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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
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五 空へ伝える力

 雨上がりの朝は、世界の輪郭が少しだけはっきりする。


 石階段の隙間にはまだ水が残り、草の先に溜まった雫が明け方の薄い光を受けて震えていた。

 山の雪は昨日より少し近い。空気が洗われたせいか、遠い尾根の線までよく見える。


 礼拝堂は、濡れた木と蝋燭の匂いがした。

 朝のお祈りは短い。

 神父様の声は低く、石壁に触れてから、少し遅れて戻ってくる。

 それを聞く村の人たちの衣擦れや息遣いは、減衰されることなく残っていった。


 お祈りが終わると、わたしは空の籠を取りに行った。

 アリサ少尉が礼拝堂の後方に立っている。今日は軍服ではなく、岩場も歩けそうな簡素な衣服だった。

「おはようございます」

 わたしがそう言えば、アリサ少尉も返事を返してくれた。その顔に疲労はない。

「今から卵を採りにいきます」

 籠を見せると、少尉は一拍遅れて頷いた。

「わかりました」

 記録しますとは、言われなかった。


 鶏小屋は教会の裏手にある。

 昨日の雨で地面は柔らかく、靴底に泥がついた。

 戸を開けると、鶏たちが一斉にこちらを見上げる。飼料の袋を持ち上げれば、待ちきれないように足元を歩き回り始めた。

 糞と飼料の匂いが、懐かしかった。

 餌箱に飼料を入れ、均す。わたしが離れた瞬間、鶏たちは我先に餌箱をつつき始めた。

 藁の中へ手を差し入れる。

 卵があった。

 一個、二個、三個。


 温かい。


 手のひらに乗せると、薄い殻を通して、その奥にある熱が伝わってきた。

 源泉の熱とは違う。

 火の熱とも違う。

 けれど、確かにそこにある温かさだった。


 卵をそっと、籠の底に敷いた布へ下ろす。殻が布に触れても、すぐには指を抜かなかった。手のひらから卵の重みが消えたところで、そっと手を離す。


 持ち上げるのではない。


 ――支える。


 なぜか、その言葉が胸に残った。


 ◇


 朝食は黒パンと卵、それから昨日のスープを温め直したものだった。

 卵はアグラーヤおばあちゃんが分厚く焼いてくれた。端は少し焦げていて、真ん中は柔らかい。

 帝都の食堂で食べた卵には、こんな焦げ目はなかった。


 でも、その焦げた端がいちばん美味しかった。


 食事が終わると、アリサ少尉と一緒に食器を洗った。

 少尉の手つきは丁寧だけれど、家事に慣れているというより、作業の手順を一つずつ覚えているようだった。

 アグラーヤおばあちゃんは台所の隅でじゃがいもの皮を剥いている。


「アリサ少尉。低出力の生活魔導を使ってもよろしいですか」

「はい。訓練計画の許可範囲内です」


 わたしは木皿と匙を桶に重ねた。

 石鹸草を揉んだ薄い泡が、水面に浮いている。

 井戸水は冷たく、指先が少し赤くなった。


 桶の中を見つめる。

 木皿の縁。匙の窪み。油の筋が残っているところ。


 水に、ほんの少しだけ源泉を流した。


 水面が静かになる。


 けれど、止まったのではない。

 小さな流れが生まれていた。

 木皿の縁に沿い、匙の窪みに沿い、汚れの残るところを撫でるように水が回っている。

 泡は散らず、薄く広がって油の筋を浮かせた。


 皿を持ち上げる。

 水は縁から細い糸のように伸び、残った泡をさらって桶へ戻った。


「……今、何をしました?」


 アリサ少尉の声が隣から落ちてきた。

「はい?」

 顔を上げると、少尉はわたしと木皿を交互に見ていた。

「いまの水流です。皿の縁に沿って流れが変化しました」

「水流……」

 わたしは桶を見下ろした。

 水はもう、普通に揺れている。


「洗いやすく……しました」


 少尉の視線が端末へ落ちる。

