【第18話】永遠に
また、屋上に戻ってきた。
夜の空気。冷たい風。錆びたフェンス。
俺自身の形をした影が、フェンスの前に立っている。顔がない。だけど、こちらを見ていた。
めもりんが、隣に浮かんでいた。
光が、さらに薄くなっていた。今にも消えそうなくらい、透き通っている。
「戻ってきたね」
「ああ」
「答え、見つかった?」
「……まだわからない。でも、大丈夫」
めもりんが、静かに頷いた。
俺は、影を見た。
影が、口を開いた。
あの夜の、俺の声だった。
『俺はもう終わりだ』
「……」
『お前は何のために来た』
「それを、今から考える」
『考える?まだわかってないのか』
「わかってない。でも、もう大丈夫だ」
影が、揺れた。
俺は、夜の街を見渡した。
フェンスの向こうに、光が広がっている。
あの夜、この光を見ながら何を思ったのか。
(終わりにしよう)
そう思った。本当に、そう思った。
だけど。
「めもりん」
「うん」
「おまえが生まれたのは、あの夜だって言ってたな」
「うん」
「俺が屋上に立った瞬間に、生きたいという気持ちが生まれて、おまえになったって」
「そうだよ」
「じゃあ……あの夜の俺は、死にたいと思いながら、同時に生きたいとも思ってたんだな」
「うん」
俺は、その事実を、ゆっくりと受け取った。
あの夜。フェンスの前に立ちながら、どこかで叫んでいた声があった。
死にたいと思う自分と、それでも生きたいと思う自分が、同じ場所にいた。
「……俺、なんで生きたかったんだろ」
呟いた。
答えを探して、頭の中を探した。
ケンタの顔が浮かんだ。
あの夕日の教室。ほんの少しだけ動いた、口の端。まだ許せてないけど、話は聞いた。そう言ったケンタの顔。
ユキの手紙が浮かんだ。
「俺たちはやっぱりお前に祝福されたい。今度こそ、ちゃんと話そう」
ハルカのブランコが浮かんだ。
「やっと止まってた時間が、動き出した気がするよ」
父の顔が浮かんだ。
「……不器用な親だったな」
全部、この修復世界の中で起きたことだった。現実では、まだ何も変わっていない。それは本当のことだ。
だけど。
「俺、向き合えたんだ」
声に出して、言った。
「ずっと逃げてきた。向き合えなかった。でも、ここで初めて、ちゃんと向き合えた」
影が、揺れた。
「それが……俺の中にあった、生きたいという気持ちの正体なのかもしれない」
「どういうこと?」
めもりんが、静かに聞いた。
「向き合いたかったんだ。ずっと、本当は向き合いたかった。ケンタにも、ハルカにも、父さんにも、ユキにも。でも、怖くて逃げてきた」
「うん」
「向き合えないまま終わりたくなかった。それが、あの夜の俺がまだ生きていたかった理由だったんじゃないか」
言葉が、夜の空気に溶けた。
しばらく、静寂が続いた。
風が吹いた。
さっきより、少しだけ、温かい気がした。
「でも」
俺は、続けた。
「それだけじゃない」
「……うん」
「ゲームを作りたかった。本気でやれなかったけど、今でも作りたいと思ってる。夢が消えたわけじゃない。諦めたふりをしてただけで、消えてなかった」
影が、また揺れた。
「ケンタの結婚式に行きたい。ちゃんと祝いたい。あいつが幸せになるのを、ちゃんと見たい」
「うん」
「ユキにも、ちゃんと話したい。あの時向き合えなかったことを、現実でもちゃんと伝えたい」
声が、震えた。
だけど、途切れなかった。
「父さんの話を、もっと聞きたい。建築家になりたかった話を、ちゃんと聞きたい」
「うん」
「まだ、やりたいことがある。会いたい人がいる。話したいことがある」
俺は、影を見た。
「それが、俺が生きたい理由だ」
完璧な答えじゃなかった。
きれいにまとまった言葉じゃなかった。
