つまりハイドラは悲劇の運命を背負った竜
おかしい。とクレアは思う。
最近、具体的にはレイア付きのメイドとして城に潜入していた頃から妙にリアルな夢を見るようになった。
自分が幼い頃の夢のような気がするのだが……目が覚めると靄がかかったように肝心の内容が思い出せない。
何か大切なことのような気がするのだけれど。
この、奥歯に物が挟まったような感覚にクレアは落ち着かない気持ちになる。
しかし同時に、どうしても思い出したいと思ってはいなかった。クレアは今の生活にとても満足している。師匠と二人(今は二人ではないけれど)で過ごす日々は時にスリリングな魔物討伐などに行く事もあるけれど、基本的に穏やかで、そして魔術を極めたいクレアの知的好奇心も大いに満たしてくれる。
現状など、テオドライト王国の王家の、しかも聖女という限られた人物以外が知る由もない癒しの魔術についてさえ学べるのだ。
実際にクレアに使えないのがとても残念だったが、知らない魔術を覚えて行くのはとても楽しい作業だ。クレアは生来の覚えがいいのでレイアより早く魔術を覚えてしまい、隣で勉強するレイアは複雑そうな表情を浮かべている。使えようが使えまいが、たくさん覚えておいて損はないだろう。
そんなわけで、クレアは失った過去の記憶についてさほどの執着をしていない。思い出せないならそれでいいじゃん、それより未来を見つめよう。というスタイルだ。
ただ、何か大切なことを忘れているような気もしており、それがクレアの脳裏に引っかかり続けている。
思い出した方がいい気もするが、そうすると今の生活が崩れてしまうと本能が告げている。それは嫌だ。
(お師匠様に相談するべきかなぁ……)
うーん、と唸りながらもリビングへと降りていくとそこではいつも通りに座っているイシルビュートの姿。
「お師匠様、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「ハイドラとレイアさんは?」
「朝トレ」
ぐいと親指で外をさす。見ると窓の外では、ハイドラの傷を治しているレイアの姿が目に入った。
朝トレーニングという名目でハイドラの傷は毎朝毎朝レイアが治している。クレアが負わせた大怪我が地味に少しずつ治っていったのはこのトレーニングの賜物であった。
ハイドラは「余をトレーニングに使うな」と少しムッとしていたが、「怪我が治るんだからいいだろ」とイシルビュートに一蹴されている。
そして二人は人体治癒と竜体治癒の違いについて論じたりもしていた。魔術を使えるようになるには、何より実践が大切だ。レイアはイシルビュートの連れという体でロレンヌの街へ赴き、怪我や病人の治癒を時々している。
その時の感覚からすると、ハイドラの傷は明らかに人間に比べて治りが遅いらしい。治癒魔術が効きにくいらしいのだ。
「我らは人型になれるが、本体は竜の体の方だ。そもそもの細胞数の違いや構造の違いなどが関係しているのであろう」
「なるほど、それで治癒魔術の効果に差が……」
二人真剣に話し合う様から目を離し、クレアはイシルビュートを振り返った。
「ハイドラって……本当に邪竜って呼ばれてたんですか?」
クレアからするとハイドラは口が悪いのは否めないがそこまで邪悪な存在には見えない。この広いとは言えない家に一緒に住み、暮らしていると別に害もなかった。
最もいて助かるというような存在でもないけれど。好きに寝て好きに起き、ふらりと出かけたりイシルビュートと話し込んだり、模擬戦をしたり。
レイアは家のことも手伝ってくれようとするのだが、そもそも家にいればほとんどのことが魔術で済んでしまうので手を借りるようなことはあまりなかった。
そんな事より魔術の習得に集中しろとイシルビュートも一度注意をしている。
まあそんな訳で、荒地で癒しの魔術について議論しているハイドラが古に恐れられていた邪竜であると言われてもクレアにはいまいちピンとこない。
首をかしげるクレアにイシルビュートは何の気なしに言う。
「元々ハイドラは人に害なす存在じゃなかったんだ」
「……? 死をもたらす厄災の竜では?」
「そりゃ尾ひれがついた噂だよ。ハイドラはこことは反対方向、テオドライトと隣国のロズバード国境付近の山岳地帯を縄張りにしてひっそり暮らしていた。だが、人間がわざわざその縄張りに踏み入って眠れるハイドラを突っつき回したんだよ。執拗にな」
