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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
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四 不完全な力

 夕方になっても、雨はまだ降っていた。

 教会の軒下から外を見ると、庭の土は黒く濡れ、洗濯紐だけが風に揺れていた。屋根の端から落ちる水滴が、石畳に小さな丸を作っては消していく。

 神父様は礼拝堂の奥に戻り、アグラーヤおばあちゃんは台所で夕方の仕込みを始めている。

 廊下の向こうから、包丁がまな板を叩く音が聞こえた。

 とん、とん、とん。

 少し間が空く。

 ざく、ざく、ざく。

 揃っていない。けれど、手が迷っている音ではなかった。


 わたしは肩にかけた麻の鞄を抱き直した。

 中には、書庫から借りてきた二冊の本がある。


『児童向け基礎魔導訓練 一』

 それから、エドヴァルド・ヘルマンの『場と対称性――自然法則の沈黙について』


 神父様の言葉も、あの人の言葉も、まだ胸の奥に残っている。

 けれど、雨を眺めているうちに、少しだけ息がしやすくなっていた。


 風向きが変わった。

 斜めに吹き込んだ雨が、鞄の上に落ちる。

 わたしは慌てて身体の前へ引き寄せた。

 古い革表紙を濡らしたくなかった。

 軒の奥へ戻ろうとして、指が止まる。


 防水魔導。


 学院では、ロザノワ先生の補講で習った。

 低出力の生活魔導。点火、熱量固定、送風、初歩乾燥処理。

 防水膜も、その一つだ。

 対象物の表面に薄い保護層を展開し、水分の接触角を制御する。魔力密度を下げれば、書物の繊維を傷めることもない。


 できる。

 それは、分かっている。


 現地補助訓練では、低出力の生活魔導に限って行使が許可されている。アリサ少尉からも、その範囲を説明されていた。

 わたしは鞄の上で指を動かす。

 けれど、膜を張る直前で手が止まった。


 雨粒が、見えた。


 右から風が吹いていた。

 屋根から落ちる雨粒は、その風に押されて斜めに流れている。けれど、風が少し弱まれば、まっすぐ落ちるものもあった。

 どれも同じ雨なのに、落ち方が違っている。


 ――膜を張らなくても、いいのではないだろうか。


 わたしはゆっくり息を吐いた。

 鞄の手前を通り過ぎる風に、意識を向ける。


 風はもう、右から左へ流れている。

 その流れに、ほんの少しだけ源泉の熱を重ねた。

 鞄の手前で、風の通り道がわずかに左へ逸れる。


 張るのではない。

 押し返すのでもない。


 いま吹いている風に、少しだけ道を変えてもらう。


 冷たい雨の匂いが肺に入った。

 濡れた土。古い煉瓦。朽ちた薪。遠くの雪。

 胸の奥で、源泉が小さく温まる。

 学院の演習場で感じたような、喉を焼く激しい熱ではなかった。

 夜を照らす蝋燭のように、仄かで確かな熱だった。


 雨粒が一つ、落ちた。


 鞄に触れる直前、左へ流れる風に乗って、少しだけ軌道を変えた。

 石畳に落ちる。

 次の一粒も、その次の一粒も。


「……できた」

 思わず呟いた。

 出力は小さい。

 学院なら、評価の対象にもならないかもしれない。


 けれど、ちゃんとできた。


 わたしは鞄をそっと開き、二冊の本を確かめた。

 表紙は乾いたままだった。

 胸の奥の源泉が、静かに頷いたような気がした。


 庭の向こうに目をやる。薪小屋の庇の下に、細薪が積まれていた。

 雨脚が強くなれば、端の方から濡れてしまう。


 わたしは少し考えてから、鞄を勝手口の内側に置いた。


 今度は、薪を濡らさずに運べるだろうか。


 アリサ少尉が窓際に立っている。手には端末があった。

 視線が合う。

