第一章 無法地帯京の都
文久三年 四月一日
「くそ! 忌々しい壬生狼め!」
雨が降る京の夕暮れ時、長州藩邸に入るや否や、桂小五郎は水に濡れた羽織を床に叩きつけた。酷く怒った様子の彼は眉間に深いしわを寄せているため、せっかくの美丈夫が台無しだ。
そんな桂を見て、部屋の隅で刀の手入れをしていた吉田稔麿はくつくつと喉を震わせた。
「今日も荒れてますねえ、桂さん」
長い黒髪を後ろで緩く束ねている稔麿は艶美な……しかしどこか不気味さを秘めた笑みを浮かべ、刀から桂へと視線を移動させる。
「これが荒れずにいられようか! 幕府の犬が……我が物顔で浪士を斬るさまを見ているだけで腸が煮えくり返る思いだ! ついこないだ京に来たばかりの田舎侍どもが……」
桂はそんな稔麿の笑みに目もくれず、否、そんなものに意識を飛ばせないほどに興奮していたため、彼の言葉を聞いて溜めていた苛立ちや興奮を吐き出すように言葉にした。
一方、激怒する桂とは一転、稔麿は「そうなんだあ」と、さほど興味なさそうに呟いて先ほどから中断していた刀の手入れを再開すべく、再び手を動かす。
「はあ……。聞いてないだろう、稔麿。まあ、いつものことだが……」
もう慣れてしまったよ、と付け足すと稔麿を視界から追い出す。そして惜しげもなく深いため息をつき自身を落ち着かせた桂はきょろきょろと部屋を隅々まで見渡した。
「どうしたの? 桂さん」
稔麿は刀に目を向けながらも桂の困惑振りに気がついたのか、声をかける。しかし目線は刀に向けたままだ。これが目上の者に対する態度かと、桂は怒りを通り越してあきれてきた。むしろ、稔麿の怖いものなしのような性格には尊敬すら抱くものがある。
まあ、それを補う実績と実力があるからこそ、その尊敬は生まれるのだがな、と桂は内心苦笑し、疑問に思っていたことをたずねることにした。
「いや、紺はどこへ行ったのかと思ってな」
どこ、と言っても厠か風呂だろう。今や無法地帯とまで言われるほどに治安の悪い京の夕暮れ時に、女一人で外に出るはずはないと、桂は根拠のない予想を胸に言葉を待った。
しかし桂の予想は見事にはずれ、彼は稔麿の言葉に酷く驚くことになる。
「ああ、紺ですか。彼女なら気晴らしに散歩に行くといって出て行きましたよ」
「さ、散歩だって!?」
稔麿が難なく言った言葉に過剰に反応する桂。稔麿はそんな彼のあわてた様子の声を聞いて、やっと手入れしていた刀から目を離した。いや、もしかすれば手入れが終わったから視線を変えたのかもしれないが。稔麿の性格的にそちらのほうが可能性は高い。
とりあえず稔麿は刀から目を離し桂を見た。それも怪訝な顔で。
「何で止めなかった!? 京が今どんな状態か知らないわけじゃないだろう!?」
さっきの『壬生狼』(正式名称は壬生浪士組)への怒りもよみがえってきたのか、桂は怒鳴り声を上げると涼しい顔をしている稔麿を睨んだ。
稔麿はそんな桂を見てあきれたようにため息をつくとにこっと微笑む。その稔麿の笑みはこの緊迫した雰囲気の中で言わずとも場違いだった。
「もちろん知ってますよ。だから紺のことも止めました。でもあの子は一度言い出したら誰になんと言われようと意見は変えないって知ってるでしょう? それに彼女は下手な浪士より腕が立ちますしね」
淡々とつむがれる稔麿の言葉はすべて正論であり、桂は苦虫をつぶしたような顔をする。稔麿はそんな桂の様子を見てどこか勝ち誇ったかのような笑みを見せると自分の羽織を着た。
「どこに行くんだ?」
「紺を探しに。引き止められなかった俺の責任なんで。桂さんは先に休んでてください」
「いや、私も……」
そういって立ち上がろうとする桂を手で制し、稔麿は手入れしていた自分の愛刀を鞘に入れると、大きく伸びをしてから桂に目を向けた。
「桂さんは風呂でも入って気分転換しといてください。最近働き詰めで桂さん大丈夫かなって、紺もずっと心配してましたよ」
「紺が……?」