「なんでそんな事……?」
「金のためだったんだろう」
イシルビュートはつまらなさそうな顔で言う。
「ハイドラはその毒竜と言う特性上、瘴気のある場所に好んで生息する。すると人間は、ハイドラが瘴気を出していると勘違いをし出す。クレア、瘴気がどんな場所に発生するか覚えてるか」
「地下の毒が噴出している場所か、人間が魔術で人工的に作り出すか」
「正解だ。だがその事実をよく知らない人々は、ハイドラ自身が瘴気を生み出していると考えた。そこで討伐を魔術師や傭兵に依頼したアホ貴族がいて、懸賞金を弾んだ。ハイドラからしてみればたまったもんじゃないだろ? 昼夜問わずに自分のねぐらに人間が来て、攻撃を仕掛けてくるんだから。
それで人間はある日、ハイドラの逆鱗に触れる行為に出たーーロズバード王国が軍を動かし、ハイドラの住処を包囲したんだ」
「そこまでしてハイドラを追い出したかったんですか? 何もしてないのに」
「曰く、『いるだけで瘴気を生み出すハイドラをこのまま放置しておけば、国はそのうち瘴気に飲まれるだろう』と」
「無茶苦茶な」
呆れるクレアにイシルビュートは真剣な目を向ける。
「クレア、覚えておけ。どんだけ無茶苦茶だろうとな、偉い奴が言うことに従うのが人間って生き物なんだ。この人が言うんだから間違いない、正しいに決まってるってな。そこに個人の疑問が挟まる余地なんて、無いんだよ」
「それでハイドラは軍相手に戦ったと?」
「ぶっちぎりハイドラが勝ったらしい。理由なく住処を追われたハイドラは怒り狂い、攻めてくる人間たちを次々に返り討ちにした」
なんとも言いようのない話である。ハイドラが人間に手をかけたのはまぎれもない事実だが、仕掛けてきたのは人間の方だ。
クレアは城の勝利の回廊で見た絵画を思い出した。英雄魔術師ビュート・アレクサンダーがハイドラを封じたあの絵……テオドライト王国ではハイドラは完全なる悪で、それを封印した魔術師は英雄扱いだ。
不都合な事実は隠され、歴史の影で静かに葬られて行くものなのだとクレアは思った。
「それってハイドラ本人に聞いた話です?」
「ハイドラと……俺の師匠と」
「お師匠様のお師匠様って物知りなんですね」
「長生きしていたみたいだからな。なんにせよハイドラは低俗な魔物とは違って話が通じる。百年封印されていて、人間への怒りも冷めた。だからこちらが怒りに触れるようなことをしなけりゃ別に何かされることもない。知己に富んで話題が尽きない、話していて面白い相手だよ」
イシルビュートはハイドラにずいぶん信頼を寄せているようだった。友人のように接している。クレアの知らない師匠の一面を見るたびに、クレアとしては嬉しくなりもっともっと知りたいと思う。思えばこのハイドラを勘違いで討伐しかけた時からずいぶんと自分を取り巻く状況が変わったものだ。
人が増えるたび、師匠のことを知る事ができる。レイアが聖女であることを証明して、イシルビュートの汚名も晴れたなら、大手を振って師匠はテオドライトに帰還する事ができるのだ。
そうしたらクレアはイシルビュートの一番弟子として、全力で師匠の仕事を手伝おう。
そう、クレアは来たるべき未来へ向けて胸を高鳴らせた。
「おい、腹が減った」
扉が開いて傲慢不遜なハイドラの声がする。朝トレが終わったらしい。本日の食事担当はクレアである。
「ご飯、今準備します」
「あ、クレア。今日の夕飯には鶏が食べたい」
「はい。後で買いに行ってきますねー」
イシルビュートの要望にクレアは頷いた。師匠は肉の中でもとりわけ鶏肉を好んで食べる。放っておけば鶏肉料理ばかりを作るし、事実、クレアが王宮に潜入して留守にしていた間は食事時間は適当で、お腹が空いたらひたすらに鶏の丸焼きを食べていたらしい。ハイドラもどちらかというと肉食なので文句がなく、男二人で毎日毎日鶏の丸焼きを食べていたということだ。想像したクレアは貧血を起こしかけたが踏ん張った。
今ではクレアがきっちり管理をして、鶏肉ばかりにならないよう気をつけている。
(今日の夕飯は鶏料理でも野菜を使ってトマトと一緒に煮込む料理にしよう)
意気込みながらキッチンに立ったクレアは夢のことなどすっかり忘れてしまっていた。




