七 第七管理区
護送車は、寮の裏手に静かに停まっていた。
エンジン音は抑えられ、傍目には黒いバンと変わらない。だが、その装甲と魔力遮断層は、明確に軍の論理で組まれていた。
待機していた二人の士官が敬礼する。ラリオーノフもそれに応えた。
マシュの私物を収めた文書箱を、車両後部へ運び込む。
中庭からの移動中、ラリオーノフは手のひらに魔力を集中させ、箱の中身を簡易走査していた。
すべて書籍だった。
古典魔導物理学の理論書や単行本だ。ラリオーノフが学生時代に読んだものも何冊か含まれている。初版本まで混じっていた。
どれも十二歳の学生が読むには難解なものばかりだ。入手先についても確認が必要だろう。
だが――ラリオーノフは眉間の皺を深める。
奇妙なことがある。
残留思念が、ない。
人形ほどではないが、古い書籍には持ち主や読者の思念が染み込みやすい。強く感情を動かした箇所には、ときに文章そのものより鮮明な痕跡が残る。
しかし、マシュの荷物にはそれがない。
ラリオーノフは文書箱の蓋をわずかに開けた。見えた本の表紙の革は擦れ、紙は黄ばんでいる。何人もの手を経てきたことは明らかなのに、過去の読者の痕跡だけが消えている。
しかも、一冊残らず。
――思念洗浄か。
もし、そうならば、意図的な処置だ。
誰が、いったい、何のために。
ラリオーノフは文書箱を見下ろした。
学院支給の箱だ。その中に収められた古い書籍は、不自然なほど沈黙している。
だが術式の稼働痕も、源泉への異常応答もない。
意図的な処置が疑われることと、危険物であることは別だ。
現時点で、搬入を禁止する根拠はない。
ラリオーノフは走査記録に要調査の識別を付け、車両後部の扉を閉めた。
西日が石畳を照らしている。
「移送を開始する」
士官らが車に乗り込む。
ラリオーノフは端末を確認した。
制御コード、有効。
源泉圧、高値安定。
情動指標、許容範囲。
異常なし。
振り返ると、マシュが護送車を見上げていた。赤銅色の巻き毛が陽光を受け、その下の金色の瞳は、車体の細部を追っている。静かで、確かで、逃げ場を与えぬ輝きが放たれていた。
警戒しているのではない。
観察している。
「乗れ」
「はい!」
返事は、相変わらず力強かった。
護送車の内部は魔力遮蔽層で覆われていた。
窓はない。照明は均一で、床も壁も淡い灰色だ。微かに消毒液の匂いがしたが、それもすぐに換気に吸われて消えた。
外の音はほとんど届かない。
マシュを奥の座席に座らせる。
身体に合わせてシートベルトが締まり、固定された。端末には制御コードと連動した装着確認が表示される。
ラリオーノフは対面に腰を下ろした。
二人の間には、目に見えない障壁がある。万一の源泉暴発時には、双方への干渉を遮断するためのものだ。
前方の士官へ監測情報を共有し、受信を確認する。
車両が動き出した。
音が飲み干される。振動は最小限。移送者の五感をみだりに刺激せず、源泉の安定化を維持する。
「不具合があれば申告しろ」
「はい」
マシュは素直に答えた。だがその視線は護送車を端から端まで見回している。天井の照明や何も投影されていない灰白色の壁にさえ興味を引かれるらしい。
ラリオーノフは眉を寄せる。
マシュが身体を捻った。指が背後の壁へ伸ばされる。
「動くな」
短く命令する。声は低く、必要以上に張らない。
「は、はい」
マシュが慌てて手を引っ込めた。少しばつが悪そうに笑う。
その瞬間、ラリオーノフのうなじがひりついた。車内の緊張が一段上がる。
端末に表示された車内の源泉波形に、小さな乱れが生じている。
マシュではない。
ラリオーノフはマシュに気取られぬよう、視線だけを車両前方に向ける。
震源地は運転席と助手席の士官だ。
