私の命なんていくらでもあげるから
指先が、動く。
貫かれた腹部が痛い。肉を裂き骨を砕き、内臓をも破った石杭は、深く深くクレアを地面へ縫い付けている。身動きはほとんど取れない。
傷は深く、放っておけば間違いなく死ぬだろう。それももう間も無く。
クレアはかろうじて目を開け、首を動かした。
先ほどまでレイアとアシュロンが言い争っていた気配があったが、転移魔術で飛んで行ったようだ。おそらく、城へと。
目の前にはーー剣ダコがこびりついたレイアの白い手首が転がっている。そこからこぼれ落ちているのは魔石がついた銀のネックレス。右手を伸ばしてクレアはそれを握った。
何度も何度も借りて、杖代わりの媒介に使ったネックレスはクレアの手に馴染んだ。
ああ……そうだった。
ぎゅっと握りしめ唇を噛む。
どうして気がつかなかったんだろう。
これを贈ったのは、私だ。私が姉に贈ったんだ。
目を閉じてレイアの隣で何度も見た魔術陣を頭に思い描いた。白く輝く魔術陣が出現しクレアの周囲を取り囲む。石杭が浮いてクレアから抜け、急速に体が修復されていく。
そうしてノロノロと身を起こすとクレアは立ち上がってイシルビュートの元へと駆け寄った。
イシルビュートの体は無残な有様だった。その死因が一体何にあったのか、はっきりと断定するのは困難なほどに。
重力をかけられたことにより全身はぺしゃんこで妙な方向に折れ曲がり、胴体には寸分の隙もないほどに杭が打ち付けられている。身体中の血液が全て流れ出したかのように一帯は血だまりで真っ赤な池が出来上がっていた。その遺体の有様からは強い殺意が感じられる。惨すぎるイシルビュートの最期にクレアは吐き気を覚えたが、目を背ける事はしなかった。
「お師匠様……なんで……」
震える唇で言葉を発してみても、妙にかすれていて自分のものとは思えない。今見ている光景が到底現実とは思えなかった。
目の前にいるイシルビュートは紛れもなく絶命している。覆しようのない、残酷な事実だった。
イシルビュートの顔が見える場所にうずくまり、血がこびりついた藍色の髪を払う。いつもクレアに笑いかけ、優しく見守ってくれたその藍色の瞳はもう二度と開くことがないのだ。
つい数時間前まで、普通に話していたのに……。何も変わらない日常の一部だったのに。
「どうして、お師匠様……!」
クレアの中で様々な感情が渦巻いた。
どうして、どうして。
お師匠様が死ななければいけなかったの?
お師匠様が何をしたって言うの。ただ……正しいことをしていただけなのに。
何一つ間違ったことなんてしていない。
お師匠様は素晴らしい人で、優しくて、みんなを助けたいと思っていて……こんなところで死んでいい人なんかじゃ絶対にない。
イシルビュートの遺体を前に、大切な人を殺されたことへの悲しみと、殺した人物への憎しみと、何もできずに守られているだけだった自分への怒りが去来してクレアの胸中はぐちゃぐちゃだった。
涙が流れて頬を伝い、それがイシルビュートの口元に落ちても、当然のように師匠はなんの反応も示さない。
それが辛くて辛くて、クレアは溢れる涙を止める事ができなかった。
アシュロンと目があった時、奥底に眠っていた記憶に引っ張られるようにクレアは何もできなくなった。全身を支配した恐怖はかつて自分が味わったものだ。
強い殺意に当てられてクレアはただただ立ち尽くし、何もできずに先生を目の前で殺された……先生はクレアを守るために身を呈して庇ってくれた。そして今度は、イシルビュートだ。
悲しみに涙は伝うけれど、それでも感情に押しつぶされないようにクレアは袖で目元を拭う。
泣いている場合じゃない。
たった一つ、今の状況でクレアには出来る事がある。
それはクレアにしかやれない、出来ない事だ。
ネックレスを握りしめて深呼吸をする。高ぶる感情を抑えて冷静になるように努めた。
今からクレアがやる事は、人智の限界を超えた奇跡の業だ。
脳内に描くのはーー複雑精緻な魔術陣。それはかつてクレアがアンヌとして過ごしていた頃に密かに勉強していた魔術で、そしてレイアが家で暮らすようになってから何度も目にした魔術陣。
