六 測れないもの――環境調和率
神父様が地面に降りてからも、わたしはしばらく庭に立っていた。
神父様が箒を壁に立てかける。黒ずんだ柄の、何度も握られたところだけが日の光を受けていた。
わたしの靴底には、濡れた草が一枚貼りついている。
ついさっきまで、地面に触れていることさえ忘れていたのに。
「マシュさん」
アリサ少尉の声に、わたしは顔を上げた。
「観測記録を確認します。一緒に戻りましょう」
「はい」
神父様がわたしたちに微笑んだ。
その顔は、飛行の前と何も変わっていなかった。
息も乱れていない。
少しだけ裾の汚れた神父服を整え、いつものように教会の扉を開けてくださる。
わたしはもう一度、空を見上げた。
雲が、山の向こうへ流れていた。
◇
教会の台所には、まだ卵を焼いた匂いと、石鹸草の泡の匂いが残っていた。
午前の光は、先ほどよりも白くなっていた。
窓辺に置かれた水差しが日差しを受け、木の食卓へ淡い影を落としていた。
アグラーヤおばあちゃんは洗濯物を干しに外へ出ている。
「共有可能な範囲に限ります」
アリサ少尉がそう前置きし、食卓の上に観測記録を展開した。
青白い光が立ち上がる。
先ほどまで空を飛んでいた神父様の姿が、いくつもの数値と波形に変わっていった。
「本日の飛行は、事前に確認した範囲内で終了しています。急性逸脱判定なし。魔力署名の捕捉喪失なし。緊急介入もありません」
「ペロフスキー神父の帝国標準同期率は、七十七・八パーセントです」
七十七・八。
八割を切っている。
帝都の演習場なら、飛行以前に再調整を求められる数値だった。
けれど神父様は、飛んだ。
箒は落ちなかった。
神父様も、落ちなかった。
投影面とノートを見比べる。ノートには、三系統の副周波数を持つわたしの騒がしい波形が貼ってある。
神父様の波形は穏やかだった。
細く、なだらかな線だ。
けれど、弱々しくはない。
帝都の演習場で見た標準波形のように、一本の線へ整えられていこうとするものでもなかった。
もっと低く、もっと緩い。
山の斜面に沿って流れる、小川のような波形だった。
「……この数値でも、危険ではないのですか」
尋ねると、アリサ少尉はすぐには答えなかった。
「帝国標準への同期率が低いことと、急性逸脱が発生することは同義ではありません」
少尉は飛行記録を示す。
「少なくとも本日の観測では、神父の源泉は安定していました。ただし、この結果だけで帝都における安全性まで判断することはできません」
正確な答えだった。
この土地で、神父様は安定して飛んだ。
わたしは、それをノートに書き留めた。
「マシュさん」
アリサ少尉が手を揃える。わたしも鉛筆を置いた。
「このテルベリア管区の結界について、あなたはどう理解していますか」
試されているのではない。前提を共有するための確認だ。
「帝国領土内にありますが、魔力密度が高く、地脈干渉の強い土地だと聞いています。寒冷な山岳地帯という条件も相まって、帝国標準結界の定着が難しく、低負荷結界で運用されていると理解しています」
答えながら、少し不安になった。
学院に入るまで、これ以上詳しく考えたことはなかったからだ。
「概ね正しい理解です」
少尉が頷いた。
「これからお伝えする結界運用部の情報は、マリーニン大佐の承認済みです。研究院の分析資料についても、マシュさんの訓練判断に必要な範囲で閲覧が認められています」
マリーニン大佐。
知らない名前だった。
遠い場所にいる人なのだろう。
その人は、わたしをどう呼んでいるのか、気になった。
マシュさん、ではない気がした。
研究院。
結界運用部。
そして、顔も知らない大佐。
いくつもの場所から、わたしの波形が見られている。
帝都でも、ずっとそうして管理されてきた。
けれど、改めて知らされると、足首の監測環が少し重くなった。
神父様の視線が、わたしの足元へ落ちる。
それからアリサ少尉へ向けられた。
少尉は何も言わず、端末を操作した。
