第105話 離宮の澱
鬱蒼とする木々を抜けた先に聳え立つ離宮は、禁苑にあるハロルドの屋敷よりもずっと大きく城と変わらぬ豪奢な造りだった。
しかしそのきらびやかな太い梁や外壁も今はまるで腐食したように錆色に変色し、ひび割れた扉はほとんどが外れて傾いている。
「まるで誘っているようですね」
ぽっかりと黒い穴のように開かれた玄関口から先は一切の光が奪われたように真っ暗だった。
「灯りを」
先陣を切ったのはアシェルだった。手のひらに炎を灯したアシェルの隣に桃里、そしてセオドア、ジュリアが続いて、最後尾はエヴァ、晴人、イーニアスが並んだ。
外はまだ昼間だというのに、本来あるはずの窓の部分は黒色のインクで塗りつぶしたように日差しを遮っている。
ごとり、暗がりの中で何かが足に当たったアシェルは訝しみながら歩みを止めた。
「ッ…!」
灯りで照らすと、そこに転がっていたのは塾年の男だった。恐怖のまま絶命したのか光を失くした眼は見開かれ、手にしていた灯りが眼球に反射していた。
「…ローガン」
「知っている者か」
「ああ…父の側仕えだ」
ルーカスはこの離宮にもう十五年近くも籠もりっきりになっていた。オリヴィアが生まれてすぐ、ここに所在を移した彼はそれ以来、城へ戻ったことは一度もない。
そんな隔離された離宮でルーカスの世話を任されていたのが、この無残な死体となってしまったローガンと数人の使用人だった。
「ローガン。…申し訳ないことをしてしまいました」
痛ましい声を漏らしたエヴァはそっと彼の前に歩み寄ると、躊躇いなく膝を折ってこけた頬を撫でた。
彼はとても真摯で有能な、長年に渡り城勤めをしてくれていた家令だった。
だからこそなのだろう、ルーカスが離宮に籠もるようになった時にも誰もが引き受けたがらない中で、真っ先にその役目に名乗りを上げたのが彼だったのだ。
「このような場所で…必ず、迎えに戻ります」
ハンカチを顔に乗せて目元をそっと撫でてから、エヴァは緩慢に立ち上がった。きっともうこの離宮に生きている者はいないのだろう。
一歩進むごとに重くなる雰囲気は、単に心持ちの話だけではない。本能が拒むように遅くなる足を、誰もが叱咤して先に進んだ。
長い廊下を進んだ最奥にルーカスの寝室はひっそりとあった。
開け放たれた扉の奥は、それまでとは違って明るい光に満ち溢れている。
「…なんだ、ここは……」
荒れ果てた離宮全体とは打って変わって、元の状態と一切変わらぬ綺麗な室内は逆に不気味さを際立たせた。
動揺して佇む一行の目の前に、ソファーからふらりと立ち上がる姿があった。
「オリヴィア…!」
「…に、さま……」
随分と弱っているのか、すぐにまたソファーへ倒れ込んでしまったオリヴィアに、思わず駆け寄ろうとしたアシェルを桃里が止めた。
「桃里」
「……」
確かに迂闊に室内に入るのは危険だ。しかし逆に言えばそんな危険な場所にオリヴィアがいる。早く助けてやりたかった。
「アリスはどこです」
出方を伺い立ち止まってしまった息子たちを後ろに下げさせ、一歩踏み込んだのはエヴァだった。
「いるのはわかっています。出ていらっしゃい。話をしましょう」
このような状況下でも、エヴァの声は冷静でよく通った。
「…出てきませんね。まさかもう、ここにはいないのでしょうか」
背後に気を配りながら、イーニアスは警戒を強める声で呟く。隣にいるジュリアもまた、夜目を活かして後方を意識して見据えていた。
「――いや、いる」
腹を決めたように、桃里はわざと足を床に叩きつけて大きな音とともに室内に踏み込んだ。
その瞬間、部屋の更に奥、寝室の扉を破って無数の影が飛び出してきた。
ギャァーーーーーーーンッ!
耳障りなほど甲高い声が一斉に飛び交って室内で反響する。誰もが咄嗟に耳を塞ぐ中、桃里と晴人だけが前方へ飛び出した。
凄まじい速度で印を結んだ晴人が両手を前に突き出すと、見えない壁が生まれて影がぶつかる。
ギャインッと悲鳴をあげたそれらが、ようやく実態を表した。
「狐…!」
黒い靄掛かった姿だが、その形は確かに狐のように見える。
ギャァーーーーーンッ!
再び狐たちが鳴き声をあげる。船の汽笛を耳の横で鳴らされたような轟音が鼓膜を劈く。
「くっ…!」
バリッと、嫌な音を立てて晴人の結界にひびが入る。堪える手が震えて裂けた指先から血が滴った。
音を頼りにしているのか、狐たちは一心不乱に結界を破ろうと突進してくる。その行動から知能はあまり高くないと推測された。
「アッシュ!声だ!狐の声を封じろ!奴らは目が見えていない!!」
狐の鳴き声に負けないように、桃里が怒気を孕んだ声で叫んだ。これに実態はない。見た目は狐の体を成しているが、その性質は蝙蝠に近いようだ。
「俺が消音魔法を、母様は拡張魔法を!」
「ええ…!」
魔道士にとって言葉を封じられるのはもっとも忌避する。ゆえに魔道士対策として存在するのが消音魔法だった(もちろんこれを防ぐ魔法も存在する、どちらも高等魔法だ)。
素早い狐の足を止めるため、桃里が囮になり結界から引き剥がしてジュリアがナイフを投擲する。
剣を構えて盾になるセオドアとイーニアスの後ろで、アシェルが唱えた魔法をエヴァが補助して拡散した。
ギャッーーー、叫ぼうとした狐の声が空に散る。方角を失い混乱したように家具にぶつかり始めた狐たちを、桃里の刀が一掃していく。
「この奥にっ…――ッぁあ!!」
「桃里!!」
一足飛びに寝室へ飛び込もうとした桃里が、津波のように溢れた影に飲まれてアシェルの方へと押し返される。
「っう…。くそっ…キリがない」
抱き止められた桃里のシャツに、じわりと赤が滲んでいる。今の衝撃で傷が開いたのだ。
「…っ結界が、保ちません…!」
バリッとまた嫌な音がして、結界のひびがどんどん深くなる。このままでは全員が先程の桃里の二の舞だ。
「にぃ…さま……」
「オリヴィア!」
狐の群れの中央に取り残されてオリヴィアの怯えた声に、アシェルが視線を向ける。助けに行きたいのに、目の前にいるのに、狐がそれを許さない。
「――僕が行く…!」
それまでエヴァの側に控えていたセオドアが、唐突に桃里の横をすり抜けた。
「駄目だ、兄上ッ!!」
アシェルに支えられたまま桃里が必死で静止を叫ぶも虚しく、セオドアは勢いのまま狐の群れに斬りかかった。




