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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
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一 二分遅れの世界

 夜明けは、音より先に来た。

 頼りない光が、窓の向こうの空に滲んでいる。


 白夜号が速度を落とす。

 車輪の響きが変わった。規則正しく刻まれていた鋼鉄の拍が、わずかに鈍く、重くなる。

 かたん、かたん。

 かたん。

 ほんの少しだけ、間が空く。

 わたしは寝台の上で目を開けた。夜間防寒結界に守られた車内は暖かい。魔導灯が淡く灯り、車両間同期導線が壁の内側で低く脈打っている。

 その灯りが、一度、短く瞬いた。

 顔を上げる。

 窓の外に、巨大な河が横たわっていた。

 対岸も見えないほど広い水面が、白夜の薄明の中で銀色に輝いている。

 凍っていた。

 吐いた息で、硝子が白く曇った。


 列車が橋梁に入る。


 凍河橋梁。北方幹線でもっとも古い橋のひとつだ。

 この下を流れる河は、夏至を迎えても凍っている。

 河床を横切る地脈の干渉が、氷の融ける時期を遅らせるのだと、昔教わった。帝国の気候安定結界でも、ここだけは冬を終わらせることができない。

 車内案内には、標準結界網の補強対象とあった。橋梁区間通過時の低出力保護膜が自動作動する。 同期精度は、平時比七十二パーセント。

 無意識に身体を丸める。

 けれど列車は止まらない。

 鉄橋に出ると、車輪の音が剥き出しになった。慣性減衰陣は揺れを殺しきれず、寝台の金具が鳴る。同期導線が壁の奥で細く震えた。


 かたん、かたん。


 その下で、硝子を擦るような音がした。

 氷が軋んでいる。

 わたしの胸の奥が跳ねた。

 源泉だった。小さな火花が身体の内側で弾ける。痛みはない。恐怖もない。胸から指先へと熱が巡り、皮膚の下で何かが目を覚ましていく。

 寝台の下。車輪と鉄橋の、さらに下。

 河は氷の底に完全に封じ込まれたわけではない。

 青白い闇の下で、眠っているように見えても、その流れは力を失っていない。

 波打つ確かな脈動を、わたしの源泉が拾い始める。

 車輪が鉄橋を叩くたび、下の氷が遅れて応える。

 かたん。

 めき。

 かたん。

 めき。

 何にも均されていない、けれど、乱れてもいない拍。


 身体の奥が細く引き伸ばされ、遠い何かに触れるような感覚が生まれた。

 懐かしい、とは違う。


 記憶より古い場所から、返事があったようだった。


 向かいの寝台のカーテンが開いた。アリサ少尉が端末を見ている。

「源泉圧、微上昇。身体異常は」

「ありません」

 少尉はわたしの顔色と瞳を確かめ、端末に視線を戻した。

「記録します」

 それだけだった。

 わたしの源泉に意味を与えない。その沈黙がありがたかった。


 氷の亀裂が、夜明けの薄い光を受けて白く浮かぶ。遠くの山影はまだ黒く、空だけが少しずつ青灰色に変わっていく。

 壁の帝国標準時計は、午前五時四十六分。

 凍っていても、流れている。

 そう思ったとき、胸の奥がもう一度、静かに震えた。


 ◇


 セヴェルスキナ中央駅には薄く霜がおりていた。

 白夜号の扉が開く。冷気と一緒に、煤と鉄と濡れた外套の匂いが押し寄せる。石炭、機械油、獣脂、革靴に踏まれた雪解けの泥。帝都の駅に満ちていた魔導清掃の澄んだ匂いは、ここにはない。

 北方地区最大の都市、セヴェルスキナ。鉱山帯の玄関口であり、軍需輸送の拠点、帝国北部結界網の中継都市。


 学院へ進学した日も、ここから列車に乗った。

 あのときは、ここが世界の端だと思っていた。

 けれど今は、帝都のほうが遠い。


 わたしは鞄を握り直した。外套が重い。頬を切るような冷気は、馴染みのある痛みだった。

 駅構内を士官たちが行き交う。軍靴の縁には雪と泥がこびりつき、肩章だけが朝の光を鈍く返した。喫煙所では工具箱を抱えた技士が煙草を吸い、鉱夫たちは荒れた手で麻袋を運んでいる。修道女たちが凍えた指に息を吹きかけながら、互いの荷物を確かめていた。