投影面が切り替わる。
帝国北方の地図だった。
白く連なる山脈。
青く細い河川。
その上に、同期塔網を示す光の線が重なっている。
ノヴァグラードを中心に広がる塔網は、幾重にも結ばれ、北方の主要都市へ伸びていた。
けれどテルベリア管区に入った途端、その線が疎らになっている。
山と山のあいだに、光の届かない場所があった。
「帝国標準結界は、同期塔網によって広域維持されます」
塔から広がった振動が重なり、一本の基準へ収束する。帝都で何度も見た拍だ。
「源泉を共通の基準へ接続し、魔導行使時の予測と補正を可能にしています」
暴走や墜落を防ぐための技術だ。
「ですが、テルベリアでは地脈干渉が強く、塔網の標準振動が安定しません」
少尉が表示を切り替えた。
地図の上で、青白い光が歪んだ。
一本に揃えられようとした振動が、山脈の奥から立ち上がる別の波に押し戻されている。
「塔の出力を増加させても、安定性は改善しません。むしろ干渉が増大する場合があります」
「……出力を上げるほど、ですか」
「はい。土地側から、異なる振動が返ってくるためです」
「土地が、同期を拒絶する……?」
アリサ少尉はわずかに首を傾けた。
「比喩としては近いです。正確には、地脈網から発生する位相揺らぎです」
位相。
その二文字に、指先が冷たくなった。
――位相、ずらされてんよ。
レフ博士の声が蘇る。
あのとき、自分の中にあるものが、突然知らないものに変わってしまった気がした。
わたしは何も変わっていないはずなのに、わたし自身の立つ場所だけが動いてしまった。
机の下で、膝が小さく震えた。
「――この土地には、この土地の拍があるのです」
不意に、隣から穏やかな声がした。
神父様だった。
乾いて節の多い手が、わたしの手に重ねられる。
「帝国が生まれるよりも、ずっと前からある山と川。風と鐘。雪解け水に地下水脈。そして古い結界」
神父様の指は温かかった。
「みな、少しずつ違う拍を刻んでいます。昔から、そうでした」
窓の外に目を向ける。
アグラーヤおばあちゃんが、洗濯物を干していた。
濡れた布を大きく広げ、皺を伸ばして紐に掛けている。
丸い背中にかかるスカーフの端が、風に揺れた。
「アグラーヤさんの祖父母の時代も、そのまた祖父の時代も」
神父様は、遠い昔を思い出すように微笑んだ。
「塔は立ちました。幾度も、幾度も。けれど、どれも長くは持たなかったそうです」
「故障したのですか」
神父様は首を横に振った。
「故障……という言葉は、少し違うかもしれません」
アリサ少尉が頷いた。
「塔そのものは、規格通りに機能していました。問題は塔単体ではなく、塔網と周辺地脈との接続にあります」
地図の光がまた歪んだ。
塔は正しく動いている。けれど、それだけでは結界が正しく成立しない。
「……ここでは、正しく動いていても、うまくいかないことがあるのですね」
神父様の手が、わたしの手をそっと包む。
「そうですね」
アリサ少尉は、地図の一点を拡大した。
「帝国の見解をお伝えします」
わたしは頷く。
「地脈網が独自の振動系を形成しており、標準結界で強制同期を進めると、源泉系との干渉増大が予測されます」
重なった光の境界に、細かな乱れが生じていた。
「近隣には、帝国標準とは異なる源泉系統を持つ民族の存在も確認されています。これらを含め、標準化を強く推進すること自体が危険と判断されています」
「……では、帝国がこの土地に低負荷結界を置いているのは……」
「標準全面適用の危険性と運用負担を考慮した結果です」
地図のテルベリアだけが、違う色をしている。
子供の頃は、雪が深く、山が高く、春が遅い土地だからだと思っていた。
けれど帝国は幾度も塔を立て、測り、標準へ揃えようとしていた。
そして――揃えられなかった。
わたしは足首を見下ろした。
透明な監測環が、椅子の下で冷たく光っている。
地図の上では、テルベリアが特別な色に分けられている。
