【第17話】屋上の記憶
一歩、足を踏み出した。
スニーカーの底がコンクリートを叩く、乾いた感触。鼻腔を突くのは、冷え切った夜風と都会の排気ガスの匂いだ。あの夜と、同じ匂い。
ここは、あの夜の屋上。
今までのように、過去の自分の体に意識が潜り込むわけではなかった。俺は、リストラを告げられたあの日のまま、ボロボロのスーツを着た今の俺のまま、この場所に立っている。
視界の端に、ホログラムが静かに浮かんだ。
《ステージ:屋上の記憶》
《目標:あの夜の真実を受け入れてください》
「……めもりん」
「うん」
隣に並ぶめもりんの声は、風に溶けてしまいそうなほど微かだった。
俺は、めもりんを見た。
核心領域に入った時よりも、さらに透き通っている。輪郭がほとんど見えないくらい、薄くなっていた。
胸が、締め付けられた。
めもりんは俺自身の、生きたいという気持ちが形になったものだ。俺が諦めれば、この光も死ぬ。俺の中の最後の希望が、今、消えかかっている。
「一緒にいる」
めもりんが、静かに言った。
「ああ」
俺は、屋上を見渡した。
古びたコンクリートの床。錆びたフェンス。換気口。煙草の吸い殻が、隅に溜まっている。
全部、見覚えがあった。
あの夜、俺はここに来た。
意識の奥底で、止まっていた映像が動き出した。
会議室の蛍光灯が、白く光っていた。
上司が、資料を手に持って立っていた。淡々とした声だった。感情がなかった。
「誠に遺憾ながら、業績低迷に伴いまして、希望退職者を募ることになりました。対象者の方には、個別に通知をお送りしております」
封筒を受け取った。
自分の名前が、そこにあった。
望んで入った会社じゃなかった。夢を諦めて、ゲーム会社への就職が全滅して、最初に内定をくれたから入っただけだった。それでも五年間、続けた。毎日をこなし続けた。言われた通りの資料を作って、言われた通りのプレゼンをして、笑顔を貼りつけて。
嫌いじゃなかった。好きでもなかった。ただ、こなしていた。
それすら、失った。
映像が切り替わった。
アパートの部屋。夜。
蛍光灯の光が、狭い天井を照らしている。
俺は、ベッドに腰を下ろしていた。スーツのまま。ネクタイも外していなかった。
頭の中で、記憶が次々と流れ込んできた。
ゲーム会社の就活が全滅した日。父の沈黙。ケンタとの喧嘩。ユキとのぎこちない日々。ハルカから目を逸らしていた放課後。夢を諦めたあの夜。
全部が、一本の線でつながっていた。
向き合えなかった。逃げ続けた。本気になれなかった。
どこで何を選び直しても、結局同じだった気がした。
(俺は、後悔するような選択しかしてこなかった)
その事実が、胸の奥に静かに落ちた。
叫ぶように出てきた考えじゃなかった。
静かに、当然のことのように、浮かんできた考えだった。
それが、一番怖かった。
机の上に、郵便物の束があった。
その中に、一通の封筒。
ケンタとユキからの、結婚式の招待状だった。
封筒を手に取った。開けようとして、止まった。
頭の中で、声がした。
(あいつらは、前に進んでるんだ)
ケンタは親友だった。でも、俺が傷つけて、遠ざけて、疎遠になった。ユキは好きだった。でも、俺が向き合えなくて、自然消滅した。
その二人が、結婚する。
俺が傷つけた二人が、俺なしで、幸せになっていく。
(俺だけが、取り残されてる)
リストラされた。夢も諦めた。友達も失った。恋人も失った。
何も残っていない。
(疲れた。もう、いいだろ)
その考えが、頭の中を静かに埋めていった。
映像が、途切れた。
屋上に、戻った。
俺は、吸い寄せられるようにフェンスの方へ歩き出していた。
一歩、一歩。コンクリートの感触が、足の裏に伝わる。
フェンスの前に立った。
向こう側に、夜の街が広がっていた。遠くに、光が見える。コンビニの明かり。車のヘッドライト。マンションの窓。みんな、それぞれの場所で、それぞれの夜を過ごしている。
俺だけが、ここにいた。
フェンスを掴んだ。
錆びた鉄の冷たさが、現実味を持って掌に伝わってきた。
下を見た。
豆粒のような街の光が、遠くに広がっていた。
(終わりにしよう)
あの夜の自分の声が、頭の中で聞こえた。
(これ以上、続けても意味がない)
(頑張る理由も、戻る場所も、俺にはない)
俺は、その声を聞いていた。
否定しなかった。
あの夜の自分が、そう思っていたことは、本当のことだった。
