【第20話】目覚め
最初に戻ってきたのは、音だった。
ピ、ピ、ピ……。
ずっと聞こえていた、あの音。メモリーシティでも、屋上でも、核心領域でも、意識の底に届き続けていたあの音が、今は耳のすぐそばにあった。
規則正しく、静かに、確かに。
次に戻ってきたのは、重さだった。
腕が重い。脚が重い。まぶたが、鉛のように重い。
今まで感じたことのない種類の重さだった。
メモリーシティの中では、体はもっと軽かった。記憶の中を歩いても、疲れはあっても、この重さはなかった。これは、現実の重さだった。
それから、匂いが戻ってきた。
消毒液の匂い。メモリーシティにずっと混じっていた、あの匂い。ゲームセンターには似合わないと思っていた、あの匂いの正体は、これだったのか。
ゆっくりと、身体を動かそうとした。最初は動かなかった。もう一度試すと、わずかに開いた。
光が、細い隙間から入ってきた。眩しくて、脳の奥まで刺さるような眩しさで、反射的に目を閉じた。しばらく、そのままでいた。
呼吸を意識したのは、久しぶりの感覚だった。
息を吸うたびに、空気が肺に入ってくる。その感触が、なぜか新鮮だった。
もう一度、まぶたを開いた。白い天井が見えた。継ぎ目のある、白い天井。知らない天井だ。
塗料が微かに剥げた場所。蛍光灯の光を反射する、無機質な白。カーテンの向こうから自然光も差し込んでいて、二種類の光が混ざって病室を照らしていた。
病院だった。
遠くから、足音が聞こえた。廊下を歩く複数の足音。それから、誰かの声。内容は聞き取れなかった。ただ、人がいることがわかった。
世界は、続いていた。俺が意識を失っている間も、世界は続いていた。誰かが廊下を歩いて、誰かが話して、蛍光灯が白く光り続けていた。そのことが、妙に、温かかった。
扉が開く音がした。足音が近づいてきた。
看護師が来た。それからまた一人。声が増えた。
「わかりますか」
わかる、と言おうとした。声が出なかった。喉が乾いて、ひりひりとした。かわりに、わずかに頷いた。それだけで、周りの空気が変わった。慌ただしさの中に、安堵が混じった。
やがて、家族が来た。
誰かが、手を握った。節くれだった、大きな手だった。微かに震えていた。父の手だと、すぐにわかった。何も言わなかった。ただ、その手を握り返した。それだけで、目の奥が熱くなった。
夕方になった。カーテンの向こうの光が、橙色に変わっていた。
慌ただしさが去って、病室に一人になっていた。
ピ、ピ、ピ……。モニターの音だけが、変わらず続いていた。
右手を胸の上に置いた。心臓の鼓動が、手のひらに伝わってきた。規則正しく、確かに、打っていた。モニターの音と、鼓動が、重なって聞こえた。
生きてる。
その事実を、もう一度確かめた。
胸の奥に、温かい何かがあった。
めもりん…
めもりんの声はもう聞こえなかった。姿も見ることはできない。
ただ、確かに胸の奥にめもりんを感じた。
形は変わっても、ずっとある。そう言っていた言葉が、今になって、体の中から感じられた。
「……永遠」
声に出して、言った。掠れた声だった。久しぶりに使う喉が、うまく動かなかった。それでも、ちゃんと言えた。自分の名前を、自分の声で。
その瞬間、目の端から、何かが流れた。
拭おうとして、止めた。
拭わなくていいと思った。これは、ここに戻ってきた証だった。向き合えなかった全ての時間を、ようやく受け取れた証だった。
しばらく、そのまま天井を見上げていた。橙色の光が、少しずつ紫に変わっていく。
完全に夜になった。廊下の足音が、少なくなっていた。
俺は目を閉じた。眠れないと思っていたけど、体は正直だった。意識が、ゆっくりと沈んでいく。今度は、メモリーシティには行かなかった。ただの、眠りだった。深くて、静かな、本物の眠りだった。
眠りに落ちる直前、頭の中にケンタの顔が浮かんだ。「今度こそ、ちゃんと話そう」。手紙の言葉が、胸の奥で響いた。
行かないといけない。結婚式に、行かないといけない。向き合わないといけない人が、まだいる。話さないといけないことが、まだある。
それだけで十分だった。それだけで、明日が来る理由になった。
ピ……ピ……ピ…………。
モニターの音が、遠くなっていく。規則正しく、静かに、確かに。眠りの中に溶けていきながら、その音はまだ聞こえていた。