 けれど、少尉は何も言わなかった。


 右から風が吹いてくる。屋根からは大きな水滴が跳ね、泥が広がる。

 雨の庭に一歩出る。

 靴底が泥を踏み、水が跳ねた。

 ほんの少し、つま先が濡れる。


 完璧ではない。


 それでも、雨粒はわたしの身体をかすめ、石畳へ落ちていった。


 わたしは呼吸を整え、周りの空気に意識を向けた。


 雨を止める必要はなかった。

 雨の降る場所を、わたしが全部決める必要もなかった。


 ただ、落ちてくる道を聞く。


 ぱら、ぱら。

 ざあ。

 とん。

 ぽつ。


 雨の拍は揃っていない。

 けれど、全部がばらばらでもない。

 わたしは自分の呼吸を見失わないようにしながら、石畳を進んだ。


 雨と、道を分け合う。


 薪小屋の前で屈み、細い薪を五本、腕に抱えた。

 濡れていないものを選ぶ。

 軽い。乾いている。割った面が白い。

 指先に、ざらりとした木肌が触れた。


 昔は、これを選ぶのがわたしの役目だった。

 太い薪は持てなかったけれど、細薪なら運べた。

 火を起こす最初の一本を選ぶのは、いつも少し誇らしかった。


 乾いた薪の割れ目を腕の内側へ向け、右から吹く風に、もう一度だけ源泉の熱を重ねた。雨粒が薪の外側を通り過ぎていく。


 腕に抱え直して、台所へ戻る。

 雨はまだ降っている。足先は少し濡れた。

 けれど薪の割れ目には水が入っていなかった。


 完璧ではない。

 でも、足りている。


 勝手口を開けると、アグラーヤおばあちゃんが顔を上げた。

「おや、薪を取ってきてくれたのかい」

「はい。端の方が、濡れそうでしたので」

「ありがとうね」

 おばあちゃんはわたしの腕から薪を受け取ると、割れ目を確かめた。

「ほら、ちゃんと選べてるじゃないか」

「……え?」

 わたしは勝手口のタオルで濡れた靴先を拭いた。

 おばあちゃんは細薪を竈のそばに置きながら、何でもないことのように言う。

「昔からそうだったよ。あんたは火そのものより、火がつく前の木をよく見てた」

「……そうでしたか?」

「六つの頃にはもう、燃える木と、煙ばかり出す木を見分けてたよ」

 思い出すのは、暖炉の前に座り、神父様と一緒に木の燃える様子を眺めていた時間だった。

 薪の割れ目。

 乾いた木の匂い。

 炎が入っていく順番。

「帝都じゃ、そういうのは習わないのかい」

 わたしは答えに詰まった。

 学院では、火の出力や温度、熱量の制御を学ぶ。

 それも大切なことだ。


 けれど、薪の割れ目の白さや、湿った木の匂いから火の入り方を考える授業は、なかった。


「……別のことを、習います」

「ふうん」

 おばあちゃんは、それ以上聞かなかった。

 ただ、竈の火を確かめ、わたしが持ってきた細薪を一本差し入れた。

 乾いた木が、小さく爆ぜる。


「なら、ここではここのことを思い出せばいい」


 その言葉を聞いて、わたしは薪の白い割れ目をもう一度見た。

 窓の外でなだらかな雨の音が、土の底に沈み込んでいった。


 ◇


 廊下へ出ると、アリサ少尉が柱のそばで端末を操作していた。

 わたしは少し迷ってから、声をかける。

「あの」

「はい」

「先ほど、魔導を行使しました」

「確認しています」

 予想どおりの返事だった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

「……数値を教えていただけますか」

「開示可能な範囲であれば」

 少尉は端末に目を落とした。

「対象個体の帝国標準同期率、七十二・四パーセント」

 七十二・四。

 思わず息が止まった。

 帝都では、警戒される数字だ。

 それなのに、わたしは苦しくなかった。

 足裏は床を感じている。胸の奥の源泉も、静かに温かい。


「ただし、テルベリア低負荷結界との同期率は八十一・三パーセント。安定域です」

 