遮蔽層の向こう側で二人の肩が僅かに強張っているのがわかる。運転手はハンドルを強く握りすぎだ。助手席の士官が一度、後方を振り返ろうとする。だが思いとどまった。
ラリオーノフは視線を端末に戻す。
規格外個体に対する緊張は理解できる。特に結界が同定を失い、墜落事故を起こした個体だ。現行の制御コードが有効であっても、再発条件は特定されていない。
足元に、微かな振動が伝わる。
運転手の操作が不安定になっていた。車両の自動補正が作動し、すぐに振動を打ち消す。
マシュが首を傾げた。
「標準に戻せ」
ラリオーノフの命令に運転手の肩が跳ねる。曖昧な返事が数秒遅れで記録され、振動が収まった。
マシュは自分のことかと思ったのだろう。ラリオーノフの言葉を聞いた瞬間、背筋を針金のように伸ばしたが、勘違いに気がつけば誤魔化すように笑った。
微かな頭痛を感じたが、ラリオーノフは無感情を装う。必要以上の力を体のどこにも込めない。
端末に記録を残す。
運転担当士官、軽度同期不安定。移送対象者への直接干渉なし。車両制御への一時的影響あり。
医療確認および追加訓練を推奨。
鎮静魔法を行使するほどではないが、逸脱記録の保存は必要だった。
士官らの緊張を理解はする。だが承認はしない。
記録を送信して、腕を組んだ。
マシュの視線。士官たちの緊張。源泉波形。車両の振動。
あらゆる情報が、数値として処理されていく。逸脱は均され、標準化される。
だが――どうしても胸の内側が落ち着かない。
呼吸のたびに胸元が揺れて、その内側にあるものが心の底まで触れてくる。
マシュから預かった人形だ。
組んだ腕の下の手のひらに、温もりが広がる。とっくに冷えてもいいはずの感覚なのに、妙に存在を主張してくる。
少女が両手で握りしめて、そして自分に手渡してきたもの。
――ただ、それだけのはずだ。
ラリオーノフは障壁越しにマシュを見た。
マシュは背筋を伸ばし、膝をきちんと揃えて座っている。壁を調べることは諦めたらしいが、視線は依然として車内を巡っていた。
北方地区テルベリアで保護され、育った零籍の少女。
問題はその先の土地にある。
北方魔力特例自治区。
帝国領土内にありながら、魔力密度が高く、不安定な土地だ。
寒冷な山岳地帯という地理条件も相まって、同期結界は定着しない。ラリオーノフの知る限り、帝国は幾度となく標準同期を試み、そのたびに失敗してきた。
標準結界の全面適用は、リスクと統治コストが釣り合わない。
そう結論づけられた結果が、この「特例自治区」という名目だった。
そして近年、その北方周辺では、帝国の測定体系に収まらない特性を持つ源泉が断続的に報告されている。
帝国は、自治区における長年の非標準魔導行使との関連を疑っていた。
だが、因果関係は確認されていない。
マシュも、その一例なのか。
ラリオーノフの目の前の少女は、相変わらず灰白色の壁の継ぎ目を目で追っている。
彼女の出自は不明だ。テルベリアで育ったことと、この源泉の特性に関係があるのかさえ分からない。
まして、自治区との関係を示す記録など存在しない。
近い。それだけだ。
ラリオーノフは、それ以上の推測を打ち切った。
必要なのは証拠だ。
自分の源泉が僅かに熱量を増したのを脈で感じる。まだ標準内だが、呼吸を数えることで制御した。
マシュが首を傾げた。
どうしたのかと尋ねたそうな顔だったが、口は開かなかった。
車両の速度が落ちる。段差を一つ越え、ゆっくりと停止した。
到着通知が端末に浮かぶ。
第七観測居住区。
移送完了。
扉が音もなく開いた。
マシュの顔が一瞬で引き締まった。
外から、北方の長い午後の光が差し込んでくる。
「立て」
ラリオーノフはシートベルトの固定を解除した。
「はい」
マシュが真っ直ぐに立ち上がる。
