父の正気
瘴気は晴れた。
十二年間覆い続けていた有毒な靄が晴れ、陽の光が降り注ぐ。それを満足がいくまで見つめたレイアはクレアに目線を送った。
まだ、やるべきことは残っている。
クレアが二人まとめて飛行の魔術をかけると処刑台からふわりと浮き立ち、王族が並ぶバルコニーまで飛んだ。トン、と降り立つと一行は恐れと戸惑いと驚愕が入り混じった顔で二人のことを見つめている。
「……お前は……お前たちは……」
兄のライオットが何をどう言ったものか困っている様子で口をモゴモゴとさせた。クレアはそんな兄ににこりと笑いかける。
「お久しぶりです、お兄様」
「ほ、本当にアンヌなのか? にわかには信じられない……しかし……」
「兄上、詳細は後で。今はそれより先にすべきことがあります」
事実を受け止め切れていないライオットにレイアは言葉少なに言う。そして一歩、進み出た。
「父とオリヴィア殿にかけられている精神操作の魔術を解かなければ」
「精神操作!?」
穏やかではない台詞にライオットはギョッとするもレイアが極めて冷静に言葉を続ける。
「はい。兄上、間近で父を見ていておかしいと思いませんでしたか? 目の焦点は合わず、常に側にアシュロンを侍らせる。彼や古参貴族の意見なしには政を行えなくなり、偏った人物たちばかりを重用する。父はおそらくずっと前から精神操作を受けていたのです」
「そんな、し、しかし王族への精神操作は重罪だぞ!!」
「ええ。重罪です。それを犯してまでやりたかった何かがあったのでしょう。例えば……ロレンヌとの戦争とか」
レイアは冷ややかな声で言い、クレアも頷いた。
「お兄様、お父様にとオリヴィア様にかけられている精神操作は極めて強力なものです。今すぐに解きましょう」
言ってクレアは前へと進み出た。二人にネックレスを向けると意識を集中し、魔術陣を思い浮かべる。
ポウと小さな二つの陣が白と金の光を伴い発現し、父とオリヴィアの胸へと吸い込まれて行く。
変化は劇的だった。
イグニウスの長年色が悪かった肌には血色が戻り、たるんだ表情がハッとする。正気の失われていた瞳に強い光が宿り、そして並び立つレイアとクレアを見た。
「レイア、先ほどの魔術は……それにアンヌ! 生きていたのか」
「レイア様、わたくし……それにメイドの貴女が、亡くなったはずのアンヌ様……?」
オリヴィアも目が覚めたかのように緑の瞳に色が戻った。頬に手を当て、まだ混乱しているようにキョロキョロとする。
そんな様子を見てクレアはレイアと顔を見合わせて笑う。
近づいてきた父は二人の肩に手を当てると、がっしりと抱き寄せた。
「すまなかった、儂は、なんという間違いを……! 謝って許されるものではないとわかっているが!」
その瞬間レイアの心に押し寄せたのはえも言えない感情だった。三歳のあの日に聖女としての力がないと告げられた瞬間から、父には常に冷たい目で見下されるか、いないものとして扱われるかの二択だった。
温もりが欲しい、愛されたい、笑いかけられたいという子供らしい思いから懸命に出来る事を頑張り続けたけれど、父はレイアを頑なに拒否し続けた。成長したレイアは王族として民を守るという責務だけを支えに努力を続けたけれどーー心のどこかで、父に認めて欲しいという思いが小さく存在し続けていた。
もはや叶わない願いなのかと思っていたけれど、今こうして正気に戻った父を前にし、その手で抱きしめられて。
全てが報われたのだなと強く感じる。
「父上、過ぎた事を話す気は私にはありません」
レイアはそっと父の背中に手を回し、言う。
「……これから先の未来を、話し合いたいと思います」
頬に温かいものが流れ、あぁ私は泣いているのかとレイアは思った。
+++
顔面をしたたかに殴られ吹っ飛ばされたアシュロンは魔封錠をはめられドットーレに引き立てられていた。横には人型になったハイドラも立っている。
アシュロンの顔の変貌は筆舌に尽くしがたい。
額には大きな青あざが出来上がり、鼻骨が折れて鼻血が吹き出し、歯は見えるだけでも十本は欠けている。身にまとった瀟洒な服は血まみれの埃まみれの瓦礫まみれで、おまけに色が白だったために汚れ具合がより一層目立っていた。
「お、イシル。お前も一緒に連行について来いよ。こいつの味方に逃がされでもしたら困る」
「ああ」
