再訪
その通りに、また来ていた。
理由は、やっぱりはっきりしない。
来ようと決めていたわけでもないし、
用事があったわけでもない。
気づいたときには、足がこの方向へ向いていた。
それだけだった。
モチオは、通りの入り口で、ほんの少しだけ立ち止まる。
見慣れたわけではない。
でも、昨日とは少し違う。
初めて来たときの“知らなさ”が、ほんの少しだけ薄れている。
石畳。
並ぶ店。
やわらかな光。
そのひとつひとつに、うっすらと記憶が重なっている。
モチオは、小さく息を吸う。
空気の中に、あの匂いがある。
パンのやわらかな甘さ。
土の静かな匂い。
遠くの潮の気配。
昨日と同じようで、少しだけ違う。
それでも、ちゃんと“ここだ”とわかる匂いだった。
モチオは、ゆっくりと歩き出す。
足音が、小さく石畳に溶ける。
その感覚も、少しだけ覚えている。
前よりも、自然に歩けている気がした。
通りの中に入る。
人の気配が、やわらかく混ざる。
遠くで、かすかな話し声。
どこかで、何かが動く音。
それらが、前よりも少しだけ近く感じられる。
モチオは、通りの奥を見ながら歩く。
目的地は、はっきりしていない。
けれど、足は自然と、あの場所へ向かっていた。
あの店。
あの扉。
あの音。
ちりん。
まだ聞こえていないはずなのに、
記憶の中で、音が先に鳴る。
モチオは、少しだけ歩く速さをゆるめる。
急ぐ理由はない。
でも、少しだけ、その場所に近づいていることを感じていた。
やがて、見えてくる。
通りの並びの中に、静かに沈んでいる店。
昨日と同じ。
でも、まったく同じではない。
知っている場所として、そこにある。
モチオは、店の前で立ち止まる。
扉を見る。
木の質感。
小さな傷。
なじんだ取っ手。
全部、昨日と同じ。
それなのに、今日は少しだけ近い。
“知らない場所”ではなくなっている。
モチオは、軽く息を吐く。
昨日みたいに、長く迷うことはなかった。
ほんの少しだけ間を置いてから、手を伸ばす。
取っ手に触れる。
ひんやりとした感触。
それも、少しだけ覚えている。
そのまま、ゆっくりと押す。
扉が、静かに開く。
ちりん。
ベルが鳴る。
今度は、予想していた音。
それでも、やっぱりやわらかい。
聞いたことがあるのに、
ちゃんと新しい音だった。
モチオは、一歩、中へ入る。
空気が、少しだけ変わる。
やわらかく、落ち着いた空気。
昨日と同じはずなのに、
少しだけ“戻ってきた”感じがする。
「いらっしゃい」
声がする。
カリーナの声。
モチオは、少しだけ顔を上げる。
カリーナは、カウンターの向こうにいた。
昨日と同じ場所。
同じ立ち方。
同じ空気。
それなのに、違和感はまったくない。
むしろ、そのままでいてくれていることに、少しだけ安心する。
モチオは、小さくうなずく。
「……こんにちは」
声は、昨日よりも少しだけ自然に出た。
カリーナは、やわらかく笑う。
「こんにちは」
それだけのやりとり。
長くは続かない。
けれど、十分だった。
モチオは、店の中を見渡す。
昨日と同じ景色。
棚。
雑貨。
光。
それでも、少しだけ違う。
“知っている場所”として見えている。
モチオは、ゆっくりと一歩、歩く。
床の音が、小さく鳴る。
その音も、もう違和感はない。
店の中に、自然に溶けていく。
(……来てよかった)
心の中で、そう思う。
強い気持ちではない。
でも、確かにそこにある。
ここに来たことが、間違いではなかった。
それが、はっきりとわかる。
モチオは、近くの棚に目を向ける。
昨日見たガラス細工が、同じ場所にある。
光を受けて、静かに色を変えている。
それを見たとき、
モチオの中で、何かが少しだけつながる。
昨日の時間と、今の時間。
別々ではなく、ちゃんと続いている。
モチオは、小さく息を吸う。
空気が、やわらかく胸に入る。
ここにいることが、自然に感じられる。
それは、ほんの少し前まではなかった感覚だった。
カリーナは、何も言わない。
でも、その沈黙は変わらずやわらかい。
“また来たこと”を、特別に扱わない。
それが、逆にちょうどよかった。
モチオは、軽くうなずく。
誰に見せるでもない動き。
けれど、その中に、小さな確信があった。
――ここには、また来る。
理由は、やっぱりいらない。
でも、それでいいと思えた。