足元に置いていた古いトランクを持ち上げ、両手で握りしめた。小さな指に、わずかに力がこもる。
ラリオーノフは先に車を降りた。
振り返れば、マシュが段差を確かめながら地面へ足を下ろしている。
その足元に、新しい居住区の影が落ちた。
ここから始まるのは、生活ではない。
管理が、日常になる。
◇
結界越しの空気の匂いは、少し張り詰めていた。
ラリオーノフは空を見上げる。白い外壁が目に入った。
帝国魔導個体管理施設・第七観測居住区。通称、第七管理区。
学院本館とは徒歩十五分程度離れており、軍区画との境界に置かれた施設だ。
士官が車両後部から取り出した文書箱を、ラリオーノフは受け取る。行きよりも重みを感じた気がした。
ラリオーノフと士官でマシュを挟み、石畳を歩く。管理区の玄関先には二人の職員が待機していた。
女性だ。
軍服ではない。白を基調とした管理施設用の制服だ。階級章や所属といった情報は極力削ぎ落とされている。
彼女らは敬礼をしない。ただ、頭を下げる。
「制御コードSACC-3126-04-FL-ST。個体名マシュ」
ラリオーノフが告げれば、女性らが復唱する。
「個体、確認いたしました」
マシュが、ラリオーノフの後ろから僅かに身を乗り出す。それをラリオーノフは腕で制した。
マシュは一瞬だけ開きかけた口を閉じ、残念そうに小さく頷いた。
玄関扉が音もなく開く。
内部は柔らかな白色光に満ちていた。影ができないよう設計された照明だ。角がなく、距離感が測りにくい。感覚を標準に揃えるための空間だ。
静かだった。
足音が吸われる床材。反響を抑えた天井。壁面には何の装飾もないが、圧迫感はない。中央に向かって開けた空間があり、その上に結界ガラス越しの空が見える。
午後の雲がわずかに歪んで見えた。
マシュの視線が、自然と上を向く。
――確認している。
逃げ道を探しているわけではない。
ここがどういう場所かを、理解しようとしている目だ。
職員に案内され、受付区画に入る。
床面の円環が淡く発光し、魔力署名の読み取りが始まった。
源泉反応の数値が跳ねる。制御コードによる補助認証が作動した。
一瞬、空気が張る。
マシュは、瞬きすらしなかった。
「識別確認。入退場権限付与。制御コード、有効」
職員が読み上げる。抑揚のない機械のような声だ。
「夜間行動制限、午後十時以降。居住区外への移動は、許可制。魔力使用は、制御官承認下に限定」
説明は簡潔で、抜けがない。
「質問はありますか」
職員の熱のこもらない視線に、マシュが顎に手をやって俯いた。
考えている。理解できていないのではない。前提を整理している。
「……学院への通学は、継続可能なんですよね」
一音ずつ確かめて喋るような小さな声だった。
「はい。同一同期圏内です」
「生活に必要なものは、ここで全部揃うんですか?」
「はい」
「ごはんは?」
「朝と夜のみ専用の区画で提供いたします」
「他の収容者は?」
空気が凍りつく。マシュの赤銅色の髪と金色の瞳だけが、この空間に許された色彩になった。
情動波形平坦。源泉圧、高値安定。ラリオーノフはマシュを見下ろしながら、無言で情報を読み取る。だが胸の奥で感じるひりつきは数値化できなかった。
「それは知る必要のないことです」
微笑みもせず職員が回答する。冷たさすら感じさせない。マシュが頷く。
「合理的なんですね」
その言葉は自分を納得させるようだった。
だからこそ、ラリオーノフは聞き流せなかった。
十二歳が、自分の管理を合理として受け取っている。
それ自体が、すでに標準から外れていた。
職員に案内され、居住区へ向かう。無駄話はない。全員が無言だ。
廊下は長いが、人の気配はない。動線は一つだけで分岐もない。足音も沈黙に吸い込まれていく。
白い扉が開く。
その先には六畳ほどの居室があった。
