第108話 別れの刻
まるで足が凍りついたよう動けなかった。体から血の気が引いていく感覚。すべての音が消えた。
人は信じられないことが起こると本当に思考が停止するのだと、この時初めて知った。
「桃里」
鼓膜を揺らす優しい声。流水のように流れる黒い髪。白い頬を柔らかく持ち上げて象られた微笑み。
物心がつく前の朧気な記憶にすらないはずなのに、母だと一目で思ってしまった。
「おいで、桃里」
違う。あれは母なんかじゃない。母はかつて九尾と戦い、そして死んだ。わかっている。あれは母を食らった化物だ。頭ではわかっている、なのに。足が動かない。
「――桃里!!」
遠く聞こえた叫び声は誰のものなのか。それさえもわからないほど、桃里は目の前の人にすべてを奪われていた。
「――え………?」
それはほんの一瞬だった。
瞬きをする暇もなかった。視界が真っ黒に染まる。強い衝撃とともに叩きつけられた体が床に跳ねて転がった。肺から空気がなくなり、一拍遅れて激痛が走る。
瞬きをする暇も、なかった。胸の辺りにどろりとしたものが広がっていく。指先の感覚が消えゆく震えた手のひらでそこに触れると、べちゃりと嫌な音がした。
鼻を突くのはすっかり嗅ぎ慣れてしまった錆びと、少しだけ混ざった土の臭い。
「あ……ぁ……あぁっ……」
空気を震わせるほどの、しかし音にならない悲痛な慟哭が、響いた。
*******
「桃里」
知らない声に名を呼ばれ、桃里の体が反射的に止まった。知らない声、否。知っている。この声は。
「桃里」
九尾の能力。それは食らった者の姿を、能力を奪い寸分違わず模倣すること。
洞窟の向こう、晴人の結界の向こう側でその人は微笑んでいた。
緋袴の巫女姿に、長い黒髪。優しい微笑みは何度も夢に見た、夢でしか見たことのない母の容姿とまったく同じで。勝手な想像だと思っていた母は、確かにそこに存在した。
だからこそ桃里の心は怒りに震えた。あれは母を偽った九尾。母を食らい、多くの人を殺した災厄。凶悪な化物だ。
あまりのおぞましさに鳥肌が治まらないのに、なぜか足だけが動かない。
「おいで、桃里」
早く逃げないと。そう頭は警鐘を鳴らしているのに、名前を呼ばれるたびに頭がぼうっと痺れてくる。目が離せない、思考が、定まらない。
それまで動かなかったはずの足が、なぜか勝手に前に出た。
「――桃里!!」
一瞬だった、と思う。
床に転がりながら見上げた先。そこには桃里に覆いかぶさるようにしている晴人がいた。
「ごふっ」と嫌な音がして、ぼたぼたと赤黒い液体が零れ落ちてくる。
手に触れたそれはひんやりと冷たくて、けれど確かに生々しいほどに錆びた血の臭いがした。
おそるおそる、視線を下げた双眸が絶望に見開かれる。
「あ……ぁ……あぁっ……」
太い九尾の尾が、晴人の腹部に突き刺さっていた。
「ぐっ…ごほっ……」
ほとんど皮一枚で辛うじて繋がっている胴に構わず、晴人は力任せに容赦なく身を捩る。ぶちりぶちりと皮膚が破れる音が響いて、九尾の尾が黒く染まる。
口から泡立つ血を吐きながら、それでも彼は尾にしがみつくとぶつぶつと呪を呟いていた。
「やめろッ、晴人ッ…!やめろ…!!やめろ!!」
ほんの僅かに、振り返った晴人と目があった。慈愛に満ちた、優しい瞳。ずっとずっと、付かず離れず、いつも側にあった優しい眼差し。いつだってあった、大きな温もり。
「……ーー…、ーー、ー……」
「聞こえない!!聞こえないよ!!晴人!!やだ!!嫌だ!!やめろ!!やめてっ、やめてぇっ!!」
擦り切れて掠れた悲痛な叫びが喉を裂く。血の味が口の中に広がっても桃里は叫び続けた。なんで、どうして動けない。この腕は、この足は、肝心な時に役立たずだ。
晴人の眼差しが煌めいたのと同時だった。
獣か人か。どちらともつかない慟哭が、響いた。
何らかの術が発動したのだろうか。のたうち回る尾が再び洞窟に飲み込まれると、その入口が強く輝き五芒星の結界が作動した。
割り込む隙も、助ける余裕もなかった。あまりの恐怖にその場にいた誰もが竦んでいたのだ。
あの時、洞窟の奥に立っていた美しい女性は一言で表すならば、この世ならざる者の顔をしていた。
そんな中で、唯一飛び出していった、晴人。
「…桃里……?」
何が起こったのかまるで理解ができないアシェルは、動揺を隠せないまま濃厚な血の匂いを纏った桃里の元に歩み寄った。
しかし目を見開いたまま座り込んだ桃里の足元に晴人の姿はない。
あるのはどす黒い土の塊だけで、その上にはまるで抜け殻のように彼が纏っていた着物が落ちていた。
「……薄々…わかっていた」
混乱するアシェルたちのためではなく、桃里は自分に言い聞かせるためのように乾いた唇を開く。
「晴人は…いつも、少し冷たくて…。ずっと、死の匂いがしていたから……」
着物を手繰り寄せて抱きしめながら、もう片方の手で土を掻き分けた。ぐちゃりと、ほとんど泥に近い土の中から出てきたのは、小さな石のような欠片だった。
「呪術の、禁忌の中に…人を、蘇らせる術があると、噂で聞いたことがあった……」
シャツの裾で拭われた欠片はくすんだ乳白色をしていて、それが何なのかをアシェルは察してしまった。
「だから…いつか、こうなるような気はしていた…」
着物と一緒にその欠片、おそらく晴人の骨を握りしめた桃里は、大きく息を吐いてからすくっと立ち上がった。
桃里自身も多くの傷を負っていて、立つことすらままならないであろうにも関わらず、彼女は一人で歩き出す。
「――早くここを離れよう。あの結界もいつまで保つかわからない」
「…桃里っ」
「行こう」
振り返りもせず室内を出ていく桃里に、誰も声をかけることができなかった。
それほどまでに、背けられた彼女の背中はすべての者を拒絶していた。




