三 わたしの中から消えないもの
飲み終えたカップを置いて、わたしは椅子から立ち上がった。
「おばあちゃん、少しご本を見てきてもいい?」
「いいとも。皿は置いていきな」
「でも」
「あんたは帰ってきたばかりだろう。いいから行っておいで」
おばあちゃんはそう言って、わたしの使った皿を重ねた。
お礼を言い、膝掛けを丁寧に畳んでから台所を出る。
廊下は、少し冷えていた。
神父様とアリサ少尉は、まだ話しているらしい。書庫へ向かう角を曲がろうとして、足が止まった。
声が聞こえたのだ。
「……申し訳ありません。軍として、お伝えしなければなりません」
アリサ少尉だった。
普段と変わらない、丁寧で、逃げない声。
「完全な監測停止は認められません」
胸が、ひとつ鳴った。
「夜間の単独外出も?」
神父様の声だ。
「現在の制御区分では、許可できません。源泉圧の急上昇や急性逸脱の兆候が認められた場合は、魔導行使を中止させ、安全を確保したうえで、担当制御官への緊急連絡を――」
「あの子は、囚人ではありません」
息が止まった。
神父様の声は穏やかだった。
けれど、わたしが知っている柔らかな響きとは、少し違っていた。
「あなたは、あの子を監視するために来たのですか?」
「はい」
アリサ少尉は、ためらわなかった。
「同時に、無事に学院へ戻すためでもあります」
それ以上は、聞けなかった。
わたしは音を立てないように廊下を離れた。
教会の奥には、図書室と呼ばれている部屋がある。
本当は図書室というほど立派なものではない。神父様の書庫だ。
古い木の扉を開けると、蝶番の軋む音に混じって、乾いた紙と蝋燭と、少しだけ黴の匂いが流れ出てきた。
わたしはその匂いを胸いっぱいに吸い込む。
天井まで届く壁一面の棚には、背表紙の擦り切れた本が隙間なく並んでいる。床にも本が積まれ、低い塔を作っていた。
学院図書館とは違う。
分類番号は揃っていない。閲覧記録も、魔力署名による貸出管理もない。神学書の隣に地方史があり、古い説教集の下に山岳地帯の気象記録がある。子供向けの魔導訓練書の上には、地脈干渉に関する論文集が横向きに置かれていた。
乱れている。
けれど、不思議と探しにくくはなかった。
神父様が、必要なものを必要な場所に置いてきた部屋だった。
わたしは棚の前に立ち、指先で背表紙をなぞった。
『北方地脈と生活結界』
『寒冷地における火種保存法』
『児童向け基礎魔導訓練 一』
『鐘楼と反響場』
『家庭用防寒結界の手引き』
どれも、帝都なら古すぎると判断される本ばかりだった。改訂前。標準化前。用語も統一されていない。源泉という言葉の使い方さえ、ページによって少しずつ異なる。
わたしは床に膝をつき、低い棚から一冊の本を引き出した。
『児童向け基礎魔導訓練 一』
表紙の角が丸くなっている。
開くと、見返しに幼い字で名前が書かれていた。
マシュ。
わたしの字だった。
指先で、そっとなぞる。
ちゃんと覚えている。
この本で、火を小さくする練習をした。水差しの水面を震わせないように持つ練習をした。風を呼ぶのではなく、いま吹いている風の向きを聞く練習をした。
神父様と一緒に。
帝都では、それを訓練とは呼ばないかもしれない。
出力も測らない。同期率も取らない。達成基準だってない。
けれど、わたしは確かにここで魔導を学んだ。
火も、水も、風も。
怖いものではなかった。
――あの子は、囚人ではありません。
神父様の声が戻ってきた。
本を持つ手に力がこもる。
囚人。
息が詰まる。
目尻が震えて、鼻の奥がつんとなる。足首にはめられた金属が急に重くなる。
神父様はわたしを娘として見てくれる。
アリサ少尉は責任として見てくれる。
ヴァイマン少尉は正しく記録しようとしてくれている。
そして――
わたしは、足首に触れる。
固い。
冷たい。
金物。
この輪っかの向こうに、いるひと。
いま、いちばん近くにいるひと。
繋がって、しまったひと。
わたしはぎゅっと唇に力を入れる。
みんな、違うものを見ている。
違う理由を持っている。
けれど、誰か一人だけが間違っているわけではない。
だから苦しい。
お互いに衝突しないよう、みんなが少しずつ言葉を選んでいる。
その選ばれた言葉の隙間に、わたしだけが落ちていくような気がした。
壁に一つだけある明かり取りの窓に、雨が当たりはじめた。
最初は一粒だけ。
けれどすぐに、無数の礫が投げつけられたような音が鳴りだす。
やめて。
わたしは本を抱き締める。
いま崩れてしまえば、我慢していたものが溢れだす。おばあちゃんが温めてくれたものまで、出ていってしまう。
だから、やめて。
「マシュ」
柔らかな声がした。
振り返ると、神父様が扉のところに立っていた。
いつもの、穏やかな顔だった。
わたしが聞いてしまっていたことなど、少しも知らない顔だった。
「その本、覚えていたのですね」
神父様の視線が、わたしの腕の中にある本へ落ちる。
「はい」
「何度も読み返していましたね。途中から難しくなるのに、悔しそうに、同じページを開いて」
神父様が近づいてくる。昔から、足音のほとんどしない人だった。まるで床の上を滑るように歩く。
わたしの前にかがむと、目の高さが昔と同じになった。
「あなたは昔から、理解しようとする子でした」
わたしは本の表紙を見つめた。
「……そうでしょうか」
「ええ。風を作るより先に、風がどこから来るのかを知ろうとする子でした」
神父様が微笑む。
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
神父様は立ち上がると、書棚の三段目へ手を伸ばした。
そこには、背表紙の色が褪せた古い本が並んでいる。
一冊が抜き取られた。
何度も開かれた跡のある革の表紙。擦り切れた背に、銀色の文字が薄く残っていた。
神父様が差し出してくる。
わたしは両手で受け取った。
『場と対称性――自然法則の沈黙について』
エドヴァルド・ヘルマン。
題名を見た瞬間、管理区の白い部屋が浮かんだ。
開かない窓。身体に合わせて整えられた机と椅子。柔らかすぎる寝台。
あの部屋で初めて過ごした夜、わたしはこの本の第三章を読んだ。
力とは果たして何か。
あのときは、その答えを知りたかった。
赤い髪と緑の目のお人形。ずっと一緒にいたかったけど、制御官にお預けしたお人形。いつか返してもらえる日のために、わたしは知ろうとした。
けれど――わたしは結局、力が何なのかも分からないまま、自分の力を使おうとしていた。
「……このご本は、わたしが学院へ持っていったものと同じですか」
「ええ。同じ著作ですよ。ただ、こちらは古い版です」
神父様は少し目を伏せた。
「私が若い頃に読んでいたものですよ」
ページを開く。
紙は黄ばみ、ところどころに細い書き込みがあった。
見覚えのある筆跡だった。
〈力を、所有するものとして教えてはならない〉
わたしは指を止めた。
「これは……神父様の字ですね」
「ええ。昔の覚え書きです」
「力を、所有するものとして教えてはならない……」
声に出して読むと、神父様は静かに頷いた。
「子どもに魔導を教えるとき、私が一番恐れていたことです」
わたしは顔を上げた。
「恐れていた、のですか」
「ええ」
神父様は窓の外に目をやった。
雨は少し強くなっていた。山の斜面が白く煙り、古い硝子を水の筋が伝っている。
「この国では、源泉は個体に属し、意志によって励起され、目的に従って行使されると教えます」
「はい」
「それは、誤りではありません。多くの場所では、その方法で安全に魔導を扱うことができます」
神父様の声は穏やかだった。
「けれど、テルベリアでは、それだけでは足りないのです」
「……どうしてでしょう」
「火は、命令だけでは燃えません。風は、従わせようとすると逃げます。雪山では、こちらの意志より先に、土地の機嫌を聞かなくてはならない」
雨が窓を叩く。
わたしは、神父様の言葉をゆっくり考えた。
この土地では、六月になっても火を焚かねば暮らせない。山肌には古い雪が残り、風は朝と昼で向きを変える。
凍河橋梁の下では、夏至の頃でも河面が氷に覆われている。
帝国の結界でも、冬を終わらせられない場所がある。
けれど、そこで暮らす人たちは、ちゃんと冬を越している。
「……魔力の強さだけでは、足りないのですね」
「そうです。どれほど強い力でも、何に触れ、何を変えるのかを知らなければ、望んだ結果にはなりません」
「それは、帝国の制御理論でも教わります」
「ええ」
神父様は否定しなかった。
「だからこそ、あなたには、両方を知ってほしいのです」
わたしは本を開き直した。
第三章。
昔、指で何度もなぞった文章があった。
――力とは、物体が所有する性質ではない。
――力とは、場が沈黙を破る際に生じる関係の名である。
――人は力を行使すると言う。
――だが、力が人を通過する、と言った方が正確な場合もある。
もう一度、読む。
力が、人を通過する。
よく分からなかった。
力がわたしのものではないというのなら、源泉は何なのだろう。
自分の内側にあるあの熱は、誰のものなのだろう。
けれど、凍河橋梁で氷の下の流れを感じたとき。
テルベリア口駅で、鐘の音が山から返ってきたとき。
あのときの感覚は、源泉を自分だけで動かそうとしたときとは違っていた。
説明できない。
でも、無関係だとも思えなかった。
「……神父様」
「はい」
「こちらの版も、お借りしてよろしいでしょうか」
「もちろんです」
神父様は頷いてから、少しだけ表情を改めた。
「ただし、マシュ」
「はい」
「この本は、答えをくれる本ではありません」
わたしは表紙に視線を落とした。
読んでも読んでも、理解できなかった第三章。
あの白い部屋で、自分の源泉をどうすればいいのか分からず、何度も開いたページ。
「……問いを増やす本、ですか」
「ええ」
神父様は、少しだけ笑った。
「そして、問いを持っている人を、一人にしない本です」
胸の奥で、小さなものがほどけた。
神父様がわたしの肩に手を置く。
その手は温かかった。
書庫の窓には、まだ雨が降っていた。
◇
書庫を出ると、廊下の窓から山肌が見えた。
雪はまだ残っている。尾根は雨に煙り、ところどころ土の色を覗かせていた。
そのさらに向こう、谷を一つ越えた高台には、帝国魔導軍の北方駐屯地があると聞いた。
ここから、その建物は見えない。
わたしは胸に抱えたヘルマンの本を、少し強く持ち直した。
〈力を、所有するものとして教えてはならない〉
神父様の字が、まだ目に残っている。
分かったわけではない。
それでも、考えることはできる。
『標準とは、自由を縛る言葉ではない』
低い声が蘇った。
『死体を減らすための線だ』
あの人の、声だった。
わたしは窓の外を見る。
雨に煙る山の向こうは見えない。けれど、この土地のどこかに、軍の駐屯地がある。
同期不安定区域。地脈干渉過多。標準結界網の末端。
あの人なら、きっとそう呼ぶのだろう。
あの人の言葉は重かった。
現実を知っている人の言葉だった。
わたしとは違う世界を、見てきた人だった。
雨粒が硝子を伝い、細い線を引いていく。
その向こうで、山の輪郭がゆっくりと滲んだ。
わたしは、自分の足首へ目を落とした。
透明な監測環は、まだそこにある。
あの人の基準から離れるために、ここへ来た。
それなのに、あの人の言葉が消えない。