 同じ列車に乗り合わせた人々が、それぞれの行く先へほどけていく。

 軍へ。鉱山へ。修道院へ。さらに北の村々へ。

 先へ進む理由を、寒さに耐える身体に押し込んで。


「セヴェルスキナ中央駅、到着確認。対象個体、歩行可能。源泉圧、微高位安定」

 アリサ少尉の声はいつもと変わらなかった。

 微高位安定。

 帝都なら、その言葉に身構えていただろう。けれど今は高いのに苦しくない。源泉は氷の下の河をまだ聞いているようで、胸の奥は温かく、呼吸も深かった。

 汽笛が鳴る。魔導炉の低い唸りに、物理機関の荒い振動が混じった。


 駅舎の壁に時計が二つ並んでいる。

 一つは帝国標準時計。白い盤面の秒針が正確に進み、同期塔受信中の印が灯っていた。

 もう一つは、黒ずんだ木枠の北方時計だ。擦り切れた数字の下で、針は地方時を示している。

 その針は、地方補正時刻からさらに二分遅れていた。

 アリサ少尉が気づいたらしい。目尻がわずかに動く。それでも何も言わなかった。

 誰も時計を直さない。士官も技士も修道女も、二つの時計の下を通り過ぎていく。荷は運ばれ、人は乗り換え、列車は発つ。


 二分遅れた時計の下で、朝は滞りなく進んでいた。

 わたしの中で、何かがひとつ緩んだ。


「次は、こっちです」

 笑ってアリサ少尉を促す。少尉は頷き、わたしの少し後ろを歩いた。

 駅を出た街は煤色だった。

 石造りの建物は厚い壁と小さな窓を持ち、屋根は雪を落とすために鋭く傾いている。美しく揃えるためではなく、冬を越すための形だった。馬車と軍用輸送車が同じ通りを走り、車輪の跡には黒い雪解けの泥が溜まっていた。

