前編:百年前
今より百年前のこと、ロディナ大陸の人類は壊滅の危機に瀕していた。千年生きる、九つの頭を持ち、口から死をもたらす毒の息吹を撒き散らす伝説の竜ハイドラの怒りに人間が触れて、その災害とも呼ぶべき力が人族を襲ったからだ。
人々はこの厄災に恐れ慄き、魔術大国たるテオドライトに頼った。そして一人の男がハイドラ討伐に名乗りを上げる。
その者こそ数多の魔術を極め、幾多の魔物を討伐し、戦場を駆け抜けた英雄魔術師ビュート・アレクサンダーだ。
決戦の地はテオドライト王国の最北端だった。
戦闘の激しさを予測したビュートはたった一人でハイドラへと挑み掛かる。その手にはびっしりと文様を施した柄に禍々しく黒く光る魔石が嵌った、一振りの杖が握られていた。
魔杖ーー栄光奈落。
絶大な威力を誇るその杖は持つ者に栄華と凋落をもたらすと言われている、呪われた杖だ。
栄光奈落を手にしたビュートは凄まじいまでの力を発揮し、激戦を繰り広げた。
そしてついにビュートは、杖を媒介にしてハイドラの封印に成功した。
戦闘の余波によって辺り一帯が雪と氷に閉ざされた世界へと変貌した洞窟の中で、ビュートは息を切らして膝をつく。
「……悪いな、毒竜ハイドラ」
「……何への謝罪だ」
互いに傷つきボロボロになりながら、栄光奈落によって隔てられた分厚い氷の壁の内側にいるハイドラにビュートは話しかけた。
「いやぁ……お前の住処を奪っちまってよ。悪いのは先に仕掛けた俺たち人間の方だった。だろう?」
「フン、わかっておるなら余を閉ざすような真似はやめろ」
「まあ、それにしたってお前はやりすぎたよ。何しろこの大陸の人間の半分は殺された。罪のない者も、ある者も、等しく」
「それが弱者の運命だろう」
「ああ、だから、ここで頭を冷やしてくれよ。何、お前の怒りが冷める頃には封印を解くヤツが現れる」
「どうだかな」
力の源である竜核を抜き出されて封ぜられたハイドラは、全身から青い血を流しながら苦々しく呻いた。血まみれなのはビュートも同じだ。
「貴様、人間のくせに尋常ではない力を持っていた」
「そりゃ、まあ、道具のおかげだ」
「過ぎたる力は身を滅ぼすぞ……魔杖の力を借りて余の竜核を封じた貴様の方とてただでは済むまい」
「重々承知の上だ……ゲホッ、ゲフッ」
ごぼりと口から血が流れる。それでもビュートは口角を持ち上げてニヤリと笑った。
「あぁ……ま、百年くらいは寝ててくれないか。奪われた住処の代わりだと思って」
ハイドラは赤い双眸でビュートを見つめ、再びフンと鼻を鳴らした。
「以前の場所に比べて、ここは少々寒すぎる」
「すまんなぁ、こんなやり方しかできなくてよ」
「まあ良い、貴様に免じて許してやろう。余は強い者は嫌いではない。……百年後にまた相見えよう」
「面白ぇ冗談だ」
ハイドラはそれきり首を胴体へと巻きつけて目を閉じ、動かなくなった。
封印されているこの状態を利用して傷を治すつもりだろう。大人しくなったのを見届けたビュートは踵を返して洞窟を出る。
ーー外は吹雪が吹き荒れる暴雪の世界となっていた。
がふっ、と咳とともに真っ白い雪の上に血の飛沫が散った。
「ヤッベェな、魔力吸われ過ぎだこりゃ」
栄光奈落は暴走する杖だ。持ち主の魔力を無尽蔵に吸い付くし、代わりに何百倍もの威力の魔術を発動できる。ハイドラとの戦闘でごっそりと魔力を持って行かれたビュートは、力なくははっと笑った。
うずくまった手のひらには、今までに無かった紋様が浮かび上がっている。杖に刻まれているのと同じものだ。
「しかも……呪いじゃねえかこりゃあ……」
じわりじわりと、体中を蝕まれる感覚に襲われる。わずかばかりしかない魔力が、なおも消耗されていく感覚。
「ああ……成る程な」
理解した。そういうことか、と腑に落ちる。
「さすが魔杖……竜核の封印に使っている以上、術者の俺の魔力を食い続けるのか」
この魔力消耗の勢いは並大抵のものではない。
ハイドラ封印と引き換えにーービュートは魔術を発動する術を失ったのだ。
ふう、と息をついて口元の血を拭う。それから立ち上がり、よろよろと歩き出した。
「……ま……ほとぼりが冷めるまで生きていてやろうじゃねえか」
そうしてビュートは歩き出した。
後に残されたのは、雪と氷の大地と、ハイドラが封印された洞窟のみだった。




