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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第一章
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6/44

六 手渡したもの。預かったもの。

 帝国標準時間、午前十時二十八分。

 学院本館最上階の会議室は、厚い遮光幕によって外光すら閉ざされていた。

 その暗がりに、ラリオーノフはマシュの記録を展開する。

 学院側の出席者は三名。学院校長ベルジャーエフ、マシュの担任教官ロザノワ、そして初回飛行訓練を監督したオルロフだ。

「当該個体の管理責任は、すでに学院から軍へ移行しています」

 ラリオーノフは切り出した。

「居住区分変更は本日十七時。学籍は維持され、座学は従来どおり。実技については、本官の監督下で再編します」

「学院としても、墜落を本人の規律違反とは認識していない」

 ベルジャーエフが口を開いた。

「しかし安全管理の責任は、すでに学院単独で負える範囲を超えている」

 一拍置かれる。ラリオーノフに聞かせるための間だ。老獪な目がこちらを見る。

「軍への移行に異議はない」

「私からもよろしいでしょうか」

 次にロザノワが静かに手を上げた。三十代前半の女性だ。

「墜落事故の噂は、すでに生徒間に広まっています。零籍であることも、特待生であることも」

 ロザノワが教室での配置図を展開する。

 マシュの席は後方の壁際だった。魔力干渉の少ない安定座標だ。周囲にも源泉反応の穏やかな生徒が配置されている。

「学院も入学時から、共鳴を避ける対策を講じていたようですね」

「ええ。クラス編成も含めて調整しました」

 ロザノワは静かに頷いた。

「ですが、それだけでは彼女を守れません」

 その視線がラリオーノフへ戻る。

「軍の管理下に置かれたことで、彼女が学ぶ機会を失うことはありませんね」

「座学への参加は維持されます。異常時は監測環を通じて本官が介入します」

「つまり彼女は同じ教室にいるが、切り離されているというわけですね」

 空気が一瞬で張り詰めた。

「私の制御責任下にあるということです」

 ラリオーノフは事実だけを述べる。

「……彼女は、考えすぎる子です」

 ロザノワが一つ息を吐いた。その視線がマシュの記録に向けられる。

「行動に移るまでに一拍置く。けれど、それは理解が遅いからではありません。自分が何をするのか、先に考えているのです」

 ラリオーノフは今朝の試験を思い出した。

 点火。送風。微小刺激への応答。

 いずれも精密だった。

「彼女は魔導行使の危険性を理解しています。担任として、訓練の機会を奪うべきではないと判断します」

「本官も同意見です」

 ロザノワの眦がわずかに緩んだ。

「……要するに、危険因子という理解でいいんだろう」

 それまで黙っていたオルロフが口を開いた。錆びた刃のような声だった。

 ラリオーノフは答えかけて、止まった。

 

 ――どう言い繕おうと、貴様は危険因子だ。


 昨日、少女にそう告げたのは他ならぬ自分だった。

 あの時点ではそう判断するだけの根拠があった。

 

 だが、今朝の試験結果を前に、同じ言葉を繰り返すことはできなかった。


「危険性はあります。ただし、本人の制御能力に問題があるとは、現時点では断定できません」


 ラリオーノフは今朝の源泉波形を展開する。

「出力は高いですが、安定しています。局所的な魔導行使にも破綻はありません」

「だが落ちた」

「その通りです」

 隣に墜落記録を並べた。

 NO LOCK。

 赤い文字が浮かび上がる。

「現行の訓練では、再発の可能性を否定できません。しかし、当該個体自身の未熟さが原因とも断定できない」

 オルロフが眉を寄せる。

「まず特定すべきは危険が顕在化する条件です」

 沈黙が落ちた。

「よって集団訓練には復帰させません。高出力源泉保持個体用制御適応訓練を適用します」

 ラリオーノフは訓練計画を三人の端末に送信した。

「その運用は、本官の魔力署名によってのみ承認されます」

 青白い署名が、暗い部屋の中に浮かび上がった。


 ◇


 傾いた陽が、女子寮の中庭に差し込んでいた。

 ラリオーノフの影が石畳に長く伸びる。背後にそびえる赤煉瓦の壁は陽光を受け、内側から熱を帯びたように輝いていた。

 噴水の水流が規則正しい放物線を描く。水面に広がる波紋も均一だ。柔らかな水音がラリオーノフの耳の奥に染み込んでいく。洗濯石鹸の香りと微量の甘味の匂いも漂ってきた。

 煉瓦造りのアーチの下を、三人の女学生が通りかかった。中庭に立つラリオーノフを見ると、慌てたように一礼する。そして小鳥同士が囀りあうような声を残して小走りで去って行った。

