【第10話】父との溝
光が収まると、そこは見覚えのある玄関だった。
薄暗い廊下。軋む床。冷たい空気。
くたびれたパーカー。肩にかけたトートバッグ。
(この家か)
視界の端に、ホログラムが浮かんだ。
《ステージ:父との確執》
《目標:向き合えなかった後悔と、ちゃんと向き合ってください》
俺の体が、廊下を進んでいく。
リビングのドアを開けると、父がいた。
ソファに腰を下ろして、新聞を広げている。背筋が伸びていて、足を揃えて、まるで姿勢を崩すことを自分に禁じているような座り方だった。
顔も上げなかった。
「……父さん、ちょっといい」
新聞が、わずかに動いた。
「なんだ」
「相談があって」
「座れ」
俺の体が、父の向かいのソファに腰を下ろした。
テーブルの上に、一枚の紙を置いた。ゲームクリエイター向けのスクールのパンフレットだった。
あの時の記憶だ。
大学二年生の終わり頃、ゲームクリエイターを目指すには今の学部では難しいと思い、ゲームクリエイターのスクールに通いたいと、父に相談した時だ。
「就活の前に、ここに通いたいんだ。ゲームを作るための技術を身につけて、それからゲーム会社を受けようと思って」
父が、パンフレットを手に取った。
数秒、眺めた。
「ゲームのスクール」
「そう。プログラムとかデザインとか、専門的に学べる場所で」
「費用は」
「一年で……七十万くらい」
「誰が出すんだ」
「バイト代からと…足りない分は…お願いしたいと思って」
父が、パンフレットをテーブルに戻した。
「断る」
「ちょっとは聞いてくれよ、俺はずっとゲームを作りたくて」
「ゲームなんて、ただの玩具だ」
その言葉が、空気を変えた。
「玩具……」
「子どもが時間を潰すための道具だ。くだらない。それにお前はいつも中途半端だ。今回もただの思い付きで、本気じゃないだろ」
「本気で思ってる」
「お前が最後まで何かを成し遂げたことがあったか?部活だって途中で辞めただろ?」
「それは…」
「現実を見ろ」
父の声は、怒鳴らなかった。ただ、低く、静かに、一言一言を刻むように言った。それが余計に、重かった。
「ゲームがくだらないって言いたいのか」
「くだらない。少なくとも、今のお前に七十万と、これからの時間を賭ける価値はない」
「……っ」
「お前は本気じゃない」
「本気だ」
「本気なら、今まで何をしてきた。大学でプログラムを学んだか。ゲームを自分で作ってみたか。準備もせずに夢だと言うのは、ただの夢見がちな子供と一緒だ」
俺の体が、言葉に詰まった。
(違う)
心の中で反論しようとした。
だけど。
(……準備、してたか?)
大学でプログラムの授業は取っていた。だけど、真剣に取り組んでいたかと言われたら。ゲームを自分で作ってみようとしたことはあるか。
ツールをダウンロードして、少しいじって、難しくて放り投げた。それだけだった。
「本気じゃないことに金は出せない」
父が、新聞を手に取った。
それで、終わりだった。
俺の体が、リビングを出ていく。
廊下を歩きながら、頭の中がぐるぐるした。
違う。本気じゃないわけじゃない。ただ、どこから手をつければいいのかわからなかっただけだ。
でも。
本気なら、もっと動いていたはずじゃないか。
その問いが、頭から離れなかった。
場面が動いた。
それから一年。就活の時期だった。
スクールには結局行かなかった。父を説得できなかったし、自分でお金を貯めるほどの行動力もなかった。
ゲーム会社のエントリーシートを書きながら、ずっと思っていた。準備不足だとわかっていた。技術も、実績も、何もなかった。それでも、受けることだけはした。
全部、落ちた。
書類選考すら通らないところがほとんどだった。
夜のリビング。父が、ソファに座っている。
「就活、どうだ」
「……ゲーム会社は、全部ダメだった」
沈黙。
父は、何も言わなかった。
「だから言っただろ」とも、「残念だったな」とも言わなかった。
ただ、新聞をゆっくりと折り畳んで、テーブルに置いた。
その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。
「……これからどうする」
「営業職で探す」
「そうしろ」
それだけだった。
怒りもなかった。責める言葉もなかった。ただ、静かに、当然のことのように言った。
俺の体が、うつむいたまま部屋に戻っていく。
今の俺が、その部屋に立っていた。
(何か、言えるか)
言葉を探した。
父に、何を言えばいいのか。
「ゲームはくだらくない」と言いたかった。でも、それが言い切れなかった。
父の言葉が、頭の中に残っていた。
本気なら、今まで何をしてきた。
その問いに、今でも答えられない。
好きだと言いながら、本気で向き合っていなかった。夢だと言いながら、準備をしていなかった。それは、事実だった。
父の言っていたことが全部正しいとは思わない。
でも、全部間違っていたとも言えない。
その曖昧さが、言葉を封じた。
その時、部屋の隅から影が現れた。
人の形をしていた。だけど、顔がぼやけている。俺なのか、父なのか、判別がつかない。
【後悔のかけら——否定しきれなかった言葉】
手のひらに、光を集めようとした。
集まらなかった。
ちらちらと、弱い光が点滅するだけ。
影が、声を発した。
俺の声だった。
『ゲームはくだらない』
「……違う」
『本気じゃなかっただろ』
「……」
『準備もしていなかった。覚悟もなかった。父親の言う通りだったじゃないか』
「違う、そうじゃない」
でも、言葉が続かなかった。
違うと言い切れない自分がいた。
好きだったのは本当だ。作りたかったのも本当だ。でも、それだけだった。好きだということと、本気でやることの間に、大きな溝があった。そこを埋めようとしなかったのは、俺自身だった。
「……くっ」
光が、消えた。
影は消えなかった。ただ、静かに揺れている。
《修復失敗》
《現在の修復率:70%(変動なし)》
メモリーシティに戻ると、夜の空気だった。
広場のベンチに腰を落とす。体が、重かった。
「……ダメだった」
めもりんが、黙って隣に浮かんでいた。
「父親の言葉を、否定できなかった」
「うん」
「ゲームはくだらないって言われて、違うって言い返したかった。でも……本気じゃなかったって言葉は、否定できなかった。好きだったけど、それだけだった。向き合い切れてなかったのは、本当のことだから」
めもりんは、すぐに何も言わなかった。
風が、広場を吹き抜けていった。
「……ねえ、未来くん」
「なんだ」
「お父さんが言いたかったのは、本当に"ゲームはくだらない"ってことだったと思う?」
俺は、その問いに黙り込んだ。
父の顔が、頭の中に浮かんだ。
就活の報告をした夜の、あの沈黙。
怒りじゃなかった。軽蔑でもなかった。あの沈黙の中に、もっと別の何かがあった気がする。
だけど、それが何なのか、まだわからなかった。
「……わからない」
正直に言った。
「それが、次に向き合う時のヒントかもしれないね」
俺は、空を見上げた。
メモリーシティの空が、いつもより暗かった。
遠くで、あの音がまだ聞こえていた。
ピ、ピ、ピ……。