帝都では、わたしが規格外個体として登録されている。
何だか、よく似ていた。
違うものを、違うものとして記録する。
それ自体が悪いことだとは思わない。
違いを知らなければ、危険なこともある。
けれど――
帝国がこの土地に軍を置いている理由が、少しだけ分かった気がした。
標準に揃えられない土地を、見張るため。
そして、そこに生きる人たちを――
胸の中が冷たくなった。
「マシュ」
神父様の声が、すぐ近くから聞こえた。
顔を上げる。
神父様は地図ではなく、わたしを見ていた。
その手は、まだ重ねられている。
窓の外で、洗濯紐が鳴った。
おばあちゃんが、風で持ち上がった布の端を押さえている。
アリサ少尉は説明を急がずにいた。
しばらくの間、時計の音だけが聞こえていた。
台所の梁に掛かった、古い振り子時計。
こち。
こち……。
帝国標準とは、違う時刻を刻んでいる。
それでも、針は進んでいた。
◇
昼が近づくころ、アリサ少尉の端末に通信が入った。
黒パンと温め直したお茶をいただきながら、わたしは神父様の波形を写していた。
けれど、あの疎らな光の線が、まだ目の奥に残っていた。
「研究院から、一次解析の速報が届きました」
アリサ少尉が端末を操作する。
「既存の源泉位相解析と地脈干渉記録を用いた比較結果です。なお、一部にティモシェンコ博士の試験的な評価手順が含まれています」
「試験的な……?」
「はい。現行の帝国標準には採用されていないものです。解析内容は暫定的であり、閲覧範囲については監査局の承認を得ています」
研究院――わたしの頭に浮かんだのは、あの片眉だけつり上げる個性的な笑顔だった。
「……先ほどの飛行についてですか」
「はい。昨日の防水魔導と、本日の洗浄魔導の記録も含まれています」
食卓の上に、三つの波形が並ぶ。
雨粒の軌跡。
桶の中の水流。
そして、神父様の飛行。
さっきまで、別々のこととして考えていたものだった。
アリサ少尉が資料を開く。
最初に表示されたのは、研究院の所属と署名だった。
帝国魔導理学研究院
源泉構造解析部
主任研究員
レフ・ミハイロヴィチ・ティモシェンコ
胸が、ひとつ大きく鳴った。
レフ博士だ。
――位相、ずらされてんよ。
――やめて。
あのときの声が蘇る。
白い演習場。わたしを取り囲んでいた波形。博士の言葉を、どうしても受け入れられなかった自分。
わたしは唇を結んだ。
博士を怖いと思った。
傷ついたことも、本当だった。
けれど、博士が間違ったことを言っていたと証明されたわけではない。
そして、わたしは、いまでもあの言葉を理解できていない。
数式と注釈が並び、参照した観測記録も記されていた。
博士は、まだ調べている。
わたしの現象を。
あの演習場で終わったことにしていない。
それが、どうしようもなく心強かった。
「研究院の分析では、三つの魔導行使はいずれも、帝国標準術式とは異なる構成を示しています」
アリサ少尉の声に、わたしは視線を戻した。
雨滴の記録が拡大される。
「防水魔導では、対象物の表面に保護層を展開する標準術式は検出されていません。雨滴の軌道を局所的に偏向させています」
雨粒が、光の中を落ちていく。
あのとき、わたしは本を濡らしたくなかっただけだった。
次に、桶の水が映し出された。
「洗浄魔導についても、汚れの消失処理を行わず、水流と泡沫の保持を調整しています」
木皿の縁に沿って、小さな流れが生まれる。
それから、神父様の飛行映像が映った。
箒を持って、風を待つ姿が、画面の中央にある。
足元の草が揺れ、靴底が地面を離れる。
わたしは思わず身を乗り出した。
「神父の飛行では、標準的な重力相殺および推進変換を主とする術式構成が検出されていません」
アリサ少尉は記録を拡大する。
「代わりに、身体荷重と局所的な場の応答との間に、継続した相関が確認されています」
身体荷重。
場の応答。
わたしはノートを開いた。
――翻訳器?