だけど、本当のことだった。
「完全じゃなくていい」
めもりんが、静かに言った。
「完璧な理由なんて、誰にもないんだよ。ただ、本当のことを言えた。それで十分だよ」
手のひらに、光が集まった。
光は強く光りだし、辺りを煌々と照らし始めた。
影が、揺れ始めた。
『そ、それでも、現実は変わらない』
「これから変えていく!」
『お前に、できるのか』
「わからない…でも、やってみる!!」
『また、逃げるかもしれない』
「そうかもしれない。でも、その都度しっかり向き合うことの大切さを知った!」
影が、大きく揺れた。
『……怖くないのか?』
「怖い」
俺は、はっきりと言った。
「怖い。現実に戻るのが怖い。また失敗するのが怖い。また誰かを傷つけるのが怖い。全部、怖い」
「……」
「でも、怖くても向き合えるって、ここで学んだ!おまえが、教えてくれた!」
影の輪郭が、ゆっくりと薄れ始めた。
顔のなかった部分に、何かが浮かんだ。
俺の顔だった。
あの夜の、俺の顔だった。
泣きそうな顔だった。
怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。
ただ、疲れ果てて、それでもまだどこかに希望を持っていた、あの夜の俺の顔だった。
「……お疲れ、俺」
俺は、影に向かって言った。
「よく頑張ってた。ずっと逃げてきたけど、それでも生きてた。それだけで十分だ」
影が、光に変わった。
静かに、穏やかに。
爆発するような光じゃなかった。夜が明けるような、ゆっくりとした光だった。
影の粒子が、夜の空に溶けていく。
ひとつひとつ、星のように散らばって、消えていった。
《記憶修復完了》
《修復率+5%》
《現在の修復率:100%》
静寂が、広がった。
屋上に、俺とめもりんだけが残っていた。
空が、変わっていた。
厚く垂れ込めていた雲が、少しずつ晴れていく。雲の切れ間から、星が見えた。
「……終わったのか」
「うん」
めもりんが、静かに言った。
「お疲れ様、未来くん」
俺は、空を見上げた。
星が、少しずつ増えていく。
「めもりん」
「うん」
「おまえのおかげだ」
「違うよ」
めもりんが、首を振った。
「未来くんが、自分で向き合ったんだよ。私はただ、隣にいただけ」
「そのおかげで頑張れた」
めもりんが、少し黙った。
その顔が、また歪みそうになった。
「……泣くなよ」
「泣いてない」
「泣きそうだろ」
「……うるさい」
めもりんが、小さく笑った。
いつもの笑顔だった。
だけど今は、いつもより少し、大人びて見えた。
「ねえ、未来くん」
「なんだ」
「目覚めた後も、ちゃんと向き合っていける?」
「わからない」
正直に言った。
「また逃げるかもしれない。また誰かを傷つけるかもしれない。また後悔するかもしれない」
「うん」
「でも、向き合い方を知ることができた。怖くても、ちゃんと向き合えるって、ここで知った」
「うん」
「だから、たぶん、大丈夫だと思う」
めもりんが、頷いた。
空が、また少し明るくなった。
夜明けが、近かった。
「また会えるか?」
「形は変わるけど、ずっと君の中にいるよ」
「そうか」
「未来くんが生きたいと思う気持ちが続く限り、私はいなくならないから」
俺は、めもりんを見た。
薄くなった輪郭。透き通った光。
それでも、確かにそこにいた。
「行こう」
俺は、屋上に背を向けた。
扉の方へ、歩き出した。
めもりんが、最後にもう一度だけ言った。
「おかえり、永遠永遠くん」
足が、止まった。
「……永遠」
その名前が、胸の奥から浮かんできた。
本当の名前。
ずっと忘れていた、本当の自分の名前。
「……そうか。俺の名前は」
「うん」
「永遠だ」
光が、世界を包んだ。