思いもしなかった稔麿の言葉に呆けながら、そういえばここ最近は休めてなくて苛立っていたかもしれない、と自分の行動を思い返しこくりと頷いた。
「私は部屋で休んでいる。紺のことはよろしく頼むな」
桂の言葉を背中で聞いていた稔麿は「はーい」と返事をして部屋から出た。
紺が心配していたという事実を知ったときのどこはかとなく嬉しそうにしていた桂を思い出し、先ほどまでの嫌味な影を一切見せない笑みを、彼は無意識のうちに浮かべていた。
1
少し時がたって稔麿はずっと探していた長州藩邸の近所から離れ、もう少し遠くへと足を伸ばした。その理由は至極簡単。探している少女、紺がいないのだ。
長州藩邸に帰っているのかとも思ったが、もしいない場合を考えると桂が紺はどこだと問いただすに違いない。そしてその理由を知れば、長州の輩全員を使ってでも紺を探し出そうとするだろう。壬生浪士組が巡回している京で長州が慌しく動き目立つのは稔麿にしては避けたいことだった。それに壬生浪士組には『鬼の副長』との異名をもつ土方歳三がいる。忍び込ませた間者の情報によれば、彼は頭がきれ、どんな手段も問わないという。
(敵じゃなかったら是非近づきになりたいんだけどなあ)
桂が聞いたら癇癪を起こしそうなことを考えながら木屋町通辺りを見渡しながら歩く。柳の木を避け、鴨川方面にも目を配らす。
いつの間にか上がっていた雨のせいで荷物になってしまった番傘を肩にもたれかけさせると、高瀬川方面からよく通る澄んだ女の声が聞こえてきた。
「その人嫌がってるじゃないですか。放してあげてください」
聞き覚えのある声に無意識に体がそっちへ動く。胸辺りまでの黒髪、紺色の着物、羽織に隠れてはいるが、大小の刀。間違いなく彼女だ。遠目でもそう確信した稔麿はすたすたと迷うことなく歩みを速める。
普段彼は女性が絡まられたりしていても助けたりなんてしない。面倒だからだ。稔麿ほどの腕があれば誰にも負けることなんてないのにどうして助けないの? と、よく紺に理解できないと言われていたのを思い出した。
(俺は紺のほうが理解できないけどね)
自分より他を優先する紺が、稔麿は理解できなかった。彼女は自分より他人が大切らしい。長年の付き合いの者はもちろんのこと、それが今初めて出会った者だとしてもだ。紺が稔麿を理解出来ないかのように稔麿も彼女を理解できなかった。
今だってそう。紺は今日初めて出会ったであろう女を助けるために騒ぎに首を突っ込み、今度は自分が不逞浪士だと思われるなりをした三人組の標的にされている。
紺は気づいていないが彼女は美人だ。
猫を思わせるような黒目がちの大きな目にぷっくりとした赤い唇。誰もが振り返る美人だというのに、気取ることもないし男に媚びることもない。
そんな彼女の気丈な態度にあきらめる者も多いが虜になるものは多かった。各言う稔麿も、長年彼女を慕っている者の一人だった。
「なんだあ? じゃあ嬢ちゃんがこの女に代わって俺たちの相手してくれるのか?」
「かなりの上玉じゃねえか。しかも気が強いときた。もろ俺の好みだぜ」
「ほら、こっち来いよ」
だから下卑た笑みを浮かべながら紺に近づく浪士たちに強い苛立ちを覚えた。
研いだばかりの刀を無意識のうちに握り、鋭い殺気を向けて浪士たちに近づく。
ただならぬ気配を感じたのか、その騒ぎを見ていた野次馬たちは稔麿にどんどんと道を空けていった。傘はどうやらいつの間にか落としてきたらしい。
「紺からその薄汚い手を離してくれないかな」
不敵な笑みを浮かべて刀を抜く稔麿の目の端に、紺が後ろにいる女性を庇いながら後退し、刀を抜く姿が目に入った。
「きゃあああぁぁあああっ!」
刹那、野次馬の中のまだ幼い少女がけたたましい悲鳴をあげた。その少女の母親だと思われる者が彼女の目を覆うのと、浪士の腕が血飛沫をあげながら宙を舞い、ドシャッと鈍い音を立てて地面に落ちるのはほぼ同時だった。
「お、俺の腕えぇええええっ!」