 わたしは少し不安になって、言葉を足した。


「汚れが残っているところに、水が行くようにしたんです。泡が流れてしまうと、また石鹸草を使わなければなりませんから」


 帝都のように、排水の浄化術式も、食器を乾かす結界もない。

 だから、桶の水を見る。

 皿の形を見る。

 汚れの広がり方を見る。


 少尉はしばらく考えていたが、やがて頷いた。


「わかりました」


 それだけだった。

 評価はない。

 けれど、継続を止められることもなかった。


 アグラーヤおばあちゃんが少しだけ顔を上げる。けれどすぐにまた、じゃがいもの皮を剥くナイフに視線を戻した。


 わたしは次の木皿を手に取る。

 桶の中で、水がほんの少しだけ丸く動いた。


 ◇


 片付けを終え、わたしは机に二冊の本とノートを並べた。


『児童向け基礎魔導訓練 一』

 それから、ヘルマンの『場と対称性――自然法則の沈黙について』。


 今日から、わたしのための飛行理論を組み立てていく。


 わたしは深く息を吸って、吐いた。

 周囲の音が輪郭を持つ。


 台所の隅で、アグラーヤおばあちゃんが鍋を洗っている音。礼拝堂の奥では神父様が椅子を戻し、外では鶏が鳴いている。


 空気が少し丸みを帯びた気がした。窓枠の隙間から風が入ってきたからだ。

 まだ少し冷たい、テルベリアの六月の風。

 その風に指先をくすぐられながら、わたしは児童書の飛行術の頁を開く。


 ――みなさんは、ちゅうとうぶのおにいさん、おねえさんになったら、そらをとぶれんしゅうをします。


 覚えている。

 子供の頃、何度も読んだ頁だった。


 事故の危険性や、練習するときの注意が、子供にも分かる言葉で書かれている。


 ――おそらやかぜとなかよしになりましょう。


 昔は、なんて素敵な言葉だろうと思った。

 今は、その意味を少しだけ考えてしまう。――ノートに書き留める。


 次の頁を開く。


 ――まず、ほうきにまたがります。

 ちからをいれすぎないでね。

 ほうきがびっくりしちゃうよ!


「……あ」


 演習場での自分を思い出した。

 白くなるまで箒を握りしめていた指。

 力を抜けと命じられるたびに、ますます力んでしまった肩。


 その下に、もう一つ文章があった。


 ほうきは、みんなをもちあげるものではありません。

 みんなのおもさをおそらにつたえるものです。


 わたしは指を止めた。


 重さを、伝える。


 朝の卵を思い出す。

 あの温かさを手のひらで受け止めたとき、わたしは持ち上げようとは考えなかった。


 支えようとした。


 けれど、箒が重さを伝えるとは、どういうことなのだろう。


 飛行術では、魔力を推進力に変換する。

 重力を相殺し、姿勢を保ち、目的の高度まで上昇する。

 ――学院ではそう習った。

 それは間違っていない。ほかの生徒たちは、その方法で飛んでいた。


 でも、その方法では、わたしは飛べなかった。


 わたしはヘルマンの本を開いた。


 ――力とは、場が沈黙を破る際に生じる関係の名である。


 関係。


 その二文字をノートに書く。


 雨粒は、風が吹く方向へ落ちていった。

 桶の水は、木皿の形に沿って流れた。

 では、空を飛ぶとき、重さはどこへ行くのだろう。


 わたしは鉛筆を止めた。


 風が窓を鳴らした。

 顔を上げると、庭の洗濯紐が揺れている。

 その向こうに、雨上がりの青い空が広がっていた。――


 ノートを抱え、外へ出る。


 石畳の端に、鶏の羽根が一枚落ちていた。

 風が吹く。

 羽根はふわりと浮き、石に当たって裏返り、また地面に落ちた。


 軽いからだ。


 だからといって、思うように飛べるわけではない。


 わたしはその羽根を見つめた。


 飛ぶことは、ただ軽くなることではないのかもしれない。


 ノートを開く。


 ――箒は、重さを空へ伝える。


 その下に、一つの言葉を書いた。


 翻訳器?


