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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
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三 わたしの中から消えないもの

 飲み終えたカップを置いて、わたしは椅子から立ち上がった。

「おばあちゃん、少しご本を見てきてもいい?」

「いいとも。皿は置いていきな」

「でも」

「あんたは帰ってきたばかりだろう。いいから行っておいで」

 おばあちゃんはそう言って、わたしの使った皿を重ねた。

 お礼を言い、膝掛けを丁寧に畳んでから台所を出る。


 廊下は、少し冷えていた。

 神父様とアリサ少尉は、まだ話しているらしい。書庫へ向かう角を曲がろうとして、足が止まった。

 声が聞こえたのだ。

「……申し訳ありません。軍として、お伝えしなければなりません」

 アリサ少尉だった。

 普段と変わらない、丁寧で、逃げない声。

「完全な監測停止は認められません」

 胸が、ひとつ鳴った。

「夜間の単独外出も?」

 神父様の声だ。

「現在の制御区分では、許可できません。源泉圧の急上昇や急性逸脱の兆候が認められた場合は、魔導行使を中止させ、安全を確保したうえで、担当制御官への緊急連絡を――」

「あの子は、囚人ではありません」


 息が止まった。


 神父様の声は穏やかだった。

 けれど、わたしが知っている柔らかな響きとは、少し違っていた。

「あなたは、あの子を監視するために来たのですか?」

「はい」

 アリサ少尉は、ためらわなかった。

「同時に、無事に学院へ戻すためでもあります」


 それ以上は、聞けなかった。

 わたしは音を立てないように廊下を離れた。


 教会の奥には、図書室と呼ばれている部屋がある。

 本当は図書室というほど立派なものではない。神父様の書庫だ。

 古い木の扉を開けると、蝶番の軋む音に混じって、乾いた紙と蝋燭と、少しだけ黴の匂いが流れ出てきた。

 わたしはその匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 天井まで届く壁一面の棚には、背表紙の擦り切れた本が隙間なく並んでいる。床にも本が積まれ、低い塔を作っていた。

 学院図書館とは違う。

 分類番号は揃っていない。閲覧記録も、魔力署名による貸出管理もない。神学書の隣に地方史があり、古い説教集の下に山岳地帯の気象記録がある。子供向けの魔導訓練書の上には、地脈干渉に関する論文集が横向きに置かれていた。


