四 不完全な力
夕方になっても、雨はまだ降っていた。
教会の軒下から外を見ると、庭の土は黒く濡れ、洗濯紐だけが風に揺れていた。屋根の端から落ちる水滴が、石畳に小さな丸を作っては消していく。
神父様は礼拝堂の奥に戻り、アグラーヤおばあちゃんは台所で夕方の仕込みを始めている。
廊下の向こうから、包丁がまな板を叩く音が聞こえた。
とん、とん、とん。
少し間が空く。
ざく、ざく、ざく。
揃っていない。けれど、手が迷っている音ではなかった。
わたしは肩にかけた麻の鞄を抱き直した。
中には、書庫から借りてきた二冊の本がある。
『児童向け基礎魔導訓練 一』
それから、エドヴァルド・ヘルマンの『場と対称性――自然法則の沈黙について』
神父様の言葉も、あの人の言葉も、まだ胸の奥に残っている。
けれど、雨を眺めているうちに、少しだけ息がしやすくなっていた。
風向きが変わった。
斜めに吹き込んだ雨が、鞄の上に落ちる。
わたしは慌てて身体の前へ引き寄せた。
古い革表紙を濡らしたくなかった。
軒の奥へ戻ろうとして、指が止まる。
防水魔導。
学院では、ロザノワ先生の補講で習った。
低出力の生活魔導。点火、熱量固定、送風、初歩乾燥処理。
防水膜も、その一つだ。
対象物の表面に薄い保護層を展開し、水分の接触角を制御する。魔力密度を下げれば、書物の繊維を傷めることもない。
できる。
それは、分かっている。
現地補助訓練では、低出力の生活魔導に限って行使が許可されている。アリサ少尉からも、その範囲を説明されていた。
わたしは鞄の上で指を動かす。
けれど、膜を張る直前で手が止まった。
雨粒が、見えた。
右から風が吹いていた。
屋根から落ちる雨粒は、その風に押されて斜めに流れている。けれど、風が少し弱まれば、まっすぐ落ちるものもあった。
どれも同じ雨なのに、落ち方が違っている。
――膜を張らなくても、いいのではないだろうか。
わたしはゆっくり息を吐いた。
鞄の手前を通り過ぎる風に、意識を向ける。
風はもう、右から左へ流れている。
その流れに、ほんの少しだけ源泉の熱を重ねた。
鞄の手前で、風の通り道がわずかに左へ逸れる。
張るのではない。
押し返すのでもない。
いま吹いている風に、少しだけ道を変えてもらう。
冷たい雨の匂いが肺に入った。
濡れた土。古い煉瓦。朽ちた薪。遠くの雪。
胸の奥で、源泉が小さく温まる。
学院の演習場で感じたような、喉を焼く激しい熱ではなかった。
夜を照らす蝋燭のように、仄かで確かな熱だった。
雨粒が一つ、落ちた。
鞄に触れる直前、左へ流れる風に乗って、少しだけ軌道を変えた。
石畳に落ちる。
次の一粒も、その次の一粒も。
「……できた」
思わず呟いた。
出力は小さい。
学院なら、評価の対象にもならないかもしれない。
けれど、ちゃんとできた。
わたしは鞄をそっと開き、二冊の本を確かめた。
表紙は乾いたままだった。
胸の奥の源泉が、静かに頷いたような気がした。
庭の向こうに目をやる。薪小屋の庇の下に、細薪が積まれていた。
雨脚が強くなれば、端の方から濡れてしまう。
わたしは少し考えてから、鞄を勝手口の内側に置いた。
今度は、薪を濡らさずに運べるだろうか。
アリサ少尉が窓際に立っている。手には端末があった。
視線が合う。
けれど、少尉は何も言わなかった。
右から風が吹いてくる。屋根からは大きな水滴が跳ね、泥が広がる。
雨の庭に一歩出る。
靴底が泥を踏み、水が跳ねた。
ほんの少し、つま先が濡れる。
完璧ではない。
それでも、雨粒はわたしの身体をかすめ、石畳へ落ちていった。
わたしは呼吸を整え、周りの空気に意識を向けた。
雨を止める必要はなかった。
雨の降る場所を、わたしが全部決める必要もなかった。