 書いてから、自分でも少し驚いた。

 箒は推進器ではなく、身体の重さを空へ伝えるための翻訳器なのだろうか。


 身体の重さを、空の言葉へ。


 そこまで考えて、手が止まった。


 わたしには、まだ空の言葉が分からない。


 山から下りてくる風が頬を撫でた。

 雨と雪の匂いの中に、微かな若葉の香りが混じっている。


 帝都よりも遅い芽吹きが、ここにも近づいているのだろう。


 わたしはノートを胸に抱えた。


 飛行が、少しだけわたしの言葉になりかけていた。

 けれど、その先をどう書けばいいのかは分からなかった。


 ――背後で石が鳴った。


「マシュ」


 振り返ると、神父様が立っていた。

 黒い神父服の裾が、風に遅れてひるがっている。


「昨日は休めましたか」

「はい」

 そう答えると、神父様は安心したように微笑んだ。

 身体は楽だった。

 重石を一つ降ろしたように手足が軽く、視界も帝都にいた頃よりはっきりしている。

 遠くの針葉樹の梢に、一羽の鳥が止まっていた。

 鶫だろうか。

 茶色の羽が風に小さく揺れている。

「神父様……」

 わたしは鶫を見つめながら、神父様に尋ねる。

「神父様が、わたしに飛行を教えてくださるとしたら……」

 鶫の首が動いた。

「どうご指導してくださいますか?」

 茶色の羽が大きく広がり、細い足が木から離れた。

 神父様はすぐには答えなかった。

「いまの、あなたにならば……」

 神父様の声は、いつもより少し静かだった。


「あなたはどう飛びたいですか、と聞きます」


 その言葉が、胸の中の空白に落ちた。

 どう飛びたいか。

 わたしはノートを抱きしめる。


 落ちたくない。

 みんなと同じように、帝国標準に同期したい。

 遅れたくない。

 間違えたくない。


 それから――。


 あの人の声が蘇った。


 ――私を見失うな。


 ノートの端に指が食い込む。

 思い出すために帰ってきたのではない。

 それでも、忘れたくなかった。


 ――テルベリアで、わたしの飛び方を探します。

 そう告げて、帝都を離れた。


 けれど、どう飛びたいかなんて、考えたことがなかった。


 考える余裕が、なかったのだ。


 神父様が、わたしと目線を合わせる。

「では、もう一つ聞きましょう」

 その瞳は、幼い頃から何度もわたしの問いを受け止めてくださった瞳だった。


「あなたは、なぜ飛びたいのですか」


 胸の中で、何かがほどけた。


 特待を外されたくないから。

 原籍送還されたくないから。

 魔導物理学者になりたいから。


 どれも、嘘ではない。


 わたしが学院へ行くために積み重ねてきたものも、あそこで学び続けたいと願う気持ちも、全部本当だ。


 けれど――それよりも前に、何かがあったはずだった。


 風が通り抜けていく。

 青葉の匂いに、山羊の匂いが混じった。

 馬車の轍に残った雨水が、石の隙間を伝って流れている。


 あの水は、どこへ行くのだろう。


 山から吹く風は、どこで生まれるのだろう。


 火はどうして燃えるのだろう。


 どうして、わたしの源泉は、雨粒の落ちる道を変えられるのだろう。


 わたしは、ずっと知りたかった。


 そして、あの空で――


 自分の身体で確かめてみたかった。


「……知りたいから、です」


 声が震えた。

 神父様は何も言わず、待ってくださった。


「世界が、どう成立しているか」


 わたしは顔を上げた。


「知りたいからです」


 言いきったとき、胸の奥に細い道ができたような気がした。


 大きすぎる願いなのかもしれない。

 何ひとつ、まだ分かっていないのかもしれない。


 それでも、始まりの場所に戻れた気がした。


 神父様は、しばらくわたしを見つめていた。

 やがて、小さく頷いた。


「ノートを見せてください」


 わたしは少しためらった。

 書いたのは、思いついた言葉ばかりだ。

 数式もなければ、成立条件も分からない。


 けれど、いまのわたしにあるものは、これだけだった。


 神父様にノートを差し出す。


 ――持ち上げるのではなく、支える。

 ――箒は重さを空へ伝える。

 ――翻訳器?