朝、自分で書いた疑問符がそこにあった。
博士の解析欄を追う。重量情報。局所気流。荷重の分配。出力変換。
――わたしが考えかけたことに、似ている。
けれど、まだ同じだとは言いきれなかった。
博士は、観測した現象を数式にしている。
わたしは、ただ空の言葉を想像していただけだ。
「……この構成は、再現できるのでしょうか」
「現時点では、観測数が不足しています」
残念だった。けれど、それは正しい答えだと思った。
分からないものを、分かったことにしてはいけない。
「では、どこまで分かっているのでしょう」
「源泉波形の比較結果があります」
少尉が、わたしの選抜試験の記録を展開した。
まっすぐに立ち上がる主周波数。
先端は鋭く、細く尖っている。
副周波数は、その周囲で揃えられようとしていた。
「選抜試験は北方中央都市の標準結界下で実施されています。低出力の局所魔導行使であったため、当時は重大な同期逸脱を認めていません」
わたしは頷いた。
あのときは、何も問題にならなかった。
点火も、送風も、出力制御も。
試験官の指示に従って、すべて成立した。
だから、わたしは自分が飛べないなどと思ってもいなかった。
「こちらがテルベリアでの記録です」
隣に現れた波形は、主周波数の尖りが弱まり、裾が緩やかに広がっていた。副周波数は三系統のままだ。
消えていない。
けれど、無理に一本へ揃えられようともしていなかった。
「源泉圧は高値を維持しています。尖りが弱まっただけでは出力減少と判断できません」
二つの波形が重なる。
「源泉変動が局所環境の応答と連動している可能性があります。標準結界下とはエネルギー分布が異なります」
連動。その言葉を書き留めた。
「魔力が、周囲に広がっているということでしょうか」
「可能性はあります。ただし、仮説です」
少尉が断言しないことが、ありがたかった。
あの演習場では、何が分かっていて、何が分かっていないのかも分からなくなっていた。
今は違う。
少なくとも、分からないところに線を引くことができる。
少尉が資料を切り替えた。
そこには神父様の飛行が、数式に置き換えられていた。
複雑な式の下には、短い説明が添えられている。難しい記号には注釈がつき、参照した資料も示されていた。
ひとつずつ追っていけば、わたしにも理解できる。
そして、最後の頁にはレフ博士の手書きの署名があった。
わたしにも読めるように、整えてくださったのだ。
――それに気がつけば、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
「研究院は、現象を評価する別の指標も試算しています」
新しい項目が現れた。
環境調和率。
わたしは息を止めた。
調和。
神父様が、さっき使われた言葉だった。
――私は、飛ぶことを世界と調和することだと思っています。
神父様も投影面を見つめていた。
「……調和、ですか」
小さな声だった。
アリサ少尉が頷く。
「この指標は、ティモシェンコ博士が今回の現象を評価するために試算したものです」
レフ博士が――わたしの心に広がっていた熱が一度、脈打った。
「暫定名称です。帝国標準同期率とは、評価対象が異なります」
少尉は二つの項目を並べた。
「同期率は、定められた基準振動に対し、対象個体の源泉がどの程度一致しているかを示します」
それは知っている。
帝都で、何度も何度も見た数値だった。
「一方、今回の調和率は、術者の源泉変動と周辺環境の応答が、どの程度安定して連動しているかを暫定的に評価したものです。現行の標準同期率に代わる制度上の指標ではありません」
少尉は一拍置いた。
「対象個体の安全性や、他環境での再現性を保証するものでもありません」
わたしは頷く。
正しさを表す数字ではない。
安全を保証する数字でもない。
ただ、これまでとは違うところを測っている。
「神父の帝国標準同期率は七十七・八パーセント」
その隣に、新しい数値が現れた。
「テルベリアでの環境調和率は、九十二・一パーセントです」
わたしは鉛筆を止めた。
同じ飛行。同じ神父様。同じ箒。同じ風。
それなのに、測るものを変えると、こんなにも違う数字になる。
「……八割に届かないのに、九割を超えるのですね」
思わず呟く。
「比較している対象が異なりますから、数値の大小だけで優劣は判断できません」
