少し落ち着く
店の中の空気に、少しずつなじんできた頃。
モチオは、ふと立ち止まった。
何かを見ていたわけではない。
ただ、歩いて、見て、また少し止まって――
その繰り返しの中で、気づいたことがあった。
さっきよりも、呼吸が楽になっている。
肩に入っていた力も、いつの間にか抜けていた。
(……落ち着く)
小さく、そう思う。
言葉にするほどではないけれど、
確かにそこにある感覚。
ここに来たときの、ほんの少しの緊張は、もうほとんど残っていなかった。
モチオは、近くの棚に手を伸ばす。
今度は、迷いはなかった。
そっと触れて、持ち上げる。
木でできた、小さな飾り。
軽くて、あたたかい。
手の中に収まる感触が、自然だった。
少し眺めてから、ゆっくりと元の場所に戻す。
その動きも、もうぎこちなくはない。
音も、ほとんどしない。
ただ、そこに“戻る”だけ。
モチオは、そのまま軽く息を吐く。
自分の動きが、この場所に合ってきている。
そんな気がした。
ふと、カウンターのほうを見る。
カリーナは、変わらずそこにいる。
何かをしているわけでもなく、
ただ静かに、この空間の中にいる。
その姿を見ていると、
ここにいることが、ますます自然に感じられた。
モチオは、少しだけ考える。
言葉にするかどうか。
ほんの小さなこと。
でも、それを口にすることで、何かが少し変わる気がした。
「……名前、聞いてもいいですか」
声は、思っていたよりも静かに出た。
それでも、この空間では、ちゃんと届く。
カリーナは、少しだけ目を瞬かせる。
それから、やわらかく笑った。
「カリーナ」
短い答え。
それだけで十分だった。
余計な説明も、飾りもない。
その名前が、この場所にすっとなじむ。
モチオは、小さくうなずく。
「カリーナさん」
声に出してみる。
その響きは、どこかやわらかかった。
初めて呼んだはずなのに、少しだけ馴染んでいる。
カリーナは、軽く首を振る。
「そのままでいいよ」
少しだけ、言葉を足す。
「カリーナで」
押しつける感じではない。
ただ、そういう距離でいい、と伝えてくる。
モチオは、少しだけ迷ってから、うなずく。
「……カリーナ」
呼んでみる。
その音が、この空間の中に、やわらかく広がる。
カリーナは、ほんの少しだけ目を細める。
それが、答えだった。
モチオは、小さく息を吸う。
今度は、自分の番だった。
「ぼくは、モチオです」
少しだけ間を置いて、言う。
名前を出すのは、簡単なことのはずなのに、
どこか特別な感じがあった。
カリーナは、うなずく。
「モチオくん」
その呼び方は、自然だった。
無理がない。
まるで、最初からそう呼んでいたみたいに。
モチオは、その音を聞いて、少しだけ安心する。
名前で呼ばれる。
それだけで、ここにいる理由が、ひとつ増えた気がした。
ちりん。
小さく、ベルが鳴る。
風が、ほんの少しだけ通り抜けたのかもしれない。
その音が、会話のあとに、静かに重なる。
モチオは、耳を澄ませる。
やっぱり、やわらかい音だった。
カリーナは、何も言わない。
でも、その沈黙は、居心地が悪くない。
むしろ、会話の続きのように、そこにある。
モチオは、ゆっくりと店の中を見渡す。
さっきまでと同じ場所。
同じ雑貨。
同じ光。
それでも、どこか違って見える。
名前を知ったことで、この場所との距離が、少しだけ近くなった。
モチオは、そのことに気づく。
ここは、ただの店ではない。
ただ通り過ぎる場所でもない。
少しだけ、自分の居場所に近づいた場所。
そんな感じがした。
(……いいな)
また、小さく思う。
この空気も。
この時間も。
そして――
ここで呼ばれた、自分の名前も。
モチオは、軽く息を吐く。
そのまま、静かに立っている。
何もせずにいる時間が、苦にならない。
それどころか、少しだけ心地よかった。
ここにいる。
それだけでいい。
そう思える場所が、ひとつ増えた。
モチオは、そのことを、ゆっくりと受け止めていた。