 安定域。

 わたしはその言葉を、胸の中で繰り返した。


「源泉圧は、平常基準比プラス一八パーセント。波形に急激な尖りは認められず、急性逸脱判定も出ていません」

 圧は、高い。

 標準からも、ずれている。

 なのに、逸脱は起きていない。


 同じわたしなのに、場所が変わると意味が変わる。


「危険では……ないのですか」

 語尾が震えた。

 アリサ少尉は、少しだけ黙った。

 嘘を探している沈黙ではなかった。言い切らないための沈黙だった。

「――帝都標準環境下であれば、警戒値です」

 警戒値。その言葉に足が竦む。けれど、わたしはまだ聞ける。

「ここでは」

「ここでは、判断保留です」

 判断保留。

 安全だと認められたわけではない。

 けれど、危険だと断定されたわけでもなかった。

「……源泉圧は高いのに、逸脱していないのですね」

「はい」

 そこでアリサ少尉は、一度言葉を区切った。


「ここからは本官の解釈です」

 端末を胸の下に下ろし、わたしをまっすぐに見つめる。


「帝国標準との同期率は低い。ですが、現地結界との同期は安定しています。この環境下では、帝国標準からの乖離が、必ずしも源泉の不安定を意味するとは限りません」

 わたしは瞬きをした。

「……標準から、外れていても?」

「その可能性があります。ただし、理由はまだ分かっていません」


 アリサ少尉は、そこで言葉を止めた。

 言えることだけを言ったのだと思った。


 わたしは、雨の庭を思い出す。

 右から吹いていた風。

 ほんの少しだけ変わった、雨粒の道。


 あのとき、わたしの源泉は、外の風に触れるように広がっていった。


 あれは、何だったのだろう。


「ありがとうございます」

「今回の魔導行使は、通常の観測報告に記載します」

「はい」

「現時点で、担当制御官への緊急通報は必要ありません」

 少尉は淡々と言った。

 

 見逃されたのではない。

 記録されなかったわけでもない。

 けれど、いまのわたしを危険だとは断定しなかった。


 わたしは廊下の窓から、雨の庭を見た。


 かつてのわたしは、自分の源泉が温かくなることを怖いとは思っていなかった。

 怖がるより先に、耳を澄ませていた。


 ◇


 夜になっても、空は完全には暗くならなかった。

 白夜の薄明が窓の向こうに残っている。

 雨は上がっていた。屋根の端から、ときどき水滴が落ちる音が聞こえる。


 わたしは自室の寝台で、毛布にくるまっていた。寝台は管理区ほど柔らかくなく、縁がすり切れた毛布は少しだけ羊の匂いがする。

 教会の自室は、わたしが学院に進学する前と何も変わらなかった。床板は少し軋むし、窓枠には古い隙間がある。神父様が何度も直してくれたけど、結局一年もすればまた壊れてしまう。


 枕元には、書庫から借りてきた二冊の本がある。

 寝る前に、もう一度ヘルマンの第三章を開いた。


 力は、所有するものではない。

 関係の中で生まれるもの。


 その意味は、まだよく分からない。


 管理区の白い部屋で読んだときは、怖かった。

 わたしの力なのに、わたしのものではないのなら。

 わたしが動かしているのではないのなら。


 わたしは、何をもって自分だと言えばいいのだろう。


 けれど、今日の雨を思い出すと、少しだけ違って聞こえた。


 雨は、わたしが降らせたものではない。

 風も、わたしのものではない。

 それでも、雨粒が落ちる道を少しだけ変えることはできた。


 薪は、乾いた面から火を受け取る。

 鐘の音は、谷を越えて遅れて返ってくる。

 雨は屋根に触れて、初めてあの音になる。


 わたしは毛布の中で、お腹に手を当てた。

 小さな熱がある。


 この源泉も、そうなのだろうか。


 わたしだけの中に閉じ込めて、抑え込み、命令するものではなくて――


 外の世界に触れたとき、初めて何かを生み出すもの。


 制御官のことを思い出した。

 冷たいくらいに真っ直ぐな立ち姿。振動の少ない波形。


 帝国が求める標準に、いちばん近いところで立っているひと。

 

 落ちる人を落とさないひと。

 燃え広がるものを、その手前で止めるひと。


 あの人は、止めることを教えてくださった。


 わたしは毛布を引き上げた。

 窓の外では、雨の名残が屋根から落ちている。

 不揃いな音だった。

 けれど、もう乱れているとは思わなかった。


 胸の奥にある小さな熱も、まだ消えていない。


 わたしはそっと、自分のお腹に手を重ねた。


 今夜だけは、怖くなかった。

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