ベッド、机、収納。
必要なものだけが、必要な位置にある。
「お、お、お~」
間の抜けたマシュの声を、ラリオーノフは背中で聞く。
窓は二つある。
採光に問題はない。だが開かない仕様だ。設置されているカーテンは魔力遮断層も備えている。しかも軍仕様。
「空が見えますね!」
ラリオーノフの後ろに従いながらマシュが中に入ってくる。そして室内を一周、視線だけでなぞった。
机の高さ。椅子の安定。
光の入り方。
壁と床の素材。
その全てをつぶさに観察する。
「わたし、もっと刑務所みたいなの想像していました!」
ぱっと顔が輝く。
「刑務所行ったことないですけど!」
そう言いながら周りを囲む大人達を見回した。だが誰も表情を変えない。沈黙が落ちる。
「えーと……」
マシュが耳まで赤くなる。巻き毛が萎れた。
「笑うところですよ……?」
ラリオーノフは微かな頭痛を感じながら、無言で文書箱を床に置いた。
「あー!」
背後からまたマシュの賑やかな声が響く。ドアが開く音が聞こえた。
「お風呂もあるんですか!?」
開いた扉の向こうを覗き込み、マシュが振り返る。
「ここ、全部わたし一人で使っていいんですか?」
情動波形がスキップし出す。このままではアラートが鳴りかねない。
「静止」
背中を向けたまま短く命じる。
マシュが背筋を伸ばす気配を感じた。ラリオーノフは表情を変えずに振り向く。
「今後、貴様はここに居住する。規則は厳守。必要物資の申請は職員を通じて行え。嗜好品の持ち込みも職員による事前許可制となる。その情報は私も全て把握する」
はい! とマシュが真っ直ぐにラリオーノフを見て返事をする。その声も視線も迷いがなく、犬をしつけているような気分にさせられる。
「質問は」
そう言えばマシュが即座に口を開いた。
「シャンプーや洗剤などの日常品のお買い物も、必要物資として職員の方々に申請するのですか?」
「そうだ」
「ではわたしは、町でのお買い物は基本的にしちゃだめなんでしょうか」
答えを求める瞳は、今まで以上に幼く、年相応の無防備さを帯びていた。
ラリオーノフは溜め息に聞こえぬよう、静かに息を吐く。
「単独は不可。必要な場合は……」
言葉が少しだけ喉の奥でつまづいた。
「……私が同行する」
その言い回しが制度文書のそれではないことを、ラリオーノフは遅れて認識した。
マシュが瞬きをした。言葉の意味を捉え損ねたようだった。
「……暮らせそうか」
口をついて出てきた言葉に、ラリオーノフ自身が一瞬黙った。
マシュも少しだけ、驚いたような顔をした。
だがすぐに、静かな考えるような顔になった。もう一度だけ、部屋を見回す。
「はい」
マシュの返事は落ち着いていた。
「寮より静かです。集中できます」
集中。
この状況で、その言葉が出ることに、ラリオーノフは何も返さなかった。
マシュが窓の前に立ち、結界越しの空を見上げる。
手を伸ばすことはしない。
感情はもう波立たない。源泉も、静穏だ。
ラリオーノフは、端末に最終確認を打ち込む。
居住区割当、完了。
初期記録、正常。
「明日は本日延期した解析結果の説明をする。また今後の訓練計画を今夜十九時に送信する。端末を確認するのを忘れるな」
命令に迷いはない。
それで終わりのはずだった。
「制御官」
マシュの声は落ち着いていた。頬の筋肉が緩み、小さな顔が綻ぶ。
「明日から、宜しくお願いいたします」
そう言い、マシュが頭を下げる。
ラリオーノフは、即答しなかった。
「任務だ」
それだけを告げる。
マシュは、それで十分だと言わんばかりに、頷いた。
扉を閉める。自分達の姿が完全に見えなくなるまでマシュは頭を下げていた。
静音設計の金属音が、空間に吸われて消えた。
帰り道も誰も発言しなかった。