ただ、落ちてくる道を聞く。
ぱら、ぱら。
ざあ。
とん。
ぽつ。
雨の拍は揃っていない。
けれど、全部がばらばらでもない。
わたしは自分の呼吸を見失わないようにしながら、石畳を進んだ。
雨と、道を分け合う。
薪小屋の前で屈み、細い薪を五本、腕に抱えた。
濡れていないものを選ぶ。
軽い。乾いている。割った面が白い。
指先に、ざらりとした木肌が触れた。
昔は、これを選ぶのがわたしの役目だった。
太い薪は持てなかったけれど、細薪なら運べた。
火を起こす最初の一本を選ぶのは、いつも少し誇らしかった。
乾いた薪の割れ目を腕の内側へ向け、右から吹く風に、もう一度だけ源泉の熱を重ねた。雨粒が薪の外側を通り過ぎていく。
腕に抱え直して、台所へ戻る。
雨はまだ降っている。足先は少し濡れた。
けれど薪の割れ目には水が入っていなかった。
完璧ではない。
でも、足りている。
勝手口を開けると、アグラーヤおばあちゃんが顔を上げた。
「おや、薪を取ってきてくれたのかい」
「はい。端の方が、濡れそうでしたので」
「ありがとうね」
おばあちゃんはわたしの腕から薪を受け取ると、割れ目を確かめた。
「ほら、ちゃんと選べてるじゃないか」
「……え?」
わたしは勝手口のタオルで濡れた靴先を拭いた。
おばあちゃんは細薪を竈のそばに置きながら、何でもないことのように言う。
「昔からそうだったよ。あんたは火そのものより、火がつく前の木をよく見てた」
「……そうでしたか?」
「六つの頃にはもう、燃える木と、煙ばかり出す木を見分けてたよ」
思い出すのは、暖炉の前に座り、神父様と一緒に木の燃える様子を眺めていた時間だった。
薪の割れ目。
乾いた木の匂い。
炎が入っていく順番。
「帝都じゃ、そういうのは習わないのかい」
わたしは答えに詰まった。
学院では、火の出力や温度、熱量の制御を学ぶ。
それも大切なことだ。
けれど、薪の割れ目の白さや、湿った木の匂いから火の入り方を考える授業は、なかった。
「……別のことを、習います」
「ふうん」
おばあちゃんは、それ以上聞かなかった。
ただ、竈の火を確かめ、わたしが持ってきた細薪を一本差し入れた。
乾いた木が、小さく爆ぜる。
「なら、ここではここのことを思い出せばいい」
その言葉を聞いて、わたしは薪の白い割れ目をもう一度見た。
窓の外でなだらかな雨の音が、土の底に沈み込んでいった。
◇
廊下へ出ると、アリサ少尉が柱のそばで端末を操作していた。
わたしは少し迷ってから、声をかける。
「あの」
「はい」
「先ほど、魔導を行使しました」
「確認しています」
予想どおりの返事だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……数値を教えていただけますか」
「開示可能な範囲であれば」
少尉は端末に目を落とした。
「対象個体の帝国標準同期率、七十二・四パーセント」
七十二・四。
思わず息が止まった。
帝都では、警戒される数字だ。
それなのに、わたしは苦しくなかった。
足裏は床を感じている。胸の奥の源泉も、静かに温かい。
「ただし、テルベリア低負荷結界との同期率は八十一・三パーセント。安定域です」
安定域。
わたしはその言葉を、胸の中で繰り返した。
「源泉圧は、平常基準比プラス一八パーセント。波形に急激な尖りは認められず、急性逸脱判定も出ていません」
圧は、高い。
標準からも、ずれている。
なのに、逸脱は起きていない。
同じわたしなのに、場所が変わると意味が変わる。
「危険では……ないのですか」
語尾が震えた。
アリサ少尉は、少しだけ黙った。
嘘を探している沈黙ではなかった。言い切らないための沈黙だった。
「――帝都標準環境下であれば、警戒値です」