アリサ少尉が答えた。
「ですが、今回の飛行は安定して成立しました。その事実は、どちらの指標を用いても変わりません」
わたしは思わず少尉を見た。
少尉は、いつもと変わらない表情をしている。
数字を読み間違えないように。
観測したものを、観測していないものと取り違えないように。
けれど、わたしにはその言葉がひどく大切なものに思えた。
神父様は、飛んだ。
それは、どんな数値でも消えない。
「神父の源泉圧上昇は、平常基準比プラス四パーセントです」
少尉が続ける。
「局所応答は安定。落下補正介入、ほぼなし。推進出力は……低値です」
最後の項目を読み上げたとき、神父様が少しだけ笑った。
「私は、推進が苦手なのです」
わたしは神父様を見た。
「苦手なのですか」
「ええ。速く飛ぶのは向いていません」
神父様は穏やかに言った。
窓の外では、風が洗濯物を揺らしている。
「ですが、山道を少し越えるには、それで足ります」
足ります――その言葉が、わたしの胸の奥へ静かに落ちてきた。
ノートには、七十七・八。九十二・一。プラス四。低い推進出力。
数字は、どれも間違っていない。
けれど、数字だけでは、神父様がなぜあの高さで飛んだのか、分からなかった。
どれほど高く飛べるかではない。
あの高さで、足りるのだ。
谷を少し越えるために。
鐘楼の屋根を確かめるために。
雪で道が塞がったとき、必要なものを向こう側へ届けるために。
わたしは鉛筆を持ち直した。
指に力が入り、いつの間にかノートの次の頁まで跡がついていた。
少しだけ、力を緩める。
それから、神父様の言葉をそのまま書き留めた。
――それで足ります。
鉛筆の先が、紙の上を滑っていく。
その下には、まだ何も書かなかった。
帝都で飛ぶには式が要る。けれど、この飛行を説明するには、それだけでは足りない。
空を飛んだ人がいる。
推進出力は低い。
環境調和率は高い。
どちらの数字にも、薬を待つ人の姿は映っていなかった。
わたしは神父様を見つめる。
神父様はゆっくりとお茶を飲んでいた。
湯呑みを両手で包み、いつものように、静かに息を吹きかけている。
その姿を見て、なぜか安心した。
測るものは変わった。
けれど、神父様は変わらない。
アリサ少尉がわたしと神父様を交互に見る。
「研究院側からの質問を受け取っています」
「はい」
神父様の返事は鷹揚としていた。
「テルベリアの方々は、みな、このように飛ぶのですか」
博士の質問に、神父様は少し考えた。
「みな、ではありません。飛ぶのが得意な者もいれば、苦手な者もいます。高く飛ぶ者も、斜面に沿う者も、谷風だけを使う者もいます」
その言葉にわたしは思い出す。お隣のナターシャおばさんは谷から上がってくる風を利用して飛んでいた。今は炭鉱に働きに出ているマルク兄さんは、山の傾斜をスキーのように滑り落ちて飛び上がった。
「馬車を使う理由は?」
次も博士からの質問だろう。神父様は当然のように答えた。
「飛べることと、荷を濡らさず、卵を割らず、老人を揺らさず、約束の時間に着くことは別です」
その返事は、わたしの中にそよ風のように吹き込んだ。アリサ少尉は頷く。神父様は優しく微笑み、続けた。
「山の風は変わります。霧も出ます。谷の上では、ほんの少しの読み違いが命に関わる。飛行は便利ですが、便利だけでは生活は成り立ちません」
神父様は窓の外を見る。アグラーヤおばあちゃんが山羊に餌をやっていた。
「薬を急いで届けるとき。雪で道が塞がったとき。鐘楼の屋根を見るとき。斜面を越えて隣家へ知らせに行くとき。そういうときには飛びます」
神父様が視線をアリサ少尉に戻す。
「飛行は日常の移動ではなく、必要なときの技術です」
アリサ少尉は真っ直ぐな瞳で、その言葉を受け止めた。
「ありがとうございます。記録し、研究院に返送します」
端末を操作することなく、アリサ少尉は神父に頭を下げた。
時計の音が時間を刻む。
わたしは、神父様の答えと波形をノートに書いた。
言葉にしてしまえば数行。
けれどそこには何十年にも及ぶ人の生活が詰まっている。
――不意に窓の外から、馬の嘶きが聞こえた。
泥を踏む蹄の音。石に乗り上げる重い車輪。
アリサ少尉より先に、神父様が窓を見た。
「ああ」
少し嬉しそうな声だった。
「帰ってきましたね」




