【第21話】おかえり
朝の光だった。
カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。メモリーシティの様な作られた光ではなく、透き通った光だった。
天井を見上げた。
昨日と同じ、白い天井。塗料の剥げた場所も、蛍光灯の位置も、何も変わっていない。だけど、昨日より少しだけ、見慣れた気がした。
体を動かした。
まだ重かった。だけど、昨日よりは動いた。右手を持ち上げると、点滴のチューブが揺れた。腕の内側に、針の感触がある。まだしばらくは、ここにいることになるのだと思った。
窓の外から、鳥の声が聞こえた。
病院の中にいても、外の世界は続いていた。鳥が鳴いて、風が吹いて、光が動いていた。
午前中に、検査があった。
体を起こした。ゆっくりと。看護師が支えてくれた。
久しぶりに、重力を正面から感じた。上半身を起こしただけで、頭がくらりとした。それでも、座っていられた。
窓が見えた。
青空だった。
雲が少し浮かんでいて、風に流されていた。ゆっくりと、少しずつ、形を変えながら動いていた。
メモリーシティの空には、継ぎ目があった。作られた青だった。
外の空には、継ぎ目がない。どこまでも続く、本物の青だった。
しばらく、ただそれを見ていた。
午後になった。
面会時間が始まって、母が来た。昨日より落ち着いた顔をしていた。それでも、椅子に座るなり、しばらく何も言えなかった。俺も、何も言えなかった。
母が帰ってから、しばらく一人でいた。
廊下の音が聞こえた。足音。話し声。ワゴンが転がる音。病院の日常が、扉一枚の向こうで続いていた。
ぼーっとしていると、突然扉が開いた。
「やっと起きやがったか、このやろう」
ケンタだった。
声は、変わっていなかった。気がする。
スーツ姿だった。仕事を抜け出して来たのか、ネクタイを少し緩めていた。髪が少し長くなっていた。それ以外は、記憶の中のケンタと同じだった。
その隣に、ユキがいた。
白いコートを着ていた。花束を両手で抱えていた。少し緊張したような顔をしていた。それでも、目が合うと、かすかに笑った。
二人が、病室に入ってきた。
俺は、ベッドの上で体を起こしたまま、二人を見た。
何から言えばいいのか、わからなかった。
謝るのか。説明するのか。ただ、ありがとうと言うのか。
何も出てこなかった。
ケンタが、ベッドの横の椅子を引いた。乱暴な引き方だった。だけど、座ってから、少しだけ顔が柔らかくなった。
「招待状、返事がないと思ったら……まさかこんなことになってるなんて、聞いてねえよ」
「……ごめん」
「ごめんじゃねえよ」
ケンタが、ため息をついた。
昔と同じため息だった。呆れているような、それでいて心配しているような。
ユキが、花束をサイドテーブルに置いた。白と黄色の、小さな花束だった。病室に、花の匂いが広がった。消毒液の匂いとは全然違う、生きている匂いだった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
廊下の音が、扉越しに聞こえていた。モニターが、変わらず鳴っていた。花の匂いが、病室に満ちていた。
沈黙は、重くなかった。
メモリーシティで経験した沈黙と、同じ種類の沈黙だった。言葉がなくても、そこにいる。それだけで伝わることが、ある。
「結婚式」
先に口を開いたのは、ケンタだった。
「来るか」
まっすぐな問いだった。
怒りでも、試すような気持ちでもなかった。
俺は、ケンタを見た。
昔と同じ目だった。真剣な時だけ見せる、あの目だった。
「行く」
声が掠れていた。喉がまだうまく動かなかった。それでも、ちゃんと言えた。
「絶対に、行く」
ケンタが、少し目を逸らした。
窓の方を見た。
口の端が、わずかに動いた。
ユキが、小さく息をついた。花束の方に視線を落として、それからまた俺を見た。
「おかえり、永遠くん」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
めもりんが言った言葉と、同じだった。
だけど今度は、現実の声だった。現実の人間が、現実の病室で、俺に向かって言っていた。
「……ただいま」
掠れた声で、答えた。
謝罪も、説明も、まだ何もできていなかった。話さないといけないことが、まだたくさんあった。向き合わないといけないことが、まだ残っていた。
でも、今日はこれで精一杯だった。
三人でいる時間が、しばらく続いた。
たいしたことは話さなかった。ケンタが仕事の愚痴を言った。ユキが式場の話をした。俺はほとんど聞いているだけだった。それでも、声が病室に満ちていた。
面会時間が終わった。
二人が帰り支度をした。
ケンタが立ち上がって、椅子を元に戻した。それから、少し間を置いてから、俺の方を向いた。
何か言おうとして、やめた。
代わりに、軽く頷いた。
俺も、頷いた。
それだけだった。それだけで、十分だった。
ユキが、扉の前で振り返った。
「花、また持ってくるね」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。廊下の向こうに消えていく。
病室に、静けさが戻った。
花束が、サイドテーブルの上にあった。白と黄色の小さな花が、夕方の光の中で静かに立っていた。
日が暮れていく。
窓の外の青が、少しずつ濃くなっていく。
俺は、窓を見ていた。
空に、雲が一つ浮かんでいた。さっきより形が変わっていた。風に流されながら、ゆっくりと端の方へ動いていた。
向き合わないといけないことが、まだある。話さないといけないことが、まだある。怖いことも、まだある。
でも、今日ここで、ケンタと目が合った。ユキの花束が、隣にある。
それだけで、明日が来る理由になった。
夕暮れの光が、病室に差し込んでいた。
花の影が、壁に伸びていた。
ピ、ピ、ピ……。
モニターの音が、変わらず続いていた。
窓の外の空が、どこまでも青かった。
「俺は生きる」
―― 完 ――




