前哨戦、亡霊
「あちゃー…」
「これは…」
大野、鷹宮が、目の前に広がる惨状に声を上げる。
北陸新幹線の路線上において、長野県と群馬県の県境はトンネル内にある。
そのトンネルが、明らかに途中でなくなっていた。
まるで、トンネルのある山の長野県側が、空間ごと削り取られたかのように。
「もしそうであったとしても、私たちには判別は付かないがね。」
トンネルの、白色の非常灯が、その先の風景の異常性を男たちの前に暴き出していた。
懐中電灯で鷹宮が照らした先には何もなく、今彼らがいる場所の一メートルほど下に、ゴツゴツとした岩肌が見えているだけだった。
草の一本も生えていない、無表情な大地に、大野は珍しく露骨に不快感を露わにする。
「これは私が愛すべき、守るべき日本ではない。正直今すぐにでも爆弾か何かで粉々にしてやりたい所だが、生憎それをするだけの金も、時間も、人員も持っていないのでね。」
大野はトンネルの向こうに、足元の茶色い石を一つ蹴り入れて、踵を返した。
……
碓氷峠トンネルは、北陸新幹線において、群馬県と長野県の県境を越えるトンネルである。
その全長は六千メートル余りの長さを誇り、群馬県側には約五千メートル、長野県側には約千三百メートルの長さを持つ。
このトンネルが開通される前は、北に回り込みながら急勾配を越える旧信越本線が使われていた。
現在は廃線となっており、一部は観光地に開放されているが、その難工事での犠牲者が、身元不明の死体も含め五百を超えることにより、今でも心霊スポットとして名高い場所の一つとなっている。
また、旧信越本線では一九五〇年、大規模な土砂災害によって五十名の死者が発生した。
その他、碓氷峠トンネルそのものの工事においても、落盤事故による犠牲者が発生している。
これらの理由によるものか、旧信越本線の、計二十六にもなる廃線のトンネルと、現在の北陸新幹線が走る碓氷峠トンネルの両方において、幽霊を見た、幽霊の声を聞いたという証言が今も絶えない。
……
最初に気付いたのは、どちらだったか。
「……」
「おや……」
トンネルの非常灯、その無機質な光に照らされて、何かが蠢いた。
「これは少し、まずいかもしれないね。」
大野達の前に立ちのぼる、影、影、影。
そのどれもが、何の言葉も発さないが、明確に大野達に意識を向けていた。
「少し走るよ、鷹宮くん。トラックに戻るんだ。」
「また祟りとかそういう類のアレですか…」
彼らが走り出そうと地面を蹴った瞬間、石を踏む、ざり、という音に呼応するように、明確に影が大きく動いた。
明らかに意思を持って動いている影の中に、ひときわ黒い二つの点——殺意を孕んだ無機質な双眸が浮かび上がる。
自らの巣窟に土足で上がりこんだ無礼者に、報いを食らわせんとして、影の巨体がが踊りかかり、そして。
「ファーストアタックは貰っとくぜ、バケモン。」
だん、という音と共に、影の両の眼の間——人間であれば眉間にあたるであろう箇所に、正確に鉛玉が吸い込まれた。
二十世紀の戦場を蹂躙した科学の産物が、非科学の体現に火を噴く。
「おっしゃァ!手応えあり!」
その音に怯んだのか、はたまた影そのものにダメージを与えたのかは知る由もないが、とにかく影は飛びかかろうとする動きを止め、一瞬だが縮こまって震えた。
鷹宮は、とりあえずでぶっ放したハンドガンの反動で姿勢を崩すが、すぐに姿勢を持ち直したばかりか、反動を使って矢のような初速で走り出す。
大野もその一瞬で、走りながらトランシーバーを取り出し、トラックに残してきた白峰に連絡を入れる。
「トラックをこちらに。祟り現象に襲われている。アクセルを踏むだけで進むはずだ。減速はしなくていい、そのまま飛び乗る。どうぞ」
『向かいまーす、てか向かってます。走りながら術撃つんで気ィ付けてください。終わり』
彼らが影に接敵してから、鷹宮がハンドガンを撃つまで、ゼロコンマ六秒。
さらに、軽トラの荷台にいた白峰が、運転席に滑り込んでアクセルを踏み込むのに、さらに二秒。
つまり、この場には。
「寝起きの人間を!あんまり!こき使わないで欲しいもんですけどねぇぇ!」
「お?」
プロの人間しかいなかった。
「急急如律令!おっせえええ!この車おっせええ!さっきのどうやったんスか先輩!」
「よっこら」
「助かったよ、白峰くん。このまま突っ切るよ。」
それが、トンネルの亡霊が、そのたった一つの目的を遂行できなかった、ただ一つの理由だった。
「火焔ンン!おっしゃアアァァ!効果はばつぐんだ!!訳分かんねぇ気色悪ィデカブツはたおれた!」
「白峰、運転変われ!トンネル出るぞ!」
トンネルいっぱいに広がった青色の炎の中から、荷台を覆う緑色の幌をマントのようにたなびかせて、割とうるさい男たちを乗せたトラックが飛び出す。
幌を固定していた縄が、一部だけ外れていた。
鷹宮がハンドルを握り、トラックは急加速する。
「おわー!速えええ!」
白峰が叫びながら、運転席のドアを掴んで、サルのような身のこなしで荷台に戻っていく。
「先輩!さっきのでマフラー潰れてますって!車輪も潰れかけてるし!あとどんくらい走るんすか!」
「うるせぇ!マフラーぐらい叩いて直しとけ!」
「そういえば、軌陸車仕様のものからタイヤを変えていなかったね。どこかで車を止めて、交換しておこうか。」
うるさい男たちの声は、トンネルからどんどん遠ざかり、あれよあれよという間に、トラックのテールランプすら見えなくなる。
そうして、大野たちとトンネルの亡霊の、一度きりの邂逅は、幕を閉じた。
本当に?