警戒値。その言葉に足が竦む。けれど、わたしはまだ聞ける。
「ここでは」
「ここでは、判断保留です」
判断保留。
安全だと認められたわけではない。
けれど、危険だと断定されたわけでもなかった。
「……源泉圧は高いのに、逸脱していないのですね」
「はい」
そこでアリサ少尉は、一度言葉を区切った。
「ここからは本官の解釈です」
端末を胸の下に下ろし、わたしをまっすぐに見つめる。
「帝国標準との同期率は低い。ですが、現地結界との同期は安定しています。この環境下では、帝国標準からの乖離が、必ずしも源泉の不安定を意味するとは限りません」
わたしは瞬きをした。
「……標準から、外れていても?」
「その可能性があります。ただし、理由はまだ分かっていません」
アリサ少尉は、そこで言葉を止めた。
言えることだけを言ったのだと思った。
わたしは、雨の庭を思い出す。
右から吹いていた風。
ほんの少しだけ変わった、雨粒の道。
あのとき、わたしの源泉は、外の風に触れるように広がっていった。
あれは、何だったのだろう。
「ありがとうございます」
「今回の魔導行使は、通常の観測報告に記載します」
「はい」
「現時点で、担当制御官への緊急通報は必要ありません」
少尉は淡々と言った。
見逃されたのではない。
記録されなかったわけでもない。
けれど、いまのわたしを危険だとは断定しなかった。
わたしは廊下の窓から、雨の庭を見た。
かつてのわたしは、自分の源泉が温かくなることを怖いとは思っていなかった。
怖がるより先に、耳を澄ませていた。
◇
夜になっても、空は完全には暗くならなかった。
白夜の薄明が窓の向こうに残っている。
雨は上がっていた。屋根の端から、ときどき水滴が落ちる音が聞こえる。
わたしは自室の寝台で、毛布にくるまっていた。寝台は管理区ほど柔らかくなく、縁がすり切れた毛布は少しだけ羊の匂いがする。
教会の自室は、わたしが学院に進学する前と何も変わらなかった。床板は少し軋むし、窓枠には古い隙間がある。神父様が何度も直してくれたけど、結局一年もすればまた壊れてしまう。
枕元には、書庫から借りてきた二冊の本がある。
寝る前に、もう一度ヘルマンの第三章を開いた。
力は、所有するものではない。
関係の中で生まれるもの。
その意味は、まだよく分からない。
管理区の白い部屋で読んだときは、怖かった。
わたしの力なのに、わたしのものではないのなら。
わたしが動かしているのではないのなら。
わたしは、何をもって自分だと言えばいいのだろう。
けれど、今日の雨を思い出すと、少しだけ違って聞こえた。
雨は、わたしが降らせたものではない。
風も、わたしのものではない。
それでも、雨粒が落ちる道を少しだけ変えることはできた。
薪は、乾いた面から火を受け取る。
鐘の音は、谷を越えて遅れて返ってくる。
雨は屋根に触れて、初めてあの音になる。
わたしは毛布の中で、お腹に手を当てた。
小さな熱がある。
この源泉も、そうなのだろうか。
わたしだけの中に閉じ込めて、抑え込み、命令するものではなくて――
外の世界に触れたとき、初めて何かを生み出すもの。
制御官のことを思い出した。
冷たいくらいに真っ直ぐな立ち姿。振動の少ない波形。
帝国が求める標準に、いちばん近いところで立っているひと。
落ちる人を落とさないひと。
燃え広がるものを、その手前で止めるひと。
あの人は、止めることを教えてくださった。
わたしは毛布を引き上げた。
窓の外では、雨の名残が屋根から落ちている。
不揃いな音だった。
けれど、もう乱れているとは思わなかった。
胸の奥にある小さな熱も、まだ消えていない。
わたしはそっと、自分のお腹に手を重ねた。
今夜だけは、怖くなかった。