錯乱して叫ぶ浪士を、稔麿はまるで虫けらを見るような目で一瞥すると一太刀で彼の命を奪った。……稔麿は、彼に命乞いの暇さえやらなかった。
次の獲物を探すかのようにギロリと光る稔麿の目に、周囲の者は固唾を呑んだ。
周囲を見渡せば、紺が鞘に入ったままの刀で浪士の鳩尾を突いているところだった。
「ぐ、う……っ」
「今ならまだ間に合います。そこに伸びている仲間を連れて逃げてください」
もう一人も稔麿が浪士を殺している間に気絶させたらしく、紺は鳩尾を押さえてうずくまっている浪士を見下ろしながら淡々とした口調で告げる。
稔麿は、そんな紺の言葉を聞いて自分の耳を疑った。
「紺、もしかして逃がすつもり……とかはないよね?」
紺が考えていることは分かるのだが、苦笑しながら稔麿は彼女に真偽を説く。しかし彼女の次の言葉は、稔麿が予想していたものと全く同じものだった。
「もちろん、逃がすつもりだけど?」
あっけらかんと言ってみせた紺に、怒りを通り越してあきれてくる。彼女は何も分かってない。あのままじゃ自分は襲われていたことや(まあ、紺は強いからその心配はないと思うが)、今ここで見逃したとしても浪士たちはまた同じ過ちをおかすということに。
『根本的に根が悪い人なんていない。生まれたときから人を斬ることに長けてる人なんていない。悪いのは、人を簡単に殺せてしまうこの時代だと、私は思う』
稔麿は、その昔紺が言っていたことを思い出してた。考えの甘い紺。人はどんなときでもやり直せると、そう信じている。彼女は、この時代に向いていないのだろう。正論だけを言って生きてはいけない、この時代には。
「あの人も……殺すことなんてなかった」
ポツリとつぶやいた紺の言葉に、稔麿は先刻自分が手にかけた男を見下ろした。眠ったような顔……とは程遠い、恐ろしいものを見たかのように悲鳴を上げた顔で固まっている。
恐ろしいものとはなくなった自分の腕だろう。だが、一瞬で死ねたはずだ。腕がなくなって錯乱していたし、とどめは一太刀で終わらせた。それは、稔麿なりの慈悲だったのだが、紺は理解しがたいらしい。
「今逃げれば命は助けます。だから……」
「うおおおおおおおおっ!」
浪士と目線を合わせるためにしゃがみこんだ紺を一瞥し、彼は刀を抜いて紺の横の女に襲い掛かる。すっかり安堵のため息をついていた紺に庇われていた女は「きゃ……っ」と小さく悲鳴をあげた。
次の瞬間、ビシャッと恐怖に顔を歪めていた女の顔に血のりがかかる。彼女は恐る恐るそれに触れ、何が起こったのかわからないといった顔を見せた。
「残念です。あなたが変われる、最後の機会だったのに」
目を白黒させる女の耳に紺の冷たい声が響き、やっと彼女が浪士を斬ったのだと悟る。呆然とする女に紺は手ぬぐいを渡すとにっこりと笑った。
その瞬間、その騒ぎを見ていた野次馬たちが次々にぱちぱちと拍手をし始めた。
「いやあ! 嬢ちゃん、兄ちゃん、おおきに!」
「ほんまお強いでんなあ。お二方のおかげで助かりましたえ」
「こいつは縄で縛って奉公所へつきだしとこかあ」
「娘さんの言葉、ほんに格好よかったわあ」
次々と礼を言われる中、紺は複雑そうな顔色で刀についた血をぬぐうと稔麿に目を向ける。稔麿も紺のことを見ていたので、必然的に目が合うが、紺はすぐに目を背けた。稔麿はそんな紺に気づき、歓喜の声が飛ぶ中で彼女に近づく。
「結局、変わらなかったね」
「!」
小声でささやかれた声は紺にだけ聞こえ、彼女は唇をかみ締めて地面へと視線を落とす。その顔は横目で見ても今にも泣き出しそうな色を浮かべていた。
稔麿はそんな彼女の様子を見て内心うろたえ、自身が発した言葉に後悔しつつ声をかけようとするが、なんと言ったらいいかわからず、言葉を呑み込んだ。
「お二方! おしのを助けてくれて、ほんにありがとうございます!」
微妙な空気になっていた二人に小柄で人の良さそうな男が近寄ってきた。その後ろには紺の手ぬぐいを持った女。『おしの』とはこの女のことだろうと二人は瞬時に理解した。
