第106話 アリス
魔法が使えないセオドアは、それでもいざと言うときのために日々鍛錬を重ねてきた。剣の腕だけで言うならアシェルにだって負けはしない。
しかしこの敵がただの剣で倒せるわけがないこともわかっていた。
それでもセオドアは飛び込まずにはいられなかった。これは自分の役目だと、なぜだか本能的に察していたのだ。
「――駄目だ、兄上ッ!!」
桃里の声が遠く聞こえた。襲いかかってくる狐の群れに一閃叩き込むと、無効だと思われた物理的な攻撃に意外な手応えがあった。
「兄さん!!」
続いて飛び出そうとしたアシェルはしかし、桃里を庇っていて上手く動けなかったのだろう。
正直、助かったと思った。弟や母を危険に晒すわけにはいかない。幸い、イーニアスやジュリアも手が塞がっていてそうそうこちらには来れないはずだ。
狐を次々切り倒して、ついにセオドアはオリヴィアの元へ辿り着いた。
「…兄様…テディ兄様……!」
涙で濡れた瞳を揺らしてオリヴィアがセオドアに抱きつくと、ふわりと微かに紅茶の香りがした。それは甘い、まるでミルクティーのような優しい香り。
胸に顔を埋めて泣きじゃくるオリヴィアをぐっと剣を持った片腕で抱き寄せたセオドアは、静かに目を伏せて彼女の名前を呟いた。
「…リヴィ」
ぐらりっと、オリヴィアの体が傾いた。
「あ……ぁ……」
縋るようにセオドアに手を伸ばしながら膝をついたオリヴィアのドレスに、じわりと鮮血が広がった。
その胸に深々と突き刺さっていたのは藍色の小太刀、桃里が腰に帯びていたもう一振りだった。
「あの子はね、何かを強請る時しか、僕をテディとは呼ばないんだよ」
「…あああっ……テディッ……!」
絶叫が鼓膜を劈いた。
「…やはり、貴女が」
求め乞うように手を伸ばして床に倒れた彼女を無表情に見下ろしながら、セオドアは静かに呟いた。
「――オカアサン」
セオドアが剣を振りかざした瞬間、散るように道を開けた狐たちに、桃里はやはりと思った。一瞥した晴人も察していたように眉を顰めている。
あれはオリヴィアではない。狐たちが真っ先にオリヴィアを襲わないことも不自然だったが、それまで激しく牙を剥いていたそれが一瞬とはいえ引いたのもおかしかった。
あれはオリヴィアの皮を被り、セオドアをおびき寄せる餌だったのだろう。
しかしそんな彼女が今、胸を赤く染めて倒れていく。いつの間にすられたのか、桃里の腰から小太刀が消えていた。
「セオドア!」
ゆっくりと横たわっていくそれの前で佇んでいたセオドアを呼んだのはエヴァだった。
「大丈夫です。これは、僕の役目だから」
「駄目です、やめなさい!」
「……ごめんなさい、かあさん」
エヴァの静止にも振り返ることなく、小さな声で呟いたそれはどちらの母に向けてだろうか。
セオドアは胸に突き立てられたままの小太刀を引き抜くと、オリヴィアとアリスの顔を行き来し不安的に揺れる女の首筋に刃先を当てる。
(同じだ…彼女も、ミアと同じ…もう人ではなくなったモノ)
絶望に飲み込まれた女の顔を、セオドアは冷たく無機質なアメジストの双眸で見下ろしていた。
「例え生みの親だとしても…僕の家族を傷つける者は、許さない」
その一振りに容赦はなかった。
「…っテディィィィーーーーッ!!」
実の息子に見放された悲しみか、あるいは息子を奪われた恨みからか。
断末魔の叫びというよりは、母親の懇願のようにも聞こえた。
「………」
先程の狐よりも耳に残る悲鳴を残してゆっくりと地に伏したアリスを黙したまま見届ける。そんなセオドアの意識を引き戻したのは桃里の澄んだ声だった。
「っ兄上!離れて!」
小太刀を手にしたまま僅かに振り返ったセオドアの腕を、飛び出した桃里が引っ張った。
「ッ……!?」
切り裂かれたアリスの首筋から悲鳴とともに黒い霧が吹き出すと、先程までセオドアがいた場所を飲み込んだ。
「下がって…!」
全員を下がらせた桃里の前で、再び晴人が結界を張り巡らせた。一部の隙間もなく部屋の中に膨れ上がった靄はしかし、急速に消えていく。
否、消えたというよりは吸い込まれていくのだ。
靄はすべて寝室の奥へと吸い込まれ、そして綺麗になくなった。
「――リヴィ!!」
狐もアリスも、すべてが唐突に消え去った部屋の中央。先程も彼女がいたその場所に、オリヴィアは横たわっていた。
結界で隠されていたのだろうか、遠目には無事に見えるが近寄らないことにはその生死まではわからない。
――グッ……グル、ガッ……――
寝室からは獣が唸るような低い音。おそらくアリスを飲み込んだ者がそこにいる。
今度こそ、目の前に本物のオリヴィアがいる。それなのに飛び出せないことがもどかしい。
噛み締めた桃里の唇から、つっと血が流れた。




