【第15話】核心領域
扉の向こうは、白かった。
ただ、白かった。
床も、天井も、壁も、境界がわからない。どこまでが空間でどこからが空白なのか、判別がつかない。足を踏み出すと、確かに何かを踏んでいる感触があるのに、何も見えない。
「めもりん」
「ここにいるよ」
隣に、めもりんがいた。
いつもと違って、光が弱かった。この空間の白さに、溶けそうな光だった。
「ここは……」
「未来くんの、一番深い場所」
めもりんが、静かに答えた。
今までと違った。いつもは「さあどうだろ」とか「もうすぐわかるよ」とか、はぐらかすような答えが返ってきた。でも今回は、はっきりと言った。
「一番深い場所」
「……ああ」
俺は、歩き始めた。
どこへ向かえばいいのかわからなかった。だけど、立ち止まっていることもできなかった。
歩いても、歩いても、景色が変わらない。
白い空間が、ただ続いている。
その時、あの音が聞こえた。
ピ、ピ、ピ……。
今まで聞いてきた中で、一番近かった。
どこから聞こえているのか、わからない。でも、確かに近い。この空間の中に、あの音の源がある。
「……あの音は」
「うん」
めもりんは、答えなかった。
突然、視界が揺れた。
ノイズが走った。
現実の記憶だった。
蛍光灯の光。会議室。
「誠に遺憾ながら、業績低迷により、希望退職者を募ることになりました」
上司の声が、遠く聞こえる。
資料が配られる。自分の名前が、対象者リストに載っている。
望んで入った会社じゃなかった。夢を諦めて、最初に内定をくれたから入っただけだった。それでも、五年間続けた。毎日をこなし続けた。
それすら、失った。
映像が、途切れた。
白い空間に、戻った。
「……リストラされた日だ」
俺は、呟いた。
「あの日、帰り道に色んなことを思い出した」
白い空間の中で、また映像が流れ込んできた。
アパートの部屋。夜。
天井を見上げながら、横になっていた。
頭の中で、記憶が次々と流れてきた。
ゲーム会社の就活が全滅した日。父の沈黙。ケンタとの喧嘩。ユキとのぎこちない日々。ハルカから目を逸らしていた放課後。
全部が、一本の線でつながっていた。
向き合えなかった。逃げ続けた。本気になれなかった。
どこで何を選び直しても、結局同じだった気がした。
俺は、後悔するような選択しかしてこなかった。
そういう人間なんだ。
その結論が、あの夜、胸の奥に静かに落ちた。
映像が、また途切れた。
「……そうだ。あの夜、そう思った」
俺は、白い空間の中で立ち止まった。
「全部、自分のせいだって。後悔するような選択しかしてこなかったって」
「うん」
めもりんが、静かに頷いた。
また、映像が流れ込んできた。
アパートのポスト。
封筒が入っていた。
差出人は、ケンタとユキ。
結婚式の招待状だった。
封筒を手に取った。開けようとして、止まった。
頭の中で、声がした。
(あいつらは、前に進んでるんだ)
ケンタは親友だった。でも、俺が裏切って、遠ざけて、疎遠になった。
ユキは好きだった。でも、俺が向き合えなくて、自然消滅した。
その二人が、結婚する。
俺が傷つけた二人が、俺なしで、幸せになっていく。
(俺だけが、取り残されてる)
リストラされた。夢も諦めた。友達も失った。恋人も失った。
何も残っていない。
何も、ない。
映像が、途切れた。
白い空間の中で、俺は動けなかった。
「……そうか」
ようやく、声が出た。
「それが、きっかけだったのか」
めもりんは、何も言わなかった。
「リストラされて、招待状が届いて……それで、俺は」
言葉が、途切れた。
その先が、言えなかった。
その先を、ずっと認めていなかった。
その時、白い空間の中心に、光の柱が現れた。
細く、白い光の柱。天井のない空間に向かって、まっすぐに伸びている。
近づこうとした。
その瞬間、影が現れた。
今まで見てきた影とは、次元が違った。
巨大だった。
メモリーシティ全体を覆えるくらいの、黒い塊。顔も形もなく、ただ質量だけがある。今まで向き合ってきた全ての後悔が、溶け合って固まったような影。
【後悔の核——逃げ続けた果て】
影が、俺を見た。
目はなかった。だけど、確かに見ていた。
手のひらに、光を集めようとした。
集まらなかった。
ちらちらとした光の欠片が、すぐに消えた。
「……なんで」
「今は、まだ無理だよ」
めもりんが、静かに言った。
「なんでだ。今まで向き合ってきたのに」
「うん。でも、一番大事なことを、まだ認めていないから」
「一番大事なこと……」
「あの日のことを、ちゃんと思い出すこと。何が起きたのか。自分が何をしようとしたのか。それを、ちゃんと見ること」
俺は、影を見た。
巨大な影が、ゆらゆらと揺れている。
「あの日のことを……思い出せば、あれを倒せるのか」
「倒せるかどうかじゃない」
めもりんが、俺を見た。
「ちゃんと向き合えれば、自分で答えが出る。それだけだよ」
俺は、光の柱を見た。
細く、白い光。あの音が、その柱の方向から聞こえてくる。
ピ、ピ、ピ……。
「……あの日のことを、思い出さないといけないのか」
「うん」
「怖い」
「うん」
「それでも、行かないといけないか」
めもりんが、少し間を置いた。
「行かなくてもいい。でも、行かなければ、ここから先には進めない」
俺は、白い空間を見渡した。
どこまでも続く、白い空間。
この空間の中に、ずっといることもできる。
でも、ケンタが待っている。ユキが待っている。
「……行く」
俺は、光の柱に向かって歩き出した。
影が、道を塞ごうとした。
めもりんが、俺の隣に並んだ。
「一緒に行くよ」
「ああ」
影の中に、踏み込んでいく。
冷たかった。体の芯まで冷える、冷たさだった。
ピ、ピ、ピ……。
音が、もっと近くなった。
白い光が、視界を包んでいく。