小柄な男がおしのをひじで小突くと、彼女ははっとしたように呆然として何も映していなかった瞳に紺と稔麿を映した。
「しのぶといいます。どうぞ、おしのと呼んでくださいまし。お二方には危のうところを助けてもうて、ほんに感謝してもしきれまへん。なにかお礼でもさしてもらえへんやろか」
ふかぶかと頭を下げたしのぶに、紺はあわてて頭を上げるように言うと「気持ちだけありがたく頂戴します」と笑った。それを聞いてしのぶがもう一度深く頭を下げたのは言うまでもない。
「紹介遅れました、あっしは惣兵衛といいます。一応この池田屋の主人を勤めさせていただいとります。おしのはここの看板娘でして……。お礼といってはなんですけど今日はもう遅いさかい、泊まっていかれまへんか? もちろんお駄賃はいりまへんので……」
人のいい笑みを浮かべる惣兵衛に、当たり前のことをしただけなのにそこまでは悪いと思い、断りの言葉を伝えるため、躊躇いがちな笑顔を向けると口を開いた。
「お気持ちはありがたいですけど、私たちの住まいはこの近くなので大丈夫で……」
「壬生狼や! 壬生狼が来よったで!」
紺の言葉が終わらないうちに、バラけだしていた野次馬の一人が声を出す。その声はいくらか抑えていたであろうはずなのに辺りは波打ったように静かになった。
誰一人声を出さぬまま遠くからやってくる集団に目を向けた。集団といってもそれは少数のもので恐れるほどの人数ではない。しかし、『腕は確かな侍集団』という噂や、京で横暴を繰り返す芹沢鴨は有名だったので、たとえ少数でも、それはただならぬ気迫を感じたであろう。
「……主人、少しの間でいいからかくまってくれない?」
無意識ながら紺が壬生浪士組を見て身震いしたのに気づいた稔麿は紺の肩に手を置きぐっとこちらに引き寄せた。驚いた紺は稔麿を凝視する。しかし稔麿はそんな紺の視線など気にもとめず惣兵衛に意味深な視線を送った。
「へえ、わかりました。どうぞ中へ入ってくだせえ」
惣兵衛は稔麿の視線に何かを感じ取ったらしく、こちらへと歩いてきている壬生浪士組を一瞥するとこくりとうなずき、紺たちを池田屋の中へと案内した。
しのぶは紺たちが中へ入ったのを確認し、自分も三人の後に続く。そして静かに戸を閉めると、惣兵衛に代わって案内をはじめた。
「……これはうちの勝手な予想ですけんど、奉公所の者が死体を引き取りに来るまで壬生狼はあそこを離れんと思います。せやに、少しの間といわずゆっくりしてってつかっさい」
しのぶの言葉に二人は顔を見合わし、紺はこくりと稔麿に向かってうなずき、「あと半刻(約一時間)しても壬生狼があそこを動かないようなら考えさしてもらいます」と答えた。
「ほな、湯殿にでも入っていかれたらどうやろか。風邪でもひいたら大変やさかい」
にっこりと笑って風呂を勧めてきたしのぶに、稔麿はいまさらながら紺が雨にぬれていたことに気づく。どうして番傘を持っていかなかったんだと説教したい気分になったが、しのぶの言うとおり風邪をひかれても後々面倒なので(桂が)、稔麿も紺に風呂に入るよう勧めた。
「えー、風呂まで借りるのはさすがに悪いし……放っておいても大丈夫だって」
「紺が大丈夫とかの問題じゃなくて、俺が後々桂さんに怒られるんだよ。ま、そのときは紺も道連れにするけどね。……とりあえず、風呂でゆっくりするか俺に説教されるかどっちがいいわけ?」
「……お風呂でゆっくりしたいです」
稔麿に容赦ない言葉と選択肢を向けられ言いたい文句はあったようだが、紺はそれを何とか飲み込んだ。しのぶは二人のやり取りを見てくすくす笑うと、たまたま近くにいた女中に紺を風呂まで案内するように頼む。
紺はぶちぶちと文句を言いながらも、渋々女中についていった。
「ほな、殿方は先に二階のお部屋へ案内させてもらいます」
稔麿はそんな紺の背中をしばらく見送った後、しのぶに促されて階段を上った。
2
「ご苦労だった。浪士一名の身柄と他二名の死体、確かに預かった。後で報告書を出すように」