 乱れている。


 けれど、不思議と探しにくくはなかった。

 神父様が、必要なものを必要な場所に置いてきた部屋だった。


 わたしは棚の前に立ち、指先で背表紙をなぞった。


『北方地脈と生活結界』

『寒冷地における火種保存法』

『児童向け基礎魔導訓練 一』

『鐘楼と反響場』

『家庭用防寒結界の手引き』


 どれも、帝都なら古すぎると判断される本ばかりだった。改訂前。標準化前。用語も統一されていない。源泉という言葉の使い方さえ、ページによって少しずつ異なる。

 わたしは床に膝をつき、低い棚から一冊の本を引き出した。


『児童向け基礎魔導訓練 一』


 表紙の角が丸くなっている。

 開くと、見返しに幼い字で名前が書かれていた。


 マシュ。


 わたしの字だった。


 指先で、そっとなぞる。

 ちゃんと覚えている。

 この本で、火を小さくする練習をした。水差しの水面を震わせないように持つ練習をした。風を呼ぶのではなく、いま吹いている風の向きを聞く練習をした。


 神父様と一緒に。


 帝都では、それを訓練とは呼ばないかもしれない。

 出力も測らない。同期率も取らない。達成基準だってない。

 けれど、わたしは確かにここで魔導を学んだ。

 火も、水も、風も。

 怖いものではなかった。


 ――あの子は、囚人ではありません。


 神父様の声が戻ってきた。

 本を持つ手に力がこもる。


 囚人。


 息が詰まる。

 目尻が震えて、鼻の奥がつんとなる。足首にはめられた金属が急に重くなる。

 神父様はわたしを娘として見てくれる。

 アリサ少尉は責任として見てくれる。

 ヴァイマン少尉は正しく記録しようとしてくれている。

 そして――

 わたしは、足首に触れる。


 固い。

 冷たい。


 金物。


 この輪っかの向こうに、いるひと。


 いま、いちばん近くにいるひと。


 繋がって、しまったひと。


 わたしはぎゅっと唇に力を入れる。

 みんな、違うものを見ている。

 違う理由を持っている。

 けれど、誰か一人だけが間違っているわけではない。

 だから苦しい。

 お互いに衝突しないよう、みんなが少しずつ言葉を選んでいる。


 その選ばれた言葉の隙間に、わたしだけが落ちていくような気がした。


 壁に一つだけある明かり取りの窓に、雨が当たりはじめた。

 最初は一粒だけ。

 けれどすぐに、無数の礫が投げつけられたような音が鳴りだす。


 やめて。


 わたしは本を抱き締める。

 いま崩れてしまえば、我慢していたものが溢れだす。おばあちゃんが温めてくれたものまで、出ていってしまう。


 だから、やめて。


「マシュ」


 柔らかな声がした。


 振り返ると、神父様が扉のところに立っていた。

 いつもの、穏やかな顔だった。


 わたしが聞いてしまっていたことなど、少しも知らない顔だった。


「その本、覚えていたのですね」

 神父様の視線が、わたしの腕の中にある本へ落ちる。

「はい」

「何度も読み返していましたね。途中から難しくなるのに、悔しそうに、同じページを開いて」

 神父様が近づいてくる。昔から、足音のほとんどしない人だった。まるで床の上を滑るように歩く。

 わたしの前にかがむと、目の高さが昔と同じになった。

「あなたは昔から、理解しようとする子でした」

 わたしは本の表紙を見つめた。

「……そうでしょうか」

「ええ。風を作るより先に、風がどこから来るのかを知ろうとする子でした」

 神父様が微笑む。

 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 神父様は立ち上がると、書棚の三段目へ手を伸ばした。

 そこには、背表紙の色が褪せた古い本が並んでいる。

 一冊が抜き取られた。

 何度も開かれた跡のある革の表紙。擦り切れた背に、銀色の文字が薄く残っていた。

 神父様が差し出してくる。

 わたしは両手で受け取った。


『場と対称性――自然法則の沈黙について』

 エドヴァルド・ヘルマン。


 題名を見た瞬間、管理区の白い部屋が浮かんだ。

 開かない窓。身体に合わせて整えられた机と椅子。柔らかすぎる寝台。

 あの部屋で初めて過ごした夜、わたしはこの本の第三章を読んだ。


 力とは果たして何か。


 あのときは、その答えを知りたかった。

 赤い髪と緑の目のお人形。ずっと一緒にいたかったけど、制御官にお預けしたお人形。いつか返してもらえる日のために、わたしは知ろうとした。

 けれど――わたしは結局、力が何なのかも分からないまま、自分の力を使おうとしていた。


「……このご本は、わたしが学院へ持っていったものと同じですか」

「ええ。同じ著作ですよ。ただ、こちらは古い版です」

 神父様は少し目を伏せた。

「私が若い頃に読んでいたものですよ」


 ページを開く。

 紙は黄ばみ、ところどころに細い書き込みがあった。

