第103話 隠れた涙
訓練場の喧騒を遮るように立てられた衝立の裏で、ジュリアは赤黒く染まっていた桃里のシャツを丁寧に脱がせた。
まだ細く薄い少女の体には思わず目を背けたくなるほどの無数の傷が刻み込まれ、その激闘を語っている。
「…少し染みます」
なるべく痛みを与えないように丁寧に血を拭ってからゆっくりと消毒していく。幸いそれほど深い傷ではなかったが、裂かれた白い肌はあまりに痛々しい。
「傷が残らなければよいのですが…」
「平気だ。これくらいすぐ治るよ」
桃里がただの人でないことは、もうジュリアにもわかっている。現に今、目の前にいる少女の額からはその証拠のような角が生えているのだ。
「そういう問題ではありません。桃里様は女の子で、まだ子供なのですよ」
一通り包帯を巻き終えて新しいシャツを羽織らせてから、ジュリアは静かに桃里の背後に回る。そしてそっと、短く不揃いになった紅い髪に触れた。
少し癖はあるものの艷やかに伸ばされていた髪は、今や見る影もなく雑に切り落とされてしまっている。
「御髪も整えますね」
「ああ、ちょうど邪魔だと思ってたんだ。ばっさりいってくれ」
明るい声で笑う桃里の後ろ姿に、ジュリアは僅かに眉を寄せた。この年頃の女子ならば命の次に髪を大切にしていると言っても過言ではないというのに、彼女はそんなものには何の執着も持たないのだ。
「はい」
軽く櫛を通してみるも、血が付いて固まってしまっている。この状況では桃里の言う通り、切ってしまう他ないだろう。
作業用のハサミしかないことに申し訳なく思いながら、ジュリアは粛々と汚れた髪を切り落としていく。
先程までのざわめきが嘘のように静寂としていた。ハサミを入れる音だけが微かに響く。
「…ジュリアは、人を殺めたことがあるか?」
唐突に投げかけられた問に、ジュリアは思わず手を止めた。
「それ、は…」
ジュリアの本職は隠密だ。まだ年端もいかない頃からその道の者として育てられ、その職務上、当然手を汚したこともあった。
「…私は、初めて人を殺めた」
なんと答えていいかわからず戸惑っていたジュリアに、桃里はぽつりと呟いた。
見下ろした少女はその細い肩を微動だにさせることもなく、自身の両の手をただじっと見つめている。
「覚悟はしていた。ミアが人に手をかけてしまった時に。…殺すしかないと思ったから」
もはやあれを人と言ってもよかったのかと問われれば、ジュリアは否と答えるだろう。しかし最初から化物だったわけじゃない。確かに元は人間の、まだ僅かに幼さすら残る少女だったのだ。
「私は、桃里様のご判断に間違いはなかったと思います」
ミアは確かに人間だった。けれど彼女もまた、多くの罪なき人々を殺めた罪人と化していた。誰かが止めなければいかなかった。
「私は…桃里様のお陰で救われました」
元はと言えば自分が招いた失態だった。未然に防げたかもしれないのに、その僅かな失態のせいで二人の少女が無用な血に手を染めてしまった。
しかし桃里はそんな言葉は望んでいない。細い肩に力を入れて、凛と姿勢を正した彼女は謝罪も礼も求めていないのだ。
「ジュリアは、桃里様をお慕いしております」
背後からそっと抱きしめた体は、見た目よりもずっと細い。この世の穢れなど知らなかったであろう少女の体に、ひとつひとつ刻まれたその傷さえも、切なくて、そして愛おしく思う。
「今は私が隠していますから」
「……っ!」
ふるっと、強張っていた肩が震えた。
護ることも、助けることもできなかった。これは自分の不甲斐なさを誤魔化すための行為だと自覚はしている。
だったらせめて今だけは、声もなく静かに涙を流すこの優しい少女の盾になれたらと。
ジュリアは桃里が泣き止むまで、小さな背中を抱きしめていた。
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地獄絵図のように屍が転がる廊下を歩きながら、晴人はあまりの静寂に眉を顰めた。
まるで戦が過ぎた戦場のように死の臭いしかしない城内で、ふと足を止める。
そこは玉座の間と呼ばれる部屋で、室内にはシルフの女神像が飾られている。
「なんだ…?」
死者の城と化したゲイルシールド城内で、そこだけが確かに人の気配がする。訝しみながら大扉に手をかけた。
長らく開けていなかったかのごとく錆びついたような音を立てて開かれた扉から、はらはらと銀色の細い糸が降ってくる。
手についたそれは見た目はか細い蜘蛛の糸だった。
「――晴人」
真っ暗な室内の奥で何かがきらりと光ったかと思うと、次に飛び出してきたのはまだ幼い子供、朔月だった。
「朔月」
「よかった、晴人、来てくれた。外はもう平気?」
「おまえ、いつの間にこんなところに…」
晴人の腰の高さくらいしかない子供は、僅かに安堵を浮かべながら奥の方を指差した。そこには常と変わらず女神像が聳え立っている。
その下には何かを囲うように巨大な糸の塊が作られていた。
「逃げ遅れた人たち。ここ、強い妖気が残ってて、鬼女は入れなかったから」
確かにここは長く幽斬り丸が安置されていた部屋だ。本体を持ち出しても百花の妖気は消えることなく、変わらず強い結界となったのだろう。
「よくやりました。…廊下は、間に合わなかった方たちがいますが。朔月、彼らを外へ案内できますか?」
「できるよ」
こくんと頷いた朔月の頭を撫でる。その感触はどこか幼い頃の桃里を思わせた。
「ではここは任せます。外まで行けばセオドア様たちがいますから」
「はい」
女神像の方へ向かい、糸を解していく朔月を見届けてから晴人は玉座の間を後にした。皆それぞれが己の役目を果たしている。
そして自分の役はこれからなのだ。
エヴァと合流するために再び足を踏み出した晴人は、延々と続く死者の道を一人歩きはじめた。