壬生浪士組が池田屋の前で浪士の死体を見つけてから半刻と少し。やっと役人が浪士たちを引き取り、その背中を見送ると副長の土方歳三は煙管をふかすと地面についた血の跡を草履で踏んで地面にこすりつけた。
「結構な時間がかかりましたねえ、土方さん。帰るときはもうかなり遅いですね、ここから壬生は結構な距離がありますし……」
長い黒髪を高い位置で結った美青年、副長助勤の沖田総司は、あくびをかみ締めながら伸びをする。そんな総司を横目に、帰ってからも執務がある土方は最初は何から取り掛かろうかと考えながら上を向き、煙管の煙を吐いた。
「土方副長、沖田先生! すみません、やっぱりだめでした……」
そんな土方と総司に、一緒に巡察に来ていた隊士、佐々木愛次郎が駆け寄ってきた。その言葉に総司は不服そうに唇を尖らせ、土方は最初から予想していたかのように「やっぱりか」とつぶやくと、「ご苦労」との意味を込めて落ち込む愛次郎に視線を送った。
「浪士を殺した人がどんな風貌だったかぐらい、教えてくれたっていいのにね」
「そんだけ俺たちが嫌われてるってこったろ」
納得がいかないという風にため息をつく総司に対して土方は苦笑しながらその頭をかきなでる。愛次郎は騒ぎを見ていた町人に話を聞こうと試みたが、壬生浪士組だと云うのはばれていたので軽くあしなわれたのだった。
「それにしても、どちらも見事な斬りぐちでしたよね。一度手合わせを願いたいなあ……」
きらきらとした顔に無邪気な笑みを浮かべ、浪士を斬ったのはどんな者なのかを想像しているのだろう総司を見て、土方はあきれのため息をつくのだった。
「じゃあ、僕愛次郎君と一緒に聞き込み行ってきます。二、三軒廻ったらすぐ帰ってくるのでここで待っていてくださいね」
「おう、気ぃつけろよ」
「ご心配なく」
にっこりと笑った総司を見て「そりゃそうか」とつぶやく。無邪気な顔をしていつも冗談を言っているような彼だが、刀の腕は確かなものだった。剣豪が集まっている壬生浪士組の中でも、総司は随一だろう。
隊士に稽古をつけるときの普段からは到底想像できない鬼のような総司を思い出し、土方は人知れず苦笑を浮かべる。
(案外壬生浪士組の鬼は俺じゃなく総司かも知れねえな)
少なからず土方は総司の腕に一目置いていた。
もう一度聞き込みに行った愛次郎と総司を見送り、煙管を吸うと上を向いて、ため息とともに夜空へと白い息を吐き出す。すると背後から視線を感じ、土方はとっさに池田屋の二階へと視線を変える。
すると、障子を開けて身を乗り出している女の、猫のような大きい目と目が合った。
土方は彼女の目に吸い込まれるかのように目を離さない。女も土方から目を離そうとしなかった。
風呂上りなのか、かすかにぬれた胸あたりまでのつややかな髪が風に揺れ、ほんのり桃色に紅潮している女のほほをかすめる。好奇や軽蔑、恐れも何も抱かずただ土方を直視している女に、彼は興味がわいた。
かすかな行灯の光に照らされる女はとても神秘的で、しばしの間土方は息をすることを忘れるほどに彼女に魅入っていた。
「土方さん?」
後ろから肩に触れられた手と聞きなれた総司の声で土方ははっと我に帰る。いつの間にか耳に入っていなかった外部の音が、総司のおかげでいっきに戻ってきた。
まるで夢から現実に引き戻されたかのようなその感覚に、多少の気持ち悪さを抱きながら総司に目を向ける。彼は、怪訝な顔をして土方を見ていた。
「大丈夫ですか? 呆けていたみたいですけど……。土方さん、仕事のし過ぎなんじゃないんですか?」
茶化しながらも土方の様子を心配している総司に、彼は「何でもねえよ」とまた煙管を吸った。
同じく心配そうな顔をしている愛次郎に、視線だけで聞き込みの報告を求める。愛次郎はその土方の視線の意味がわかったようでこくりとうなずくと口を開いた。
「三軒目に訪ねた家で、六歳ほどの少女に聞いた話ですが、浪士を殺したのは小柄な女と長身の男らしいです。男はわからないが、女は紺色の着物に桃色の羽織を着た美しい娘だったとのことです」
