二 ここでは、わたしは記録ではない。
神父様が出してくれた軽食は、黒パンと干し肉、それから豆の入った温かいスープだった。
皿は少し欠けていた。お匙も昔のままだ。かつて銀色だった表面は、何度も洗われて鈍い色になり、指の当たるところだけが滑らかに光っている。
スープを一匙飲む。
柔らかく煮崩れた豆が舌の上でほどけた。お腹の底から温まっていく。指先のこわばりが解け、背中に入っていた力が少しずつ抜けていった。
わたしは両手でコップを包み込む。
温められたミルクには薄い膜が張っていた。そのまま口をつける。少しだけ獣の匂いがして、舌に重く沈む。帝都の管理区で出される、栄養調整済みの飲料とは違った。
喉を通っていく温かさに、胸の奥が緩む。
懐かしい味だった。
そう思った途端、帰ってきたことが急に現実になって、わたしはもう一口ミルクを飲んだ。
ストーブの中で薪が小さく崩れた。
廊下の方へ目をやる。
少し開いた扉の向こうに、神父様の横顔が見えた。アリサ少尉と何か話している。声までは聞き取れない。
神父様の口元には穏やかな微笑があった。けれど、その肩は少し強張っているように見えた。
わたしはコップを持つ指に力を込めた。
神父様は、もうご存知なのだ。
墜落事故のこと。管理区へ移されたこと。そして、今回の帰省が休暇ではなく、低同期圧環境下での補助観察であること。
きっと、わたしが帰ってくる前から知らされていた。
それでも神父様は、わたしを抱きしめて笑ってくださった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
机の下で、そっと足を引く。
靴下の縁から、監測環の透明な輪がわずかに覗いていた。
帝都では慣れたつもりだった。管理区の白い床にも、演習場の光にも、同期室の端末音にも。
そこでは、この金属は初めからわたしの一部であるかのように扱われていた。
けれど、この台所では違う。
薪の匂い。欠けた皿。濡れた布巾。窓辺に吊るされた乾燥ハーブ。神父様が修繕してくださった椅子の脚。
どれも古く、少しずつ傷んでいて、誰かが使い続けてきたものだった。
その中で、足首の金属だけが、ひどく冷たく感じられた。
わたしはナプキンを握りしめる。
見られたくない。
神父様がこれを見るところを、見たくなかった。
隠したところで何も変わらない。神父様は知っているし、アリサ少尉は記録している。帝国は、わたしが今どこにいるのかも知っている。
そんなことは、分かっている。
それでも、ここでは――
廊下の話し声が一度途切れた。
わたしは慌ててコップに口をつける。熱いミルクが舌に触れ、思わず目を閉じた。
そのとき、勝手口の木戸が開いた。
「神父様、風が変わったよ。午後から降るかもしれないね」
しわがれた声だった。
顔を上げる。
厚手のスカーフを頭に巻き、乾いた布を両腕に抱えた小柄なおばあちゃんが立っていた。赤い頬。節くれ立った指。少し前屈みになった背中。
その指が洗濯物を畳むところを、わたしは何度も見てきた。
心臓が大きく跳ねた。
「アグラーヤおばあちゃん!」
椅子から立ち上がる。
おばあちゃんがこちらを振り向いた。皺に埋もれた目が大きくなり、次の瞬間、くしゃりと細くなる。
「おやおや」
驚いているのに、ちっとも遠慮のない声だった。
「マシュじゃないか」
おばあちゃんが少し早足で近づいてくる。
「はい。帰ってきました。祝祭期間中、お世話になります」
頭を下げると、すぐに呆れたような声が返ってきた。
「なんだい、その言い方は。あんたの家だろう」
抱えていた布を椅子の背に置く。
わたしは反射的に手を伸ばした。けれど、洗濯物に触れるより先に肩を押され、椅子へ座り直させられる。
