↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
PR
39/44

二 ここでは、わたしは記録ではない。

 神父様が出してくれた軽食は、黒パンと干し肉、それから豆の入った温かいスープだった。

 皿は少し欠けていた。お匙も昔のままだ。かつて銀色だった表面は、何度も洗われて鈍い色になり、指の当たるところだけが滑らかに光っている。

 スープを一匙飲む。

 柔らかく煮崩れた豆が舌の上でほどけた。お腹の底から温まっていく。指先のこわばりが解け、背中に入っていた力が少しずつ抜けていった。

 わたしは両手でコップを包み込む。

 温められたミルクには薄い膜が張っていた。そのまま口をつける。少しだけ獣の匂いがして、舌に重く沈む。帝都の管理区で出される、栄養調整済みの飲料とは違った。

 喉を通っていく温かさに、胸の奥が緩む。

 懐かしい味だった。

 そう思った途端、帰ってきたことが急に現実になって、わたしはもう一口ミルクを飲んだ。


 ストーブの中で薪が小さく崩れた。

 廊下の方へ目をやる。

 少し開いた扉の向こうに、神父様の横顔が見えた。アリサ少尉と何か話している。声までは聞き取れない。

 神父様の口元には穏やかな微笑があった。けれど、その肩は少し強張っているように見えた。

 わたしはコップを持つ指に力を込めた。


 神父様は、もうご存知なのだ。


 墜落事故のこと。管理区へ移されたこと。そして、今回の帰省が休暇ではなく、低同期圧環境下での補助観察であること。

 きっと、わたしが帰ってくる前から知らされていた。

 それでも神父様は、わたしを抱きしめて笑ってくださった。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 机の下で、そっと足を引く。

 靴下の縁から、監測環の透明な輪がわずかに覗いていた。

 帝都では慣れたつもりだった。管理区の白い床にも、演習場の光にも、同期室の端末音にも。

 そこでは、この金属は初めからわたしの一部であるかのように扱われていた。

 けれど、この台所では違う。

 薪の匂い。欠けた皿。濡れた布巾。窓辺に吊るされた乾燥ハーブ。神父様が修繕してくださった椅子の脚。

 どれも古く、少しずつ傷んでいて、誰かが使い続けてきたものだった。


 その中で、足首の金属だけが、ひどく冷たく感じられた。

 

 わたしはナプキンを握りしめる。

 見られたくない。

 神父様がこれを見るところを、見たくなかった。

 隠したところで何も変わらない。神父様は知っているし、アリサ少尉は記録している。帝国は、わたしが今どこにいるのかも知っている。

 そんなことは、分かっている。

 それでも、ここでは――

 廊下の話し声が一度途切れた。

 わたしは慌ててコップに口をつける。熱いミルクが舌に触れ、思わず目を閉じた。


 そのとき、勝手口の木戸が開いた。

「神父様、風が変わったよ。午後から降るかもしれないね」

 しわがれた声だった。

 顔を上げる。

 厚手のスカーフを頭に巻き、乾いた布を両腕に抱えた小柄なおばあちゃんが立っていた。赤い頬。節くれ立った指。少し前屈みになった背中。

 その指が洗濯物を畳むところを、わたしは何度も見てきた。

 心臓が大きく跳ねた。


「アグラーヤおばあちゃん!」


 椅子から立ち上がる。

 おばあちゃんがこちらを振り向いた。皺に埋もれた目が大きくなり、次の瞬間、くしゃりと細くなる。

「おやおや」

 驚いているのに、ちっとも遠慮のない声だった。

「マシュじゃないか」

 おばあちゃんが少し早足で近づいてくる。

「はい。帰ってきました。祝祭期間中、お世話になります」

 頭を下げると、すぐに呆れたような声が返ってきた。

「なんだい、その言い方は。あんたの家だろう」

 抱えていた布を椅子の背に置く。

 わたしは反射的に手を伸ばした。けれど、洗濯物に触れるより先に肩を押され、椅子へ座り直させられる。

「いいから座ってな。帰ってきたばかりの子が、そうすぐ働くんじゃないよ」

「でも、お手伝いを」

「手伝いは後。まず食べる。ここでは食べないと骨から冷えるよ」

 あまりにも昔のままの言い方だったので、胸が詰まった。

 おばあちゃんはわたしの顔を覗き込む。

 頬を見て、手首を見て、それから足元へ視線を落とした。


 一瞬だけ、その目が止まった。


 わたしは反射的に足を引く。

 けれど、おばあちゃんは何も聞かなかった。

 眉をひそめることもなく、台所の隅へ歩いていく。古い膝掛けを取り出すと、戻ってきて、わたしの膝にふわりと掛けた。

「足、冷やすんじゃないよ」

 布の端を足首まで下ろす。節くれ立った指が、膝掛けの皺を丁寧に伸ばした。

「金物は冷えるからね」


 金物。


 おばあちゃんは、それをそう呼んだ。

 冷えるもの。

 だから、温める。


「……ありがとう」

 声が掠れた。

 おばあちゃんは気づいたのか、気づかなかったのか、ふんと鼻を鳴らした。

「礼なんかいいよ。それよりあんた、ちゃんと食べてたのかい。都会の食べ物は綺麗すぎていけない。腹に力が入らないだろう」

「……学院の食事は、栄養管理がされているの」

 本当はほとんど管理区で用意される食事だ。けれど、そこまでは言えなかった。

「そういうものほど信用ならないね」

 あまりにきっぱりと言い切るので、思わず瞬きをした。

 おばあちゃんは構わず鍋の蓋を開け、わたしの皿にスープを足してくれた。

「神父様も神父様だよ。あの人は心配するとすぐ食べる量が減るんだ。あんたが帰ってくるって聞いてから、ずっと落ち着かなくてね」

「神父様が?」

「昨日なんか、同じ皿を三回も拭いてたよ」

 思わず、廊下の方を見た。

「三回も?」

「そうさ。一度拭けば綺麗になるのに。あの人が平気な顔をしているときは、だいたい平気じゃないんだ」

 おばあちゃんは鍋の中身をかき混ぜながら、何でもないことのように言った。


 扉の向こうでは、まだ話し声が続いている。

 神父様の肩が、さっきより少し低くなったように見えた。

 昨日、あの皿を三回も拭いていらしたのだろうか。

 わたしが今使っている、この欠けた皿を。

 考えた途端、胸の奥に小さな痛みが戻ってきた。


「マシュ」

 おばあちゃんの声に、顔を上げる。

「はい」

「あんた、帰ってきたんだよ」


 帰ってきた。


 その言葉はあまりに真っ直ぐに、わたしの胸に届いた。


「ここでは、まず帰ってきた子だ。ほかのことは、その後でいい」


 わたしは返事ができなかった。

 カップの中のミルクはまだ温かい。膝の上の布は少し重く、その下で監測環は変わらず足首を取り巻いている。

 けれど、布越しに少しずつ温もりが伝わってきた。

「……はい」

 ようやく答えると、おばあちゃんは満足したように頷いた。

「よろしい。なら飲みな。冷める前に」

 わたしは言われたとおり、ミルクを飲んだ。

 少し獣臭くて、甘い。

 次はもう一匙、スープを口に運ぶ。

 昔は、もっと熱いと思っていた。

 カップも、こんなに小さかっただろうか。

 おばあちゃんの手も、あんなに皺が深かっただろうか。

 それでも舌の上に残るミルクの重さも、喉を落ちていく温かさも、少しも変わっていなかった。


 廊下の向こうでは、低い声がまだ続いている。

 アリサ少尉は、きっと必要なことだけを説明しているのだろう。

 わたしの足首には監測環がある。

 それは膝掛けを掛けたくらいで消えるものではない。

 けれど、おばあちゃんは鍋の前で当たり前のようにスープをかき混ぜていて、神父様は昨日、同じ皿を三度も拭いていた。


 ここでは、わたしは記録ではない。


 そう思ってしまった瞬間、目の奥が熱くなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。