「その後すぐその子の母親が来てあわててその子連れて家に入っちゃったから聞き込み続行不可能でした」
「そうか、ご苦労だったな」
少ないがいつもよりは多い収穫だ。その報告にまあまあ満足した様子の土方は、まだ不満げな総司を一瞥すると『美しい娘』と聞いたときに脳裏によぎった女がいた場所へ目を向けた。
しかしそこには目当ての女いなく、夢現な気分の土方はさっきの女は妖か何かだったのではないかと考え始めた。
しばらくしてそんな馬鹿な考えを持った自分に自嘲の笑みを浮かべ、女がいた場所から目を離すと踵を返す。
(池田屋……か。一応覚えておくか)
自分を呼んでいる総司たちに目を向けるときに視界に入った宿屋の看板を何気なしに覚える。
……その後、その場所が運命の地になるとも知らず。
3
紺は壬生へと帰っていく土方たち一行の背中を無言で見詰めながら障子を閉めた。
それと同時に部屋へ近づいてくる誰かの気配を感じ、反射的に刀の柄に触れ息を潜める。それはこの時代で教えられずとも身についてしまった悲しい性であった。
しかし襖を開けたものが見慣れたものだったため、紺は警戒を解いて刀から手を離す。
それに気づいた襖を開けた男……稔麿はにやり、と笑った。
「気配の読み方がうまくなったね、紺。でもそれが誰の気配なのかわかるようにしないと逆に危ないよ」
とっさの判断だと的確に反応できず、仲間を斬ってしまう危険性がある、と笑う稔麿を見て、紺は壁にもたれかかり胡坐をかくと唇を尖らせた。
「私は稔麿や桂さんみたいにそんな物の怪じみたことできないよ」
しょげる紺を見て稔麿は笑いながら「いつかできるようになる」と告げた。根拠も何もないその言葉に紺は再び唇を尖らせたが、どうあがいても今の自分には習得出来ない技なので仕方なくあきらめた。
「風呂にしては長かったね。どこで道草してたの?」
道草していたこと前提で話を進める紺に苦笑を浮かべながら、惣兵衛と話していたのだと告げる。
風呂上りに偶然彼に会った稔麿は、礼もこめてという酒のもてなしに快く同意し、さまざまな話をしながら酒を飲んでいたのだという。
「主人はなかなか話のわかるやつでね、今の幕府には納得できないとこぼしていた。どうやら俺たちと同じ尊皇蝦夷論らしい。同じ志を持つ俺たちに、困ったときはいつでも協力すると言ってたよ」
かなりの酒を飲んだにもかかわらず酔ったそぶりを微塵も感じさせない稔麿はかなり酒に強いらしい。それに比べ、自分でも酒が弱いことを知っている紺は、もてなしに呼ばれなかったことをひどいとは思わなかった。
逆に惣兵衛が自分たちと同じ志を持った同士と知り、親近感を持つと同時にそれをうれしくも思った。
「壬生狼はどうだった? 気配はもうないけど」
そう言う稔麿に、やはり彼は人外なのではないかとおもいつつも「帰った」と告げる。その言葉に、稔麿はすぐさま「顔を見た?」と返した。
すると紺は大げさに肩をすくめてみせる。
「あいにく私は鳥目だから見えなかった。向こうは提灯を持ってたし、なんとなくだったら見えたけど……。正確な顔の特徴まではわからない」
紺の答えに稔麿は「そう……」とつぶやくと部屋は一時の沈黙が支配する。二人は少しの間その空気に口を閉じ、そしてしばらくたった後、紺が閉じていた口を開いた。
「……ねえ、稔麿。変なこと訊いてもいい?」
意外な質問に稔麿は戸惑いながらも「何?」と小さく返答した。
「壬生浪士組ってさ、何であんなに嫌われてるんだろ」
「…………は?」
紺の問いかけに稔麿はたっぷり数秒あけると何を言いたいのかわからないとでも言いたげな顔で紺を見る。そんな稔麿に対して、紺はまじめな顔をしていた。その顔はとても冗談を言っている様には見えない。稔麿は真剣に問う紺を見てなぜかこころに不安を抱いた。
「……そんなの俺が知るわけないでしょ。人斬り集団で横暴な局長がいるからじゃないの」