「……そうだったんだな」
フェンスを掴んだまま、夜の街を見下ろした。
「本当に、疲れてたんだな。あの時の俺は」
風が吹いた。体温を奪っていく、冷たい風だった。
「全部、後悔だって思ってた。後悔するような選択しかしてこなかった人間だって、思ってた」
めもりんが、後ろで静かに浮かんでいた。
何も言わなかった。ただ、そこにいた。
「招待状を見た時……ケンタとユキが幸せになっていくのを見て、最後の何かが折れたんだ」
声が、震えた。
「俺だけが、何も変わらないまま、取り残されてるって思った。俺がいなくなっても、誰も困らないって思った」
言葉が、夜の風の中に溶けていった。
「……俺は、あの夜」
フェンスから手を離した。
「死のうとしていた」
ずっと認めたくなかったことを、声に出して言った。
その瞬間、屋上の空気が一変した。
コンクリートの床から、どろりとした黒い塊が這い出してきた。
形が、俺と同じだった。
顔のない、スーツ姿の影。
今まで向き合ってきたどの影とも違った。大きくなかった。俺と同じくらいの高さだった。だけど、その存在が放つ重さが、比べ物にならなかった。
【後悔の核——逃げ続けた果ての自分】
影が、口を開いた。
あの夜の、俺の声だった。
『疲れた』
「……ああ」
『もう無理だ』
「ああ」
『何もない』
「……そうじゃなかった」
影が、揺れた。
「向き合ってきた。ケンタにも、ハルカにも、父さんにも、ユキにも。全部逃げてきたわけじゃない」
『遅すぎた』
その言葉が、胸に刺さった。
手のひらに、光を集めようとした。
ケンタの顔を思い出そうとした。口の端が動いた瞬間を。ハルカのブランコを。父の不器用な笑顔を。ユキの手紙を。
全部、思い出した。
だけど、光は集まらなかった。
ちらちらと、弱い光が点滅するだけで、すぐに消えた。
(なんで)
気づいた。
ケンタと向き合ったのは、記憶の中だった。ハルカと話せたのも、記憶の中だった。父に気持ちを伝えられたのも、ユキの真実を知ったのも、全部この修復世界の中での話だった。
現実の俺は、今も病院のベッドで横たわっている。
記憶の中でいくら向き合っても、現実の俺の体は一ミリも動いていない。
その事実が、光を消した。
「……くっ」
「未来くん、ダメ!」
めもりんの声が響いた。
「認めただけじゃ、足りない」
「なんでだ。俺は認めた。あの夜のことを、ちゃんと認めた」
「認めることと、向き合うことは違うんだよ」
めもりんが、俺の前に浮かんだ。
いつもより、ずっと表情が真剣だった。
「その影は、未来くんが死のうとした時の気持ちの強さそのものなんだ。死にたいという気持ちと、同じくらいの強さで、生きたいという気持ちをぶつけないと、倒せない」
「生きたいという気持ち……」
「うん。まだ、その言葉が出てきていない。なぜ生きたいのか。何のために戻るのか。それを、ちゃんと自分の言葉で言えていない」
影が、ゆっくりと俺に向かって歩き出した。
一歩ごとに、規則的な音が鼓膜を打つ。
ピ、ピ、ピ……。
あの音だった。
病院のモニター音。ずっと遠くに聞こえていたあの音が、今は目の前から聞こえていた。
影の放つ重さに押されて、俺は一歩、後退した。
背中に、冷たいフェンスが当たった。
「……まだ、足りないのか」
「うん」
「何が足りないんだ」
「なぜ、生きたいのか」
めもりんが、静かに言った。
「認めることと、向き合うことは違う。あの夜死のうとしたことを認めた。それは大事なことだった。でも、その先がある。なぜ生きたいのか。その答えが、まだ出ていない」
俺は、影を見た。
俺自身の形をした影が、目の前に立っている。
答えが、まだ出なかった。
ケンタが待っていると言った。ユキが待っていると言った。でも、それだけじゃない気がした。もっと根っこのところにある何かを、言わないといけない気がした。
「……まだ、出てこない」
「うん」
「もう少し時間をくれ」
めもりんが、静かに頷いた。
影は消えなかった。
ただ、そこに立ったまま、俺を見ていた。
《記憶との対話:未完》
《次のアクセスで継続されます》
夜は、まだ明けなかった。
冷たい風が、屋上を吹き抜けていった。
フェンスの向こうに、街の光が広がっていた。
豆粒のような、小さな光。
でも、消えていなかった。
ピ、ピ、ピ……。
あの音が、また聞こえた。
まだ、動いている。