 見覚えのある筆跡だった。


〈力を、所有するものとして教えてはならない〉


 わたしは指を止めた。

「これは……神父様の字ですね」

「ええ。昔の覚え書きです」

「力を、所有するものとして教えてはならない……」

 声に出して読むと、神父様は静かに頷いた。


「子どもに魔導を教えるとき、私が一番恐れていたことです」


 わたしは顔を上げた。

「恐れていた、のですか」

「ええ」

 神父様は窓の外に目をやった。

 雨は少し強くなっていた。山の斜面が白く煙り、古い硝子を水の筋が伝っている。

「この国では、源泉は個体に属し、意志によって励起され、目的に従って行使されると教えます」

「はい」

「それは、誤りではありません。多くの場所では、その方法で安全に魔導を扱うことができます」

 神父様の声は穏やかだった。

「けれど、テルベリアでは、それだけでは足りないのです」

「……どうしてでしょう」

「火は、命令だけでは燃えません。風は、従わせようとすると逃げます。雪山では、こちらの意志より先に、土地の機嫌を聞かなくてはならない」


 雨が窓を叩く。

 わたしは、神父様の言葉をゆっくり考えた。


 この土地では、六月になっても火を焚かねば暮らせない。山肌には古い雪が残り、風は朝と昼で向きを変える。

 凍河橋梁の下では、夏至の頃でも河面が氷に覆われている。

 帝国の結界でも、冬を終わらせられない場所がある。

 けれど、そこで暮らす人たちは、ちゃんと冬を越している。


「……魔力の強さだけでは、足りないのですね」

「そうです。どれほど強い力でも、何に触れ、何を変えるのかを知らなければ、望んだ結果にはなりません」

「それは、帝国の制御理論でも教わります」

「ええ」

 神父様は否定しなかった。

「だからこそ、あなたには、両方を知ってほしいのです」


 わたしは本を開き直した。

 第三章。

 昔、指で何度もなぞった文章があった。


 ――力とは、物体が所有する性質ではない。

 ――力とは、場が沈黙を破る際に生じる関係の名である。

 ――人は力を行使すると言う。

 ――だが、力が人を通過する、と言った方が正確な場合もある。


 もう一度、読む。


 力が、人を通過する。


 よく分からなかった。

 力がわたしのものではないというのなら、源泉は何なのだろう。

 自分の内側にあるあの熱は、誰のものなのだろう。

 けれど、凍河橋梁で氷の下の流れを感じたとき。

 テルベリア口駅で、鐘の音が山から返ってきたとき。

 あのときの感覚は、源泉を自分だけで動かそうとしたときとは違っていた。


 説明できない。

 でも、無関係だとも思えなかった。


「……神父様」

「はい」

「こちらの版も、お借りしてよろしいでしょうか」

「もちろんです」

 神父様は頷いてから、少しだけ表情を改めた。

「ただし、マシュ」

「はい」

「この本は、答えをくれる本ではありません」


 わたしは表紙に視線を落とした。

 読んでも読んでも、理解できなかった第三章。

 あの白い部屋で、自分の源泉をどうすればいいのか分からず、何度も開いたページ。


「……問いを増やす本、ですか」

「ええ」

 神父様は、少しだけ笑った。

「そして、問いを持っている人を、一人にしない本です」


 胸の奥で、小さなものがほどけた。

 神父様がわたしの肩に手を置く。

 その手は温かかった。

 書庫の窓には、まだ雨が降っていた。


 ◇


 書庫を出ると、廊下の窓から山肌が見えた。

 雪はまだ残っている。尾根は雨に煙り、ところどころ土の色を覗かせていた。

 そのさらに向こう、谷を一つ越えた高台には、帝国魔導軍の北方駐屯地があると聞いた。

 ここから、その建物は見えない。


 わたしは胸に抱えたヘルマンの本を、少し強く持ち直した。


〈力を、所有するものとして教えてはならない〉


 神父様の字が、まだ目に残っている。

 

 分かったわけではない。

 それでも、考えることはできる。


『標準とは、自由を縛る言葉ではない』


 低い声が蘇った。


『死体を減らすための線だ』


 あの人の、声だった。


 わたしは窓の外を見る。

 雨に煙る山の向こうは見えない。けれど、この土地のどこかに、軍の駐屯地がある。

 同期不安定区域。地脈干渉過多。標準結界網の末端。

 あの人なら、きっとそう呼ぶのだろう。


 あの人の言葉は重かった。

 現実を知っている人の言葉だった。


 わたしとは違う世界を、見てきた人だった。


 雨粒が硝子を伝い、細い線を引いていく。

 その向こうで、山の輪郭がゆっくりと滲んだ。


 わたしは、自分の足首へ目を落とした。

 透明な監測環は、まだそこにある。


 あの人の基準から離れるために、ここへ来た。

 

 それなのに、あの人の言葉が消えない。

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