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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
幕間
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8/41

SIDE:L

 帝国標準時間、午後十時。

 学院結界圏内、非軍籍居住区の公用宿舎にラリオーノフの私宅はある。学院駐在者用の居住棟で、長期利用前提の2LDK。

 軍の紋章はないが最低限の防護結界はある。単身者には十分すぎる設備だ。

 管理区と学院のどちらにも徒歩圏内のその部屋で、ラリオーノフは今日一日の記録を見返していた。

 室内灯は控えめ。ノンカフェのコーフェの湯気が白く浮かびあがる。テレビもラジオもない。いつもと変わらない、夜のひとときだ。

 手の中の端末を見つめる。記録の自動要約は既に完了していた。


 引き渡し完了。

 源泉圧、高値安定。

 情動波形、想定範囲内。

 会話記録、制度逸脱なし。


 魔力は使わない。指先で画面をスクロールする。何度見ても、同じ文言しか並んでいない。

 正しい。

 すべて、正しい処理だ。

 ラリオーノフは端末を閉じた。

 だが自分の声が、耳の奥で幾度も再生される。


 「私が同行する」


 制度文書には存在しない言い回しだ。本来ならば「制御官あるいは権限委託者の帯同が義務付けられている」というべきところである。

 だが実際に口から出てきたのは、「私」だった。

 ラリオーノフはこめかみに指をやる。

 なぜ言ったのか。

 必要だと思ったのか。

 考えようとした瞬間、思考が止まる。かわりにマシュの弾んだ声が反復される。


 ――お風呂もあるんですか!

 ――ここ、全部わたし一人で使っていいんですか?


 記録を見返さなくても、あの声は思い出せた。作りものには見えないあの喜び――ラリオーノフの胸の奥が、名前も付けられない細かい波のようなざわめきに撫で上げられる。

 頭の中に浮かぶのは管理区の白い扉だ。

 六畳の居室。

 開かない窓。

 規則通りに整えられた夜。

 あの少女は、今、何をしている。

 ラリオーノフは考えてしまう。

 本を開いているのか。

 課題に取り組んでいるのか。

 あるいは――もう寝てしまったのか。

 端末を起動すれば、確認できる。それは許可された行為だ。

 だが起動しない。

 起動してはならない。

 ラリオーノフはコーフェに手を伸ばして、やめる。かわりにソファーに深く身体を沈めた。

 落ち着かないというより、定まらない。心がどこにも腰を下ろせずにいる状態だ。

 逸脱は記録されていない。ならば自分は標準内にいる。

 ラリオーノフは腕を顔の前にやる。

 ――安堵はなかった。

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