 中庭を見下ろせる窓から、また別の女学生の集団がラリオーノフを見つめている。ラリオーノフは気が付かないふりをした。

 女子学生寮の中庭は、軍人にとって居心地が良いものではない。

 外套は正装規定より一段軽いものにしたが、肩線は崩していない。制御官識別章は外套の内側に収め、端末も必要以上の警戒心を呼び起こさぬよう手首装着型にした。

 その端末から通信が入る。

 発信元は、マシュの荷物整理のために先行した女性医官だった。

 ラリオーノフは承認する。眼前に通信画面が広がった。

「標準制御総監部付 医療監測官 少尉アリサ・ヴォルコワです」

 若い女性が画面の向こうで敬礼してくる。

「現在、居住区分変更に伴う私物検査において、布製人形一体の携行可否が保留されています」

 ヴォルコワ少尉が少しだけ身体を傾ける。その向こう側にマシュの背中が見えた。何かを庇っているようにも見える。

「対象個体は当該物品の引き渡しを拒否。現在、発話と動作の減少を確認しています」

 ヴォルコワの視線が一瞬だけマシュを見る。

「心拍数は平常値を上回るものの、源泉圧および情動指標に急性逸脱の兆候はありません」

 マシュはこちらを見ない。全身を使って自分の胸の中のものを抱えていた。

「現場では物品の隔離を提案していますが、医学的観点からは心理的負荷の増大が懸念されます。制御官による判断を要請します」

 ラリオーノフは監測環から送られてきたマシュの情報を確認する。心拍数が上がった瞬間、情動波形が尖りを増している。だが叫んだり、泣き喚いたりというような激しいものではない。

 それだけ執着する物品ならば、理由くらいマシュは説明できるはずだ。しかし頑なに沈黙する様子に、ラリオーノフは違和感を覚える。

「了解した」

 西日が画面を赤く焼いた。

「個体への説明は本官が直接行う。源泉刺激、感情誘導を避け、物理的接触は最小限とし、当該物品を、当該個体と共に中庭まで搬送せよ」

 ヴォルコワ少尉が敬礼する。

 通信画面が消えると、女子寮の窓枠が西日を受けて赤く照り返していた。

 ラリオーノフは端末を下ろした。

 アーチの下に三つの人影が現れる。

 先導するのはアリサ・イリイーニシュナ・ヴォルコワ少尉だ。その後に両手でトランクケースを抱えたマシュが続き、最後にナタリア・アリベルトヴナ・クズネツォワ曹長が小さな箱を抱えている。足音が石畳に低く響く。

 ヴォルコワの後ろからマシュが顔を覗かせる。ラリオーノフを見つけると、気が抜けたような顔で微笑んできた。赤銅色の巻き毛が西日を受け、光を弾いた。

 ヴォルコワとクズネツォワが敬礼する。

「帝国標準時間、午後五時。管理対象個体SACC-3126-04-FL-ST。引き渡します」

 ヴォルコワの言葉にラリオーノフは頷く。

 マシュが上目遣いにラリオーノフを見上げてくる。ラリオーノフは無言で一瞥し、即座に分析する。

 マシュが着ているものは学院指定のコートに、制服だ。やはりローブと同じく、肩の線と丈が合っていない。生地も使い込まれており、ほつれを直した跡すらある。だが靴はよく磨かれていた。

 両手で握りしめているトランクケースは年代物。半世紀以上前のデザインで、おまけに男物だ。二泊三日程度の出張に相応しいサイズである。だがその中に十二歳の少女の私物が詰め込まれていると考えると、あまりに少ない。

「制御官!」

 マシュがトランクから右手を離す。少しだけ体が重みに負けて左に傾いた。クズネツォワが慌てて支える。すみません、すみません、とマシュがペコペコと頭を下げるのを見ながら、ラリオーノフは黙って待つ。

「せいぎょかーん……」

 眉毛を八の字にしたマシュがコートのポケットに手を入れる。そこから躊躇するように取り出されたのは布製の人形だった。

 これが当該物品か——ラリオーノフは無表情を保ったまま、人形を見つめる。

「報告は受けている。それは管理区には持ち込めない」

 必要な情報を誤解なく伝える。マシュが目に見えて項垂れる。巻き毛も心なしか萎れた気がした。

 マシュが握りしめる人形は思っていた以上に小さく、そして貧相だった。

 布製で、色は褪せ、縫い目も不揃いだ。既製品ではない。素人の手によるものだ。それが余計に危険性を上げる。目立った呪紋はないが、何が込められているか判断できない。

 ラリオーノフは、できるだけ声の抑揚を抑えた。

「その人形は決して登録呪具ではない。通常の学生であれば認められる私物だ」

 一拍、置く。

「だが、貴様は通常《スタンダード》ではない」

 マシュの金色の目が芯を捉えそこなったように揺れる。ラリオーノフの言葉は侮辱ではなく、評価でもない。事実だからこそ逃げ場がない。

「人型の物品は、意図せず源泉の投射先になる。感情、記憶、願望。そういったものを人の意識とは無関係に拾う」

 ラリオーノフは視線を人形に向けた。橙色の毛糸で巻毛が表現され、薄い肌のフェルトにはそばかすが散りばめられている。マシュを模したものかと思ったが、目として縫い付けられているボタンは緑色だった。

 白いワンピースを着て微笑んでいる、赤毛の少女の人形。


 持ち込んではならない。だが廃棄してもならない――直感的に判断する。


「つまり――」

 マシュの口が動く。

「わたしの源泉圧では、わたしの意思とは無関係に、これが呪具になる可能性があるのですね」

 ラリオーノフを見る金の目はもう揺らいでいなかった。

「……その通りだ」

 中庭の空を風が通り抜けていく。噴水の音が静けさを象る。

「だから、命令する」

 ラリオーノフはマシュを正面から見下ろす。腕も組まない。端末も見ない。

「それを、これからの居住区に持ち込むことは許可しない」

 マシュは頷かない。しかし視線をそらしもしなかった。

「では制御官」

 金色の瞳に西日の赤みが差す。


「これがすでに呪具になっている可能性は?」


 マシュの言葉に中庭の空気が一段冷えた。ヴォルコワの表情が僅かに強張り、クズネツォワは大きく息を吸う。

「ある」

 ラリオーノフは断言する。

「貴様は制御コードを付与されるまで、管理下にない源泉で生きてきた。この人形も長年、貴様の源泉に曝されていたはずだ」

 マシュの表情は変わらなかった。ただ真剣にラリオーノフの言葉を聞いている。

「変質の有無は解析しなければ分からん。現時点では、呪具化している可能性を否定できない」

 西日が傾きを増す。影が一段濃くなる。

 ラリオーノフの言葉にマシュが頷いた。

「わかりました」

 マシュが人形をラリオーノフに差し出してくる。その真っ直ぐな瞳は、西日を受けて蜜色の光を放っていた。

「制御官にお預けいたします」

 ラリオーノフは無言で人形を受け取る。

 思いのほか、温かった。

 少女が胸に抱きしめていた熱が、薄い布と綿を通してこちらの手のひらに残る。小さく、軽く、握りしめれば簡単に形を失いそうな人形だった。

 ラリオーノフは指を閉じかけて――やめた。

 握りしめることは躊躇われ、人目に晒すことも憚られる。

 そんな、未定義の覚束なさだった。

「……その人形、わたしが教会で保護されたときに、おくるみに一緒に包まれていたそうなんです」

 マシュの瞳の中の蜜が、一滴だけ零れだした気がした。

「だから、わたしが零籍になっちゃった理由も知っているんです」

 帝国の制度外で生まれた少女。本当の出身地も両親の名前すら分からない無貌の存在――手のひらの人形が鼓動を打った気がした。

 

 この人形は、規格外個体の原籍《ルーツ》につながる、唯一の手掛かりかもしれない。


 マシュが手を握りしめる。

「もしわたしが自分の源泉を、自分で管理できるようになったと、制御官がご判断されたときは――」

 マシュの真剣な顔がラリオーノフに一歩近づけられる。


「そのときはその人形を、制御官からわたしに返してください」


 西日がアーチの奥まで差し込み、赤煉瓦の壁を燃えるように照らしていた。壁際の影は濃く、マシュの顔にも明暗が落ちている。

「頑張ります」

 マシュが頭を下げる。人形を手放した指の付け根は白くなっていた。

 手放す理由を理解したからといって、未練がなくなったわけではない。

 それでも彼女は、自分で差し出した。

 ラリオーノフは手の中の人形を見る。

 言葉が出てこなかった。

 外套の前をわずかに開く。そして人形を内ポケットへ収めた。

「……この品は本官の管理下で、隔離保管とする」

 出てきた言葉はいかにも官僚的だった。

「返還は、この品の解析結果と、貴様の再評価を踏まえて判断する」

 マシュが顔を上げる。

「はい」

 返事は短く、そして確かな芯が通っていた。

「命令は以上だ」

 ラリオーノフは締め括る。マシュがトランクを握る手に力をこめた。

 クズネツォワが視線を泳がせながら、手にした箱をラリオーノフに遠慮がちに差し出してくる。灰色の厚紙を黒い布で補強した、小型の文書箱だ。側面には学院の備品番号と、書籍・紙の文字が印字されている。ラリオーノフはそれを無言で受け取る。

 箱は重かった。本の重みだった。

「ついてこい」

 箱を抱えたまま背中を向ければ、マシュの力強い返事が追ってくる。ヴォルコワとクズネツォワの敬礼を背中に感じ、ラリオーノフは門へ向かう。

「マシュ!」

 アーチをくぐろうとした瞬間、甲高い声が頭上から降ってきた。ラリオーノフは声の方向を見上げる。

 開いた窓から、三人の女生徒がこちらを見下ろしていた。年の頃はマシュと同じだ。三人ともなんと言えばいいのか分からないといった、不安げな表情をしていた。

 だが思わず叫んだ声には、確かな熱量があった。

 少女らを見上げたマシュが、手を限界まで伸ばす。トランクの重みで体が傾く。けれどその姿勢のまま、マシュは笑顔で大きく手を振った。

「また明日ね!」

 声が赤煉瓦の壁に跳ね返る。

 窓辺の少女たちも、ようやく笑った。ひとりが大きく手を振り、残る二人もそれに続いた。

 午後五時を過ぎても、北方の空はまだ明るい。

 マシュはもう一度だけ手を振ると、トランクを抱え直し、ラリオーノフの方へ振り返った。

 その顔には、明日への疑いなど、ひとかけらもなかった。

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