第7話 残念ながらデロリアンじゃない
「か、買ってきたよ。これで、いいかな」
「まあ、どうもありがとう。性悪でニセ乳で、ビッチで、おまけに金の亡者な私なんかのために早起きして評判のパン屋さんに寄ってきてくれるだなんて。とっても紳士なのね、日下部君」
「やだなあ小湊さん。君の役に立てるのは僕にとって無上の喜びだよ」
「もう、上手なんだからあ。
あ、そうそう。お金を渡さないとね。はい」
頼まれていたサンドイッチやデニッシュパン、それと紙パックの紅茶と引き換えに僕に渡されたのは百円玉1枚だった。
「わ、わあ」
そう小さく喜んで見せる僕の顔は当然引きつっている。
彼女はそんな僕の顔を少し不安そうに覗き込んだ。
「もし足らなかったら、遠慮なく言ってね。日下部君」
そしてボソッと小さな声で付け足す。
「言えるものなら……、だけど」
そっちの方がもちろん本音に違いない。
「め、滅相もないよ小湊さん。こんなに貰えるとは思ってなかったから、ちょっと驚いただけさ」
実際、百円とはいえ渡してきたことは予想外だった。いやむしろまったく渡されないよりタチが悪いともいえる。
なにせわずかとはいえ対価を渡したことで、この行為は正当性を帯びかねない。
もし金額が『多少』足りなかったとしても、それは間違いや勘違いに過ぎないと彼女はいざという時に言い逃れられるのだ。本当に狡猾な女だ。
しかしここで彼女の雰囲気が一変する。
「もう、冗談に決まってるでしょ。まったく、少しは反論しなさいよね。このまま終わるとまるで私がただの嫌な女みたいじゃない」
よそ行きの顔を綺麗にぬぐい去った彼女は、あきれたようにそう言うと僕の手に千円札を握らせてくる。
「お釣りはとっといてくれていいわ。お駄賃よ」
だけど、それでは僕の方が収まらない。
「そんなわけにいかないだろ」
僕は最初に貰った百円と一緒にお釣りを全て彼女に手渡した。それだけが、僕にできるせめてもの抵抗だった。
「もう、いいって言ったのに。相変わらず頭がかたいんだから」
なぜか僕の方が空気を読まないめんどくさい子を見るような目で見られた。
いや、最初にめんどくさいことを命令してきたのは君の方だからな!?
朝早くに着信したメッセージを見て、僕は憂鬱な気分で目覚めたものだ。
もしこれが未来の自分が送ってきた過去改変のためのメールだったらと思うものの、何度見つめてもその文面が変化することはなかった。
第一、着信するならせめて後1日は早くなければ手遅れだし、僕の家には奇妙な電子レンジどころかブラウン管テレビすらない。
まあ結局のところ、あれから僕はスマホのアドレス交換を強要され、その翌日にはていよくパシリに使われたというわけである。
ちなみに、知人とアドレス交換などという人生初のイベントに、それが最悪の相手であるにもかかわらず少しだけドギマギしたのは内緒だ。
だけどもちろんスムーズになど操作出来るはずがなく、苛立つ彼女にちょっと貸してみなさいよとスマホを取り上げられてしまう。
突然奪われて慌てた僕はひとしきり彼女と押し問答したあげく、ブラックアウトした画面を再表示させるのに、本人確認最後の砦であるパスワードまで言わされる羽目になったのはマズい誤算だった。
言い渋る僕を相手に己の絶対的な立場を自覚する彼女は、
「ほら~、どうしたの? 言ってみなさいよ。言えば全校生徒垂涎の私のアドレスが手に入るのに、一体何をためらってるの?