『怨めしい』
「あれ?今なんか『怨めしい』聞こえませんでした?」
『怨めしい』
「やっぱなんかおかし『怨めしい』いっすよ、先『怨めしい』輩。怨めしいっす。
あれ?『怨めしい。文明への人身供養?運が悪かった?そんなの認めない。認めてたまるか。』ああ……痛かった。」
「そうだ、あれは痛かった。腕が折れ、足が折れ、ちぎれ飛び、目が押し潰され、口の中に入った泥が鼻から逆流して、痛み、痛み、痛み、痛み。」
『泥と泥に押し潰され、身が擦り砕け、地べたに押し倒され、そして、死んだ。』
「痛み……それがなきゃこんなに怨んでないって話っスか?」
『我らの犠牲を必要なものであったなどと抜かすのも……』
影の言葉は途中で止まった。
白峰の瞳孔が大きくなり、その言葉から温度が消えていたのは、一瞬だけであった。
『なぜ 喋っている?』
「やっべ、勝手に喋ったら駄目なタイプ?それだけでキレるとかちょっとカルシウム足りてなさすぎじゃないっスか?今時のメンヘラ女もびっくりっスよ。あれ、てか死んで骨だけになったら純度百パーのカルシウムじゃね?」
気付けばトラックは、時間が止まったかのように停止していた。
風も吹かない。前に座っている大野も、鷹宮も、硬直して動かない。
白峰と、影しか喋らない時間の中で、白峰がふざけまくっていた。
『……殺す』
「無理でしょ」
影は、ようやく自分のやるべきことを思い出したかのように、白峰に襲いかかる。
「急急如律令、火焔。戦闘用の陰陽式は山ほど積んできたんスよ。」
『あ あ あ あ あ』
影が、闇が、青い炎に包まれる。
怯えさせ、突破するための炎ではなく、焼き尽くし、別れを告げるための炎。
「正直こっちもイライラしてんスよ。なんかよく分からんうちに長野県滅んでるし、それが誰かの故意によるものとか言われるし。」
『いた い』
影が炎に包まれて、なくなっていく。
少しずつ、少しずつ。影の存在が、なかったことになっていく。
トラックの車輪はゆっくり回転を始め、空を舞っていた砂埃が地に落ち、また新たな砂埃が巻き上げられる。
止まっていた時間は、影が消えるにつれ、どんどん動き出す。
『あ あ あ』
「だから、アンタらがどんだけ可哀想だろうと、どんだけ恨もうと、同情はしない。」
『あ あ 悔し い』
その言葉を聞いた白峰の細い眼光が、微かに優しい丸みを帯びたのは、消えゆく影が見た錯覚か。
もうそこには、影がいた痕跡も、残滓も、何も残っていなかった。
白峰の周りで止まっていた時間も、元通りに動き出す。
「アンタらの怨みも、悔しさも、全部背負っていく。これが、俺からアンタらにできる最大限の譲歩だ。」
完全に影が消え、トラックが爆音を鳴らしながら、今度こそトンネルから走り去る。
「お疲れ様、って言って欲しかったんスかね。言わないけど」
トラックの荷台で、意地の悪い微笑を湛えた男は、そう呟いた。
三人の男を乗せた鉄の箱は、ロックンロールを奏でながら、荒野を進んでいく。
なんで瞬殺しちゃうの




