第110話 見えないこころ
五日前。激戦を繰り広げた離宮を脱出した一行は、玉座の間に集まっていた。
普段は王族が座して貴族が侍る厳かで特別な広間だが、今は誰もが疲れ切った顔で地べたに力なく座り込んでいる。
誰もが傷付き、くたびれていた。話にしか聞いたことがなかったが、戦場の野営とはこんな感じだったのだろうか。だとしたら屋根があるだけどれ野営より幾分もましなのだが。ほとんど停止した思考でぼんやりとそんなことを思う。
いつの間にか、太陽は月に交代していた。
「オリヴィア様はだいぶ落ち着いています」
衝立の奥で手当てと身の回りの世話をしていたジュリアの言葉に、ほっと安堵の空気が流れた。
玉座の間に簡易的に作られた寝台の上で、オリヴィアは静かな寝息を立てていた。腕には少し傷を負っていたが、命に関わるほどの怪我はない。
あまり瘴気の影響がなかったのは、エルダーを身に着けていたからだろうと桃里は言った。
「明日にはシロエ殿とクロト殿が戻ってくださると報せが入っております。ですから今は少し休みましょう」
「そうだね」
イーニアスの提案に、頷いたのはセオドアだ。
「女性陣はリヴィの元で。僕らはこちらで順番に休もう。まだ何が起こるかわからないからね」
「承知致しました。では私は王妃様を呼んで参ります」
「ああ、一応…まだ気をつけて」
「はい」
城に戻ってすぐ、エヴァだけは魔道部隊の元へ出向いた。残った兵士たちも含めて今後の采配をしたのは彼女だった。
休むことなく再び出ていくイーニアスに次いで、ジュリアも必要な物を足してきますと、揃って玉座の間を後にする。
広間に残されたのは眠っているオリヴィアと、セオドア。そしてアシェルと、桃里だった。
「…桃里」
離宮を出てから一言も話さなくなってしまった桃里は、今も女神像のある祭壇の隅に座り込んだまま、晴人の着物に顔を埋めていた。
「少し眠った方がいい。向こうに寝台があるから」
少し離れたところから声をかけるも、やはり顔が上がることはない。
開いてしまっているであろう傷の手当もしたかったが、今の彼女はまるで手負いの獣のように誰も寄せ付けようとしなかった。
それ以上かける言葉を見つけられず、立ちすくんでいたアシェルの肩を叩いたのはセオドアだった。
「…アッシュ。今は、そっとしておこう」
「……」
あまりにも突然の出来事だった。いつも桃里の側にいて、飄々と笑っていた底が知れない不思議な青年。しかしその存在感だけは、アシェルたちにも十分伝わっていた。
そんな晴人の、突然の消失。
アシェルたちでさえ受け入れられないのだ。桃里の心境は計り知れないものだった。
「明日にはシロエたちが来るから…それまでは」
しかしアシェルはその場を動くことはせず、セオドアの手を振り払って静かに桃里の側へ歩み寄った。
いつもならすぐに反応する彼女が、今は岩のように頑なでぴくりとも動かない。
(代わりになんて、なれるとは思っていない)
それでも、桃里を一人にはできなかった。
アシェルは祭壇の前に座り込むと、そのまま瞼を伏せて光を閉ざした。
考えなければならないことはまだ山ほどあるというのに、疲弊しきっていた体は睡魔に抗うことができない。気づけばアシェルは深い眠りに落ちていた。
*******
翌朝、目が覚めるとそこに桃里はいなかった。
「大丈夫、桃里ちゃんは外にいるから」
「外!?」
慌てて飛び出そうとしたアシェルを静止したのはセオドアで、曰く、桃里は死者たちの弔いの手伝いにイーニアスと出て行ったという。
「あんな状態でか!?見ていたならどうして止めてくれなかったんだ!」
「桃里ちゃんがそうしたいって言ったからだよ」
「でも…!」
掴み掛かりそうな勢いのアシェルの手を軽くいなして、セオドアは襟元を整えた。
「若、兄君」
そこに口を挟んだのはクロトだった。彼はいつも通りの淡々とした軽い口調で、軽く手招くように入口を指した。
いつの間に戻っていたのか、オリヴィアの側にはシロエもいる。最後に見た時は猫の姿だったが、人の姿に戻った今は随分と顔色もよくなっていた。
「ちょっといいか。たぶん、あんたたちには話しといた方がいいと思うから」
有無を言わさない雰囲気を感じ取ったアシェルは、先程までの憤りを失くした顔でセオドアを見やった。彼は何も言わずにただ頷く。
「ついてきてくれ」
言われるがままにアシェルとセオドアが連れてこられたのは中央塔で、中にいたのはエヴァだけだった。
他の魔道士たちは出払っているのか、エヴァはまるで何かを察していたように三人を招き入れた。
簡易テーブルの上には多くの資料や本が散らばっていて、エヴァは昨夜も眠ることなく今後のことを考えていたのだとわかった。
「それで、話というのは」
テーブルと同じ簡易の椅子は二脚しかないため、アシェルは立ったまま、クロトは塔の窓際に腰を下ろした。
見下ろした先には件の離宮。一時的とはいえ九尾を封じ、そして晴人が死んだ場所だ。
今は外れていた玄関扉を突貫的に立て付け直し、外壁を朔月の糸で囲うように覆ってから、戸口には幽斬り丸が突き立てられている。
結界術の使い手だった晴人を失った今、封印として頼れるものはあの小太刀しかなかった。風に吹かれた髪の隙間から覗く猛禽類を思わせる目が細められる。
「あの刀は、晴人が打ったんだ」
誰に急かされることもなく、しばらくそこを眺めていたクロトが、ぽつりと呟いた。
長い話になる。誰もが直感的に、そう思った。