それともまさか私のアドレスが欲しくないなんて……。そんなつれないこと、日下部君はぜ~ったいに言わないわよね」
と迫ってくる。その顔は実に生き生きとして楽しそうだった。
屈辱の中でパスワードを自白し、「ぜひ……、君のアドレスが、欲しいです」とおねだりさせられる僕の姿に満足したのか、彼女はリア充らしい鮮やかな手付きでアドレス交換を完了させるとそれで素直にスマホを返してくれた。
アニソンのデータやオタクサイトのアドレスなんかでぎっしりなライブラリをついでに漁られなかったのは不幸中の幸いなのだが、
「あ、パスワードは勝手に変更しちゃ嫌だからね。何かあったらまた私がイロイロと教えてあげなきゃいけないから」
と釘を刺すことを彼女は忘れなかった。
スマホのアドレスという見えない鎖で僕を繋いだだけでは飽き足らず、プライバシーの塊であるスマホ自体まで人質に取って優位に立とうとするとはどこまでも厄介な相手だった。
そんな苦い記憶はともかく、彼女がパン代を払ってきたのは収穫と言えなくもない。少なくともすぐに存在を消される心配は遠のいたと考えられるからだ。
いやそれどころか、これは彼女が僕のことを使い捨てではなく、積極的に利用しようと考えている現れではないだろうか。
旧東ドイツの秘密警察シュタージは国内に異常なほどの情報網を張り巡らせることで、ゲシュタポやKGBすら上回る恐怖の監視社会を作り上げたという。あらゆる手段で国民の弱みを握っては協力者に仕立て上げ、密告や盗聴に苛烈な取り調べで体制を維持し続けた。最盛期には実に国民の10人に1人がシュタージの関係者だったとも言われている。
(つまり僕も、彼女の支配体制を支える協力者の一員に仕立て上げられたというわけか)
そう考えれば、彼女が僕の暴行未遂容疑を晴らしてくれなかったことにも納得がいく。ハニートラップなんて使い古された手口だった。
僕が彼女をかばってあの体勢になったのは偶然だとしても、それをとっさに利用して僕を陥れたあの機転と手腕はさすがといえた。
(なにが『キャー!』だ。この魔女め!)
にもかかわらず自分を処女とうそぶき、更なる罪悪感で獲物をがんじがらめにしようとたくらむ女を僕が睨んでいると、彼女がハーッとため息をついた。
「何考えてるか知らないけど、いい加減そんな目で私を見るのはやめてくれない?」
魔女が何か言っていた。
(くっくっくっ。せいぜい今のうちに戯言をほざいているがいい。僕をすぐに始末しなかったことがお前の命取りだ。絶対にその正体を白日のもとにさらしてベルリンの壁を崩壊させてやる! ディストピアからの解放だ!!)
「だから、そんな目で私を見ないでよ。お金だって払ったんだし、通学途中にちょっと寄ってパンを買ってきてもらうくらい別にいいでしょ」
だけどそこで彼女はなぜか恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「そ、それにあんたは、私の胸をその手で揉んだ上にブラジャーまでいじりまわしたんだから。それくらい安いもんじゃない」
(まるで僕が積極的にそうしたと言わんばかりの言い草だな!?)
おまけに行為がより過激な感じにすり替えられている。
その傍若無人な事象変換はさすがだったが、僕も苛立ってばかりはいられない。彼女がやっぱり僕を粛清しようと考え直す前に、彼女の正体を暴く決定的な証拠か、もしくは彼女の重大な弱みを僕は握らなければならないのだ。
それも隠れ巨乳などというくだらない事案や、実は処女などという見え透いた嘘ではなく。インチキな暴行未遂容疑を黙らせられるだけのネタでなければダメだった。
「はははっ。それは言わないで欲しいな。僕も悪いとは思ってるんだから」
無理矢理にこやかな笑顔を浮かべたが、当然僕は何も悪くなどない。悪いのは胸糞くらいだ。
「え、いや、助けてくれたのは確かなんだし。あんたが変なこと言って私を挑発さえしなければ、私は別に……」
最初に勘違いを誘う手紙で呼び出し、都合よく過去の出来事を改変して挑発したのはそっちだろうがと思ったが、それにもあえて僕は触れなかった。
「む、むしろ私はちゃんとお礼や昔の謝罪を…」
ただ、このままだと何かの拍子に怒鳴ってしまいそうだったので、僕は彼女が小声で何かゴニョゴニョと続けているのを強引にさえぎって話題を変えた。
「そ、そんなことより小湊さん! そろそろ買ってきてあげたパン、食べた方がいいんじゃないかな? このままだと昼休みが終わってしまうよ」
それでも彼女はなおも何か言いたげにしていたが、やがてハーッとため息をつくと仕方なさそうにうなだれた。
「そうね。あんたは適当な椅子にでも座ってちょうだい」
どうやら僕は、このまま立ち去るわけにはいかないようだ。
(この魔女と二人きりで食事とか。それはどんな罰ゲームなんだ?)
げっそりとした僕だが、考えようによってはこれはこれで情報収集の絶好のチャンスでもある。そう思いなおすことで何とか僕は気持ちを立て直した。
そうして、二人だけの昼食会が美術準備室で始まった。




