第102話 笑顔
虚空を睨みつけたまま地面に転がった首は憑き物が晴れてなお、ついに元の顔に戻ることはなかった。串刺しになり動かなくなった胴の方は、イーニアスの指示により丁寧に降ろされる。
ふらり、桃里の体が傾いた。
「――っと…」
「大丈夫か」
「うん」
咄嗟に支えた細い体は幾度なく見直しても血まみれで、シャツの裂け目からはところどころ痛々しい傷が垣間見える。
冷静さを取り戻すとその姿はいっそう痛ましく思え、そして酷く自責の念に駆られた。
「ジュリア!」
「はっ!」
命じるより先に応急処置の用意をしていたのだろう、手に大きな道具箱や桶を持った部下を率いてジュリアが駆けつけてきた。
「桃里の手当を頼む」
「承知しました。…さぁ、桃里様、こちらへ」
隠密数人を引き連れて、ジュリアが桃里を衝立の影へと連れて行く。あの混乱した状況でいつの間に用意していたのか、よくできた部下を持ったと改めて思う。
「ここからは、俺たちの仕事だな」
とりあえずひとつ問題が片付いた。しかしまだ気は抜けない。元凶は未だにこの城の中にある。
「おーおー、随分と派手にやったもんだなぁ」
アシェルが気を引き締め直した時、背後から久しく聞いていなかった軽い声がかけられた。
「…クロト!」
肩をすくめながら歩いてきたのは庭師のようなラフな格好をした少年、今は北の街にいるはずのクロトだった。
「どうして此処に…」
「まぁ色々あってさ。ああ、ほらこれ」
そう言ってクロトが持ち上げて見せたのは一匹の三毛猫だ。にゃーと力なく、しかし少し笑うような音で鳴いたのはシロエだった。
「晴人の結界は張り終えた。狐憑きはこの城からは出られないだろうぜ」
「そうか…よかった」
「それからあいつらだけど」
クロトはまだ騒然とする使用人たちに視線を向ける。
「孤児院にオッサン…ハロルドがいる」
「お祖父様が戻っているのか…!?」
「ああ。ったく、馬車をぶっ飛ばして此処までくるのは結構大変だったんだぜ」
凝り固まった肩を解すような仕草をしたクロトは、使用人たちを見つめる双眸を細めていた。
「ハロルドの転移魔法を使ってあいつらをノースプレインへ送る。城が落ち着くまでブレイク領が受け入れてくれる手筈になってる」
「全員を…!?」
「此処に比べりゃちっと狭いだろうけどな、あいつらも安全な方がましだと思うぜ」
「だがもし敵が紛れ込んでいたら…」
「それはないだろ。なんせ」
クロトの視線がゆっくりと城へと移される。
「狙いはすべてここにある。その為に新たな結界も張ったわけだし、孤児院にはブレイク家の魔道士たちもお嬢のエルダーもあるからな」
「…そうか」
クロトたちが転移魔法ではなくわざわざ最北から馬車で移動をしたのは、アリスの逃げ場を作らないためだったのだろう。
自分たちが知らないところで動いてくれていた祖父やブレイク家の存在が、今のアシェルには何よりも心強い。
「俺が誘導する。若はこれを」
シロエを片手に抱いたまま、もう一方の手で差し出されたのは藍色の小太刀、玉座の間に納められていた幽斬り丸だった。
「返すよ。こいつのために貸してくれてたらしいからな」
アシェルはクロトの腕の中にいるシロエを見下ろした。
城を覆うほどの巨大な結界を施すという大役を、自ら申し出てくれたのはシロエだった。しかし彼女は瘴気に当てられてかなり弱っていた。
この小太刀はそんなシロエのために一時的に預けてほしいと晴人から頼まれたもので、アシェルは当然それを受け入れた。
「さてと、それじゃあ行くか」
「クロト」
踵を返して歩き出したクロトを呼び止める。
「ありがとう」
しかし彼は振り返らずに、ひらりと手を振るだけに留めて使用人たちの方へと歩いていった。
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彼が現れたのはシロエが一人、晴人の結界を張るのに奔走していた時だった。
曇り空のせいか、木漏れ日すら差さない鬱蒼とした薄暗い木々の下。
「…いっ、つ……」
「…見つけた」
「……!!」
逆光のせいで姿もまともに見えない人影がシロエをじっと見下ろしていた。その人を見上げたシロエは喘ぐように唇を震わせる。
「クロト…!」
「よう、久しぶりだな」
差し出された手を取るや、シロエは溢れる涙を堪えることも忘れてクロトに抱きついた。
「リヴィ様がっ、攫われて…!」
「…ん」
「だから、あたしが、晴人様の結界を張るって、言ったのに…!」
自分自身が情けなくてしかたがない。こうしてクロトに泣きつくことさえおこがましいことだと言うのに、頼もしい仲間の姿にシロエはついに声をあげる。
「ったく、にゃーにゃーうるせぇなぁ。だったらやりゃあいいだろうが」
「…ふにゃ」
「なんのために俺が来たと思ってるんだ」
バサッと大きな翼が広がり、周りの木々を揺らした。
「張るんだろ、結界。行くぜ」
「…うん!」
震えていた足に気力が戻った気がした。目に強い光を宿したシロエは大きく頷き、手にしていた小太刀を握り直した。
一人で背負う必要などないのだ。頼り頼られ、護りきればいいのだから。
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真っ赤に染まっていた視界が、何もない黒に塗り変わる刹那。
最期に見えたのはまるで太陽のように輝くプラチナブロンド。そしてその奥にある、氷のような冷たい瞳。
大好きだった。
本当はとても優しいのにそれを見せない不器用なところも、いつも澄まされた整った顔立ちも、差し出してくれた小さな手も。
ずっと、あの凍った瞳に笑いかけてほしかった。雪解けを迎えた春のような甘やかなその微笑み。
だからそれが自分ではない、別の者に向けられていることが許せなかった。
それくらい、大好きだった。本当に。
柔らかく微笑みながら、あの甘いテノールに優しく名前を呼んでほしかったのだ。
――祓い給え、清め給え――
凛と、涼やかな音が鼓膜に届いた。それは望んだ声ではなかったけれど、体中で沸き立っていた血が鎮まるような澄み渡った音だった。
(ああ……)
自分にも、想う相手をただ愛して、安らぎと癒やしを与えることができたならば。それが例え一方的な恋心だったとしても。
ただそっと、彼の心に寄り添えていたら。
「…どうか、安らかに」
こんなにも愚かで醜い自分にさえ、安寧を祈ってくれている。彼女のように強く優しい人間になれたのならば。
(…笑いかけて、くださったのかしら)
もうそれさえも、知るすべさえないけれど。
三日月が煌めくその瞬間、ミアは薄っすらと微笑んだ。
例えもう届かなくとも、本当に…本当に、あなたのことだけを、お慕いしておりました。