王宮の聖女の部屋でなぜこの文字が解読できたのかわかった。これはクレア=アンヌにとって特別な魔術だった。母を蘇らせたい一心で習得したかったこの魔術は、幼いアンヌには難しすぎて理解できなかったけれど……今ならわかる。
イシルビュートに拾われて魔術を学んだあの日々が、クレアに複雑怪奇な魔術を読み解く事を可能にしてくれた。
イシルビュートの遺体を中心に広がった魔術陣は白く淡く輝いて、漏れ出る光は金色を帯びていた。
クレアの中に流れる王族としての血が聖なる力を呼び起こす。
そしてかつてイヴリンが言っていた言葉が脳裏によぎる。
ーー死者蘇生は術者の魔力と聖力、そして命を代償に発動する。当の聖女様は術の使用後五年、長くても十年のうちに亡くなられてしまう……。
実際そうなのだろう、とクレアは思った。この魔術陣にははっきりと、術者の命を削るような記述が組み込まれている。
魔術を理解するほどに、死んでしまった人一人、蘇らせるのがどれほどの奇跡なのか思い知らされる。それは本来人間には到底成し得ない業で、だからこそこんなにも難しく代償が大きい。通常の聖女の魔術は魔力をあまり使用しないものが多いが、これに関しては魔力も聖力も、そして命さえも使用する。
でもそれがどうしたと言うのだ。
お師匠様が生き返るのであれば安いものだ。
クレアはありったけの魔力と聖力を注ぎ、術の発動に備える。
体から力がどんどん吸い取られていくのを感じる……それでも、構わない。
心の底からの願いを口に出し、叫んだ。
「お願い、お師匠様……目を覚まして……! 私の命なんて、いくらでもあげるから!」
その言葉がトリガーとなるかのように、魔術陣の発光は一層強くなった。
陣を中心として風が吹き乱れ、イシルビュートに突き刺さっていた石杭がふわりと浮いて抜き去られる。その体につけられた無数の傷跡が癒え、ひしゃげた手足が元どおりになり、破れた皮膚が元どおりになっていく。
力強くも優しい光が充満し、クレアは祈るように魔術を発動し続ける。
お願い、起きて、お師匠様と。
ーー光が止んだ時、クレアの全身からは力が抜けて、全力疾走した後のように心臓は煩く鳴っていた。汗がぐっしょりと衣服を濡らし、額から伝っていく。
見た目は全てが元どおりになっているけれどーー問題は、心臓が動いているかどうかだ。
異様な緊張の中、クレアは膝元で固く目を閉じるイシルビュートの頬に少し触れてみた。
「お師匠様」
懇願するような声に反応したのかどうか。
数時間にも感じる数秒を経て、果たしてイシルビュートの瞼が少し痙攣し、持ち上がる。藍色の瞳はぼんやりとしていて、目線を動かしクレアを見つめた。
「クレ、ア……?」
止まっていた涙が再び溢れた。お師匠様、ともう一度呼ぶ。
手に力を入れて上体を起こしたイシルビュートは、自身の身に今しがた起こったことが理解できていないようでぼんやりしていた。
何か言わないと。忘れていた事を全部思い出したんですと。私も聖女だったんですよと。
でもそんな言葉は出て来ずに、代わりにクレアはイシルビュートに抱きつくと大声で泣いた。
「お師匠様ぁ、よかったです……! よかったぁ!」
泣きじゃくるクレアにそっと腕を回したイシルビュートは相変わらず何が何だかわからないと言う顔をしていたけれど、涙を拭ってくれる。
「何だ……俺は死んだはずじゃ。何で生きてる?」
「私が、治しました」
嗚咽を漏らしながらも、クレアはこれだけは言わなくては、と言葉を発した。
「私、思い出したんです……私の名前は、アンヌ・トレビュース・テオドライト。テオドライト王国の第二王女で、レイアさんの妹です」
イシルビュートは目を見開き驚愕した。拭ってくれている指先が固まり、クレアを見つめた。
そんな状態でもクレアに触れる指先が温かく、ああ確かにイシルビュートに血が通っているのだと感じた。同時に急激な疲労と眠気が襲ってくる。まだ起きていなくては……けれど力を使いすぎて、実はもう自分の体さえ支えているのがやっとの状態だった。




