第107話 最後の作戦
無防備に横たわるオリヴィアを眼前に、一同は次の一手を必死に考えていた。
寝室に繋がる扉はもはや吹き飛び、暗い洞窟のような穴がぽっかりと口を開けている。
生臭い獣の臭い、響く唸り声、そして禍々しいほどの瘴気。未だ本体を現さない九尾だが、そこにいることは確かだった。
「迂闊に飛び込むのは危険です」
向こうも出方を伺っているのか、もしくは何か狙いがあるのか。動く気配はまだなかった。
「…あいつに魔法はどれほど効くと思う」
「呪術でさえ大して効くとは思えません」
そもそも何十人、下手をすると百人単位の呪術師が束になってやっとの相手だ。いくらまだ完全に封印が解けていないとはいえ、アリスやミアたちの憎悪と苦痛を食らった奴の力は想像もつかないものだった。
「…私が行く」
双方、重い沈黙が続く中で、ぐっと刀に手をかけた桃里を止めたのはエヴァだった。
「いけません」
「私には母の血が流れている。母にはできた、だったら…」
「そして死にました」
寝室の空洞を睨みつけたまま頑なに刀を離さない手に自身の手のひらを重ねたエヴァは、真っ直ぐな目で桃里を見据え、そして残酷な言葉を放った。
「アキオはあなたの死を望んでいません。もちろん、私たちも。あなたを犠牲に助かっても誰も嬉しくはありません」
エヴァの言葉に桃里の紅い瞳が僅かに揺れる。亡き母も彼女と同じことを言うのだろうか。ぐっと握り込まれた拳がゆっくりと解れた。
「――晴人、何か方法はないか。斃せなくてもいい、今はリヴィを助ける方を優先する」
桃里は低い声を絞り出しながら晴人を見上げる。しかし晴人は黙したままで、可不可はともかくいつもならすぐに返答する彼にしては珍しく一瞬だけ反応に遅れたように感じた。
「…なくはありません」
何事もなかったかのように視線をオリヴィアに向けた晴人は、口元に指を寄せて呟いた。その指先は幾重にも結界を張った裂けて赤黒く染まっている。
「若様とエヴァ様があの洞窟の中を凍らせる。九尾の状態を知る必要まではありません。ただ一室を凍結させる程度…できますか?」
「ああ、できる」
その意図を言及する暇などない。そこから敷かれた晴人の作戦に異を唱える者は、否、唱えられる者などいなかった。
「全員、位置へ!!」
セオドアの号令とともに、それぞれが壁伝いに散り散りになった。
相手は大陸一つを沈めることさえできる化物。小細工は一切通用しない、そう言った晴人の言葉の通り全面突撃しか手段はなかった。
洞窟の入口に結界の網を張った晴人は、次いでジュリアに護りの結界をかける。
俊足のジュリアが駆け出した瞬間、その後方に同じく結界を纏ったイーニアスが飛び出した。
アシェルとエヴァは号令の瞬間に硬質な氷の礫と、氷点下まで下げた雪崩のような吹雪を同時に洞窟へと叩きつける。その気になれば詠唱を省略しても高度な魔法を操れる母子だからできたことだった。
――ギィィィィィイイイ!!――
硝子に爪を立てるような不快な叫び声があがる。魔法とはいえ紡ぎ出されているのは自然を支配した物理的な力だ。
かすり傷程度でも怯ませることさえできれば。
退路を確保するセオドアは、全員の目となり室内の状況を把握して的確に指示を飛ばす。
「桃里ちゃん!」
セオドアの声に反応して二人が凍結魔法を止めた瞬間、桃里が洞窟の前に躍り出る。やはり晴人の狙い通り、洞窟の中から霜を纏った太い尾のような物が飛び出してきた。
その隙に、ジュリアがオリヴィアを抱き上げて、背後に続いたイーニアスが彼女を受け取る。
「保護しました!」
そのままジュリアは九尾を撹乱するように、呪符を貼り付けたナイフを桃里を狙う尾に目掛けて一斉に投げつけた。
――グッ、ギィィィア、アア!!――
ナイフが刺さった箇所から広がる文字が、尾の動きを鈍く遅らせる。晴人の施した血文字が呪符から尾へと次々に移り、赤黒い模様が巻き付いた。
「…ハァッ!!」
その一瞬を見逃さず、高く飛び上がった桃里は夜霧三日月を振り下ろす。ぶしゅっと、血飛沫のような瘴気が上がり一際大きな悲鳴が轟く。
「オリヴィア様はご無事です!」
言葉にも表情にも出さずにいたが、部屋を飛び出して容態を確認したイーニアスの声に全員が安堵する。
そしてイーニアスはオリヴィアを抱き上げたまま、屋敷から脱出するため全速力で駆け出した。
オリヴィアの救助という最大のミッションは一旦無事にクリアされる。あとは。
「ジュリア!引け!」
セオドアの号令にジュリアも室内を脱出する。
続くアシェルとエヴァも呪符によって作られた傷を目標に、絶えず氷と炎を交えた攻撃を続けながら徐々に部屋から後退していく。
「っ、もう、一発…!」
痛みにか、怒りにか、暴れ狂う尾を躱しながら、桃里はもう一閃とどめの一撃を叩き込んだ。
もはや悲鳴すらなくただ地響きを立てて落ちた尾が、ずるずると洞窟の中に戻っていく。何とか退けることには成功した。今はそれだけで十分だ。
「撤退だ!!晴人!!」
「御意」
最後に桃里が部屋を抜け、晴人が洞窟の入口に張った結界に更に霊力を注ぎ込んだ。その時だった。
「――桃里」
涼やかな、とても涼やかな鈴のような、あまりに場違いすぎる優しい声音が、戦場の中で静かに響いた。