 店先には硬い黒パン、塩漬け魚、干し肉、酸っぱい野菜の瓶詰め。鉱夫らしい男が粥を啜り、分厚い手が湯気に濡れている。


 石畳を踏む足音は揃わなかった。アリサ少尉とわたしの歩幅も違う。


 ふと、制御官がここを歩いたらどうなるのだろう、と思った。

 不揃いな足音に眉をひそめるだろうか。それとも、案外、何も言わないのだろうか。

 自分で思いついて、首を横に振った。


 頬を刺す風に、少し笑ってしまう。

 街の喧騒が遠ざかると、板壁の小さな建物が見えてきた。


 ベロゼル停車場。


 駅ではなく、停車場。その呼び名が似合っていた。灰色に褪せた板壁と手書きの看板、低いホーム。待合室の薪ストーブから、乾いた木の匂いが漂っていた。

 セヴェルスキナ中央駅から少し歩いただけなのに、世界の規模が急に小さくなった。

「ここには認証ゲートがないんです」

 わたしは少尉に説明しながら窓口へ向かった。

 擦り切れたカーディガンを着た老人が、膝掛けの奥から顔を上げる。テルベリア口まで、と告げると、返事の代わりに二枚の切符を差し出してきた。

 アリサ少尉が硬貨を渡す。

 壁には、ここにも二つの時計があった。北方時計はさらに遅れ、帝国標準時計の同期受信灯さえ弱々しく点滅している。

 老人は時計を見なかった。ただ鉛色の切符鋏を鳴らした。


 かちん。


 それで、わたしたちは列車に乗れた。


 ◇


 鈍行列車は二両しかなかった。剥げた塗装、木の窓枠、擦り切れた座席。魔導炉は低出力で、慣性減衰陣も最低限だ。

 大きな籠を抱えた老婆。眠そうな少年。鶏の入った木箱を足元に置いた男。郵便袋を背負った駅員。

 列車が動き出した途端、身体が大きく跳ねた。

 アリサ少尉が窓枠に手をつく。

「問題は」

「ありません」

 本当に、なかった。

 窓の隙間から冷気が入り、座席は硬く、車輪は継ぎ目のたびに違う音を立てた。坂では重く、橋では軽く、森では湿った響きを帯びる。


 がたん、ごとん。

 がたん、ごとん。


 呼吸が、その拍に重なっていく。

 四拍ではない。保持二拍でも、放出四拍でもない。

 けれど、身体は拒まなかった。


 窓の外を、低い家々が過ぎる。薪を積んだ軒先、干された布、小さな畑、柵の向こうの馬。雪解け水は道端の溝を流れ、朝の光を受けて白く光っていた。

 手袋の中で指を動かす。

 停車するたび、ホームは低く、駅名標は古くなった。帝国語の下に地方語が増えていく。魔導灯がちらついても、誰も驚かない。老婆は編み物を続け、籠の鶏が時おり鳴いた。

 やがて、見覚えのある木の駅舎が見えてきた。

「次です」

 わたしの声が少し高くなる。


 テルベリア口駅。


 扉が開いた途端、雪解け水の澄んだ匂いがした。濡れた石、冷たい草、遠い森。山から降りてくる風は鋭いのに、胸を刺さなかった。

 遠く、山裾のどこかで鐘が一つ鳴った。

 遅れて、山が応える。

 わたしはホームに立ったまま、耳を澄ませた。鐘の音が谷に落ち、石に触れ、森に吸われ、水に返って、遠回りをして戻ってくる。


 帝都の同期塔の音ではない。命令でも、時刻を支配するための音でもない。

 その長い余韻を、胸の奥の源泉が聞いていた。


 アリサ少尉は急かさなかった。端末に記録を残してから、わたしと同じ方を見た。

「テルベリア口駅、到着確認」

 駅舎の向こうに、山道が続いている。

 その先に教会がある。

 わたしが火を見て、水を聞き、風を覚えた世界だ。


 ◇


 馬車は雪の残る山脈へ向かって進んだ。

 鈍色の空の下、土の現れた斜面に、古い雪が長い筋を描いている。舗装されていない道を車輪が削り、馬が石を踏むたび、干し草を敷いた荷台でお尻が跳ねた。

 深く息を吸えば、乾いた草と雪解けの土の匂いが肺に入ってくる。

 アリサ少尉も端末を閉じて、山の尾根を見つめていた。帝都を出たときより、横顔が少しだけ柔らかい。

 馬が鼻を鳴らす。手綱が鳴る。干し草が背中をくすぐった。

 わたしは思わず笑った。


 山の尾根が緩やかになったところで、身体を起こす。髪に絡まった干し草を払い、荷台から身を乗り出した。

 岩と砂利が続く灰色の道の先に、赤茶色の尖塔が見えた。先端に十字架が掲げられている。

 尖塔の鐘が鳴る。

 澄んではいない。晴れない空に寄り添うような少し沈んだ音だ。

 雪解けの水たまりが微かに波打つ。細い木々が互いにこすれ合う。


 道の先にある煉瓦の壁は煤に汚れ、泥がこびりついている。切り出された石は不揃いで、欠けている部分すらあった。

 そこには確かな時間が、刻み込まれていた。

 庭に白いシーツが干してある。


 風に膨らんだその向こう側に、黒い神父服が見えた。


 息が止まった。

 身体の内側で何かが弾ける。

 源泉ではない。もっと単純なものだった。


 帰ってきた。


 そう思うより先に、足が動いた。

 馬車が止まる。わたしは飛び降りた。砂利が鳴る。馬の黒い目がこちらを向いた。

 構わず走る。足の裏が痛い。でも、止まれなかった。


 シーツの向