 自分の書いた疑問符が、ひどく幼く見えた。

「……まだ、考えている途中です」

 沈黙が怖くなって、思わず先回りしてしまう。

 神父様の指が、わたしの書いた文字に触れた。

「途中でよいのです」

 穏やかな声だった。

「そうして、この世界をあなたは知っていくのでしょう」

 神父様はノートを閉じ、わたしに返してくださった。

「私は、飛ぶことを世界と調和することだと思っています」


 調和。


 その言葉を、わたしは胸の中で繰り返した。


「ですが、同じ風でも、昨日と今日では違います。私も毎回、少しずつ教わっているのですよ」

 神父様は笑った。

「だから、終わりはありません」

 わたしはノートを握り直した。


「……神父様」

「はい」

「神父様が飛ばれるところを、見たいです」


 思ったより自然に、言葉が出た。

 神父様は少しだけ目を丸くして、それから困ったように微笑んだ。

「遠くへは飛べませんよ」

「はい」

「重いものも運べません」

 神父様は山の頂を見上げた。

「谷を少し越えるくらいなら。鐘楼の屋根を見るくらいなら。雪で道が塞がった日に、隣の村へ薬を届けるくらいなら」

 山から反射する淡い光に、神父様が縁取られる。黒い神父服の輪郭が空気に馴染んでいく。

「そのための飛行ならば、私にもできます」

「……見せていただけますか」

 神父様はすぐには頷かなかった。

 けれど、やがて優しく微笑んだ。


「待っていてください」


 そう言って、教会へ戻っていった。


 わたしは一人、庭に残された。


 風が吹いている。

 洗濯紐が揺れ、鶏が鳴く。

 雨に濡れた石畳が、陽の光を受けて少しずつ乾いていく。


 世界は、わたしが何もしなくても動いていた。


 しばらくすると、神父様が箒を持って戻ってきた。

 アリサ少尉も一緒だった。


 少尉は端末を起動させる。


「飛行範囲と高度を確認します」

「教会裏の斜面まで。高さは、あの窓くらいまででしょうか」

 神父様が礼拝堂のステンドグラスを指さした。

「飛行するのは私だけです。マシュは見ているだけですよ」

「承知しました。観測記録を取ります」

 少尉はわたしに視線を向けた。

「マシュさんは、今回は地上で見学してください」

「はい」

 神父様は穏やかに頷いた。


 その手が持つ箒は、帝都の訓練用とはまるで違っていた。


 柄は黒ずみ、何度も握られたところだけが滑らかに光っている。

 枝の束は不揃いで、先端は少し曲がっていた。

 魔導導線も、推進補助陣も見えない。

 安全刻印も、標準認証番号もなかった。


 帝都なら、規格外と判定されるかもしれない。


 けれど神父様は、ずっとこの箒で飛んできた。

 わたしの胸に、温かいものが広がった。

 懐かしい。

 わたしは、この箒を知っている。


 神父様は、すぐにはまたがらなかった。

 ただ、立っていた。

 片手に箒を持ち、目を閉じている。

 山から下りてくる風が、神父服の裾に触れる。

 神父様はその動きを確かめるように、わずかに顔を上げた。


 わたしは息を止めた。


 強い源泉の立ち上がりを感じない。


 それなのに、神父様の周囲の空気だけが、少し薄くなったように見えた。


 アリサ少尉の端末が小さく光る。


「……微弱な局所応答」

 少尉が呟いた。

 神父様は目を開けた。

 箒にまたがる。

 地面を蹴らなかった。


 ただ、重さを移した。


 その瞬間、神父様の靴底が草から離れた。


 ほんの少し。

 膝より、少し高いくらい。


 人の背丈にも届かない。

 けれど、落ちない。


 わたしは目を見開いた。


 箒が神父様を持ち上げているのではなかった。


 風が、神父様の重さを受け取っていた。


 ――重さを空へ伝える。


 ノートに書いた言葉が、胸の奥で小さく鳴った。


 神父様は、ゆっくりと高度を上げていく。


 飛び上がるのではない。


 重さを、預けている。


 山から下りる風が教会の壁に当たり、少し向きを変える。

 谷の方からは、湿った冷気がゆっくりと上がってきていた。

 昨日の雨を含んだ草が、陽に温められて匂いを立てる。


 神父様は、そのすべての中を進んでいった。


 まっすぐではない。

 風に押されて少し流れ、身体を傾け、石垣の手前でふわりと沈む。


 速くない。

 高くもない。


 けれど、確かに飛んでいる。


 わたしはノートを抱きしめた。


 空と地面のあいだに、神父様の身体が置かれている。


 風が変われば、少し向きを変える。

 風が弱まれば、少し高度を落とす。


 何もかもが、神父様の思いどおりになっているわけではない。

 それなのに、危なげがなかった。


 まるで、山の風が一人分の重さを引き受けているようだった。


 わたしは、その姿を見つめ続けた。


 やがて神父様が降りてくる。


 高度を落とし、濡れた草の上に足を下ろした。

 靴底が地面に触れる、小さな音だけがした。


 アリサ少尉が端末を操作する。

 記録が保存されたのだろう。


「これが、私の飛び方です」


 神父様は箒を抱え、少し恥ずかしそうに言った。


「たいしたものではありません」


 わたしは首を横に振った。


「いいえ」


 声が震えた。


 ノートを抱く腕に、力が入る。


「……少しだけ、分かった気がします」


 顔を上げる。

 神父様は、何も言わずに待っていてくださった。


「飛ぶことは、上へ行くことではありません」


 胸の奥で、源泉が小さく灯る。

 それは、昨日の雨の中で感じた熱とよく似ていた。


「落ちる力を、ひとりで抱えないことです」


 風が吹いた。


 神父様の黒い袖が揺れる。

 草が波を打ち、遠くで鐘が鳴った。


 わたしは息を吸う。


 空が、とても近かった。


 靴底が、地面に触れていることを一瞬だけ忘れた。

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