「いいから座ってな。帰ってきたばかりの子が、そうすぐ働くんじゃないよ」
「でも、お手伝いを」
「手伝いは後。まず食べる。ここでは食べないと骨から冷えるよ」
あまりにも昔のままの言い方だったので、胸が詰まった。
おばあちゃんはわたしの顔を覗き込む。
頬を見て、手首を見て、それから足元へ視線を落とした。
一瞬だけ、その目が止まった。
わたしは反射的に足を引く。
けれど、おばあちゃんは何も聞かなかった。
眉をひそめることもなく、台所の隅へ歩いていく。古い膝掛けを取り出すと、戻ってきて、わたしの膝にふわりと掛けた。
「足、冷やすんじゃないよ」
布の端を足首まで下ろす。節くれ立った指が、膝掛けの皺を丁寧に伸ばした。
「金物は冷えるからね」
金物。
おばあちゃんは、それをそう呼んだ。
冷えるもの。
だから、温める。
「……ありがとう」
声が掠れた。
おばあちゃんは気づいたのか、気づかなかったのか、ふんと鼻を鳴らした。
「礼なんかいいよ。それよりあんた、ちゃんと食べてたのかい。都会の食べ物は綺麗すぎていけない。腹に力が入らないだろう」
「……学院の食事は、栄養管理がされているの」
本当はほとんど管理区で用意される食事だ。けれど、そこまでは言えなかった。
「そういうものほど信用ならないね」
あまりにきっぱりと言い切るので、思わず瞬きをした。
おばあちゃんは構わず鍋の蓋を開け、わたしの皿にスープを足してくれた。
「神父様も神父様だよ。あの人は心配するとすぐ食べる量が減るんだ。あんたが帰ってくるって聞いてから、ずっと落ち着かなくてね」
「神父様が?」
「昨日なんか、同じ皿を三回も拭いてたよ」
思わず、廊下の方を見た。
「三回も?」
「そうさ。一度拭けば綺麗になるのに。あの人が平気な顔をしているときは、だいたい平気じゃないんだ」
おばあちゃんは鍋の中身をかき混ぜながら、何でもないことのように言った。
扉の向こうでは、まだ話し声が続いている。
神父様の肩が、さっきより少し低くなったように見えた。
昨日、あの皿を三回も拭いていらしたのだろうか。
わたしが今使っている、この欠けた皿を。
考えた途端、胸の奥に小さな痛みが戻ってきた。
「マシュ」
おばあちゃんの声に、顔を上げる。
「はい」
「あんた、帰ってきたんだよ」
帰ってきた。
その言葉はあまりに真っ直ぐに、わたしの胸に届いた。
「ここでは、まず帰ってきた子だ。ほかのことは、その後でいい」
わたしは返事ができなかった。
カップの中のミルクはまだ温かい。膝の上の布は少し重く、その下で監測環は変わらず足首を取り巻いている。
けれど、布越しに少しずつ温もりが伝わってきた。
「……はい」
ようやく答えると、おばあちゃんは満足したように頷いた。
「よろしい。なら飲みな。冷める前に」
わたしは言われたとおり、ミルクを飲んだ。
少し獣臭くて、甘い。
次はもう一匙、スープを口に運ぶ。
昔は、もっと熱いと思っていた。
カップも、こんなに小さかっただろうか。
おばあちゃんの手も、あんなに皺が深かっただろうか。
それでも舌の上に残るミルクの重さも、喉を落ちていく温かさも、少しも変わっていなかった。
廊下の向こうでは、低い声がまだ続いている。
アリサ少尉は、きっと必要なことだけを説明しているのだろう。
わたしの足首には監測環がある。
それは膝掛けを掛けたくらいで消えるものではない。
けれど、おばあちゃんは鍋の前で当たり前のようにスープをかき混ぜていて、神父様は昨日、同じ皿を三度も拭いていた。
ここでは、わたしは記録ではない。
そう思ってしまった瞬間、目の奥が熱くなった。




