束の間の平和①
「もう……やめましょう、レイアさん」
クレアは大きな金の瞳を歪め、苦しそうに吐き出す。手を強く握りしめ、手のひらに爪が食い込んでいた。
「駄目だ、クレア。止めてくれるな」
「だって……!」
クレアは亜麻色の髪をなびかせ、レイアの向かいに座っているイシルビュートを振り仰いだ。
「お師匠様も、止めてください!」
「王女様が構わないと言ってるんだ、止める必要ないだろう」
「でもこれじゃ……まるで……」
クレアは机の前にうず高く積まれた紙の束を見て言葉を詰まらせる。そこにはびっしりと、同じ魔術陣が記載されている。
レイアは落ち窪んだ目で紙を見つめ、一心不乱に手を動かし魔術陣を書き記し続けていた。
「……まるで、呪いかなんかみたいですよ! もう一ヶ月もろくに寝ないでひたすら魔術陣を書き写すなんて!」
「問題ない、クレア。私は……大丈夫だ……」
ポロリ。
レイアの手からペンが離れて床へと落ちた。続いてレイア自身の体も傾げ、力なく、重力に逆らえず、ゆっくりと倒れていく。
スローモーションのようだった。
「レイアさんっ!」
クレアは叫びその体を抱きとめる。腕の中のレイアはぐったりとしていて、目を閉じ、そして静かにーー寝息を立てていた。
「寝た……」
「四徹か。まあまあ根性あるな」
「お師匠様、やり過ぎです!」
冷静に言うイシルビュートにクレアは言い返した。
「二階に寝かせてきますからね!」
クレアはレイアの腕を自分の肩に回すとよいしょと持ち上げ、飛空の魔術で少しだけ浮きながら二階の自室へとレイアを運ぶ。不安定な体勢でも構わずに寝ているレイアをベッドへと横たえると、その疲れ果てた寝顔を見て思わずため息をついた。
聖女の魔術書を手に入れてから二ヶ月。
イシルビュートによるスパルタ指導は一切の容赦がなく、それに食らいつくレイアの根性もあって聖女としての勉強は非常に順調だった。クレアが持ってきた辞書とイシルビュートの知識とが合わさり、次々と魔術陣を解読する三人。そして解読した魔術を発動するべくレイアは朝も昼も夜もなく練習を繰り返していた。
三人で読み解けても、発動できるのはレイアだけなのでレイアが完璧に魔術陣を理解していなければ意味がない。
初歩の魔術陣というのは陣も簡単で書いてある言語も二、三個程度であるが、中位、高位ともなるとそうはいかない。びっしりと陣を隙間なく埋め尽くすほどに書かれた文章を理解し、そこに描かれた図式を解し、必要量の魔力を手にしたものだけがようやく発動できる。
初歩の魔術を知らない者にいきなり高位の魔術を使えと言っても絶対に無理だ。
それは、やっと文字を覚え始めた五、六歳の子供に大人向けの難解な本を渡し、「さあ内容を理解してごらん」というようなものだった。よしんば読めたとしても内容など頭に入ってこないだろう。
もともと上級魔術師として魔術を扱えるレイアなので、魔術の理解は早い。しかしイシルビュートはレイアに完全暗記を義務付けた。
イシルビュートは至極当たり前に言う。
「俺の教えを乞う者は誰であろうと、魔術陣を完璧に暗記してもらう」
「いや、別にそこまでする必要ないんじゃ…‥今回は急を要する事態ですし、レイアさんは正式にお師匠様の弟子じゃありませんし」
しかしイシルビュートは頑として譲らない。
「駄目だ。いつどんな状況になるとも限らない。もし聖女の魔術書が燃えたら? 持ち歩くのを忘れたり、奪われる可能性だってある。こんなもんに頼るからいけないんだよ。魔術陣は、覚えろ。完全暗記だ。そうしたらどんな状況でも焦らず慌てず、常にベストな戦法を取れる」
真面目なレイアはこれに大いに同意した。
「その通りだ、イシルビュート殿。私は聖女として、全ての癒しの魔術を覚える責務がある。私はやるぞ、クレア、止めてくれるな」
レイアはクレアのように一度見たら忘れない絶対暗記のような才能を持ち合わせてはいないので、地道に書いて覚えるしかない。
そんなわけでレイアは目下、イシルビュートとクレアと三人で勉強漬けの日々を送っていた。
クレアがリビングへ降りるとそこではイシルビュートがテーブルへ頬杖をつきながら聖女の魔術書を興味深そうに読んでいる。
「お茶でも淹れますか?」
「ああ。頼む」
クレアはキッチンに向かって家に常備してある茶葉の蓋を開けるとポットへ入れ、それからペン先でやかんを叩いた。途端に空のやかんの中は水で満たされ、次の魔術で沸騰する。しゅんしゅんと湯気を吹き出したそれをポットへ注ぐと少し蒸らし、クレアはカップへとお茶を淹れた。
「どうぞ」
「ありがとな」
魔術書から目を離さず右手でカップを掴むと、イシルビュートは少しずつ口へと含む。
クレアもふーふーと息を吹きかけ、冷ましてからこくりと飲んだ。
ピリリとした刺激が少しある、馴染みのある味にほっこりとした。王宮では飲むことのできなかったお茶だ。あそこで常飲されているのはよく言えばマイルドな、悪く言えば淡白すぎる味わいの紅茶ばかりだったので、このお茶を飲むと「ああ、帰ってきたんだなぁ」という気持ちになる。
ドットーレからすれば「癖が強すぎる」らしいのだが、飲み慣れている身からすればなんのことはない。他のお茶の味が薄すぎるのだ。
クレアはお茶を飲みながら、うず高く積まれた紙の束から一枚引き抜きそこに書かれている魔術陣を眺めた。
「これが正真正銘、浄化の魔術陣なんですよね」
「ああ」
「これをレイアさんが覚えれば、瘴気が消えるんですよね」
「そのはずだ。まあ……簡単にはいかないだろうけど」
イシルビュートはカップをテーブルへ置くと魔術書から目を離し、横に座るクレアを見た。
「クレアはこの魔術陣を見て何か気がついたことはないか?」
言われてクレアは考えた。浄化の魔術陣は瘴気を払う魔術だ。聖女の持つ聖力と魔力とで大気中の毒素を包み込み、消し去る。レイアが四日も夜を通して書き続けた三角が二つ上下に重なったその陣を見つめ、そして回答した。
「使う聖力と魔力に比べて、術の範囲が狭い?」
「正解。多分、一人で使うような魔術じゃないんだ」
イシルビュートは言う。




