る影もなく荒れ果てていた。
「ッッ――…!」
その最奥で、桃里の紅い瞳が零れんばかりに見開かれている。頭から被る黒ずんだ濃紺の着物はあの日、晴人が着ていたものだ。
握り締めた右手を胸に寄せて、肩を上下させるほど呼吸を荒げている。
「…桃里」
「――来るなッ!!」
ざわりと、桃里の纏う気配が変わる。月明かりに輝いていた漆黒がみるみる紅く染まっていく。
「…フゥーっ、フっ……!」
まるで獣が威嚇するかのごとく、短い呼吸を繰り返す桃里に、アシェルはむしろ冷静になった。
(まるで…初めて会った時みたいだ)
こちらを見据えながら唸るように威嚇してきた少女。けれどもうあの時のように彼女が頼れる背中は、ない。
「桃里、大丈夫だ」
後退ろうにも壁が邪魔をしてそれ以上逃げ場はない。いつもの桃里ならば座ったままからでも飛び上がれるだろう。
なのにそれすらもままならないのか、怯えたように手近な物を投げつけてきた。闇雲に飛んでくる本や衣類がアシェルにぶつかり、鈍い音をたてて床に落ちた。
「俺は君と話したいだけだから…」
盾を失った少女にできること。
「――来るなッ!!」
ガリッと地味な音がして、鋭い痛みが走る。払うように薙いだ指が伸ばされたアシェルの手を傷つけた。
「…桃里」
つっと流れた血が腕に赤い筋を描いた。長い爪に掻かれた肌からぽつぽつと血が落ちる。
「……話をしよう、桃里」
痛みなど気にならなかった。目の前で傷つき怯える少女の痛みに比べれば、こんなものは些末なものだ。
「ッ、っ……!」
目を見開いて硬直した桃里を、アシェルはそっと抱きしめた。こんなにも細かっただろうか。こんなにも、弱々しかっただろうか。勇ましく刀を振るっていた桃里が、今はこんなにも小さく儚い。
自分の腕は、あの人のように頼りがいはないだろう。それでもこうして抱きしめることくらいはできる。痛みを分け合えることなら、できる。
「桃里」
もっと早く、こうしていればよかった。こんなにも一人ぼっちで、自分を傷けてしまう前に。こうして一緒に傷つけばよかった。
「泣いていい」
「っ……」
びくんっと桃里の肩が跳ねた。
「……泣いて、いいんだ」
月を割らんほどの慟哭。その響きはあまりにも悲痛で、ただただ哀しみだけに染まっていた。




