SIDE:L
帝国標準時間、午後十時。
学院結界圏内、非軍籍居住区の公用宿舎にラリオーノフの私宅はある。学院駐在者用の居住棟で、長期利用前提の2LDK。
軍の紋章はないが最低限の防護結界はある。単身者には十分すぎる設備だ。
管理区と学院のどちらにも徒歩圏内のその部屋で、ラリオーノフは今日一日の記録を見返していた。
室内灯は控えめ。ノンカフェのコーフェの湯気が白く浮かびあがる。テレビもラジオもない。いつもと変わらない、夜のひとときだ。
手の中の端末を見つめる。記録の自動要約は既に完了していた。
引き渡し完了。
源泉圧、高値安定。
情動波形、想定範囲内。
会話記録、制度逸脱なし。
魔力は使わない。指先で画面をスクロールする。何度見ても、同じ文言しか並んでいない。
正しい。
すべて、正しい処理だ。
ラリオーノフは端末を閉じた。
だが自分の声が、耳の奥で幾度も再生される。
「私が同行する」
制度文書には存在しない言い回しだ。本来ならば「制御官あるいは権限委託者の帯同が義務付けられている」というべきところである。
だが実際に口から出てきたのは、「私」だった。
ラリオーノフはこめかみに指をやる。
なぜ言ったのか。
必要だと思ったのか。
考えようとした瞬間、思考が止まる。かわりにマシュの弾んだ声が反復される。
――お風呂もあるんですか!
――ここ、全部わたし一人で使っていいんですか?
記録を見返さなくても、あの声は思い出せた。作りものには見えないあの喜び――ラリオーノフの胸の奥が、名前も付けられない細かい波のようなざわめきに撫で上げられる。
頭の中に浮かぶのは管理区の白い扉だ。
六畳の居室。
開かない窓。
規則通りに整えられた夜。
あの少女は、今、何をしている。
ラリオーノフは考えてしまう。
本を開いているのか。
課題に取り組んでいるのか。
あるいは――もう寝てしまったのか。
端末を起動すれば、確認できる。それは許可された行為だ。
だが起動しない。
起動してはならない。
ラリオーノフはコーフェに手を伸ばして、やめる。かわりにソファーに深く身体を沈めた。
落ち着かないというより、定まらない。心がどこにも腰を下ろせずにいる状態だ。
逸脱は記録されていない。ならば自分は標準内にいる。
ラリオーノフは腕を顔の前にやる。
――安堵はなかった。