気軽にドットーレに話しかけられたイシルビュートはアシュロンの前に立ちはだかる。栄光奈落を肩に担いで、思いっきり不敵な笑みを浮かべてやった。
「よう、イケメンが台無しだな。その自慢の金髪も切ってやろうか?」
イシルビュートは知っていた。アシュロンは王族の系譜の証である金髪をそれはもう大層大切にしている事を。だからこそ長く伸ばした挙句に顔の横で結び、前へと垂らしているのだ。よりその自慢の金髪を見せつけるために。
アシュロンは歪んだ顔に凄まじい形相を浮かべ、イシルビュートを睨みつける。その顔にはイシルビュートへの憎しみが凝縮され圧縮されていた。もはや顔だけで人を呪い殺せるのではないかという程の表情だ。
「きっ……貴様、何故生きている!!」
イシルビュートは肩をすくめてみせた。
「お前の攻撃が弱過ぎて、全く効かなかった」
「嘘をつけ!!!」
ここでこの男に馬鹿正直に真実を話すのは得策ではない。クレアが死者蘇生を使ったことはごく一部の人間たちの間で留めておいたほうが無難だ……特に、クレアが一体どれほどの犠牲を払ったのかわからない現状では。
だからイシルビュートはこの質問には答えず話題を変えることにした。
「お前の目論見はここまでだ。せいぜい牢で残りの時を過ごすといい」
「このまま……引き下がると思うなよ。私には大勢味方がいる。お前とは違う……!」
イシルビュートは冷めた目でアシュロンを見つめる。古参の貴族は確かにアシュロンの味方だったのだろう。しかしこうなってしまった今となっては、彼を助けるために尽力するとは考えづらい。誰も彼もが保身に必死で、これからはレイアにすり寄ってくるはずだ。アシュロンのことを、捨て駒にして。
あとはどれだけのことをこの男が喋るかだなと考える。前面に立っていたのはアシュロンだが、全て一人でことを進めていたわけではあるまい。後ろには誰かがいる。巨大な権力を持つ者が。洗いざらい吐き出させて粛清していく必要がある。
「お師匠様ーっ!!」
と、三人のところへ聞き慣れた声が上から降ってきた。ふわりと降りてきたのは腰までの長い金髪をなびかせたクレアだ。クレアはアシュロンに近づくと、言った。
「これはお父様の分!」
そしていきなり右拳でもうすでにボコボコの顔を殴りつけた。
「これはレイアお姉様の分! これはイヴリン先生の!!」
クレアは右拳に怒りを乗せ、アシュロンをガッツンガッツン殴り続ける。魔封錠で魔力を封じられているアシュロンに反撃のすべはなく、なすがままにされていた。イシルビュートもドットーレも止めるようなことはしない。
「そしてこれはーーお師匠様の分っ!!」
ひときわ大きく振りかぶった拳撃が直撃し、アシュロンは殴り飛ばされ無様に尻餅をついた。フンッと大きく息を吐いたクレアは、「すっきりした!」と言うと爽快な笑顔をイシルビュートへ向ける。
「もういいか?」
「はい、どうぞどうぞ!」
「じゃ、行くか」
非常に気軽に今のやり取りを受け流すとドットーレとイシルビュートはアシュロンを引き立てて行く。ハイドラは黒髪をパサリと背中へ流すと、さて、と言った。
「余はせっかく自由になったので行くことにする」
「あれ、もう行っちゃうんですか」
するとハイドラは封印を解く前より数百倍の邪悪さを増した笑みを浮かべ、赤い瞳を細めてクレアを見た。
「案じずともまた戻って来る。貴様との決着もつけねばならぬしな?」
「あ……それ、覚えてたんですか」
「当然だ。余の首を八つまで吹き飛ばした恨みは忘れておらぬ」
この禍々しい竜に勝負を挑まれて果たして勝てるだろうか……クレアには自信がなかった。もし本当にハイドラが殺す気で向かってきたらその時には、天地創造を借りて迎撃しようとクレアは心に誓う。そうならないといいな、と思った。
ハイドラはそのままイシルビュートに目線を送った。
「世話になったな、ハイドラ」
「フン。せいぜい呪いに食い殺されないようにしておけ」
「肝に銘じるよ」
苦笑するイシルビュートを尻目に、ハイドラは破れた結界の隙間から去って行った。どこへ行くのだろうか。また空を自由に飛び、気ままに世界を回るのだろうか。いずれにせよああ言っていた以上、本当にまた戻って来るんだろうな、とクレアは思う。
ーーハイドラが去っていた空は、雲ひとつない青空が広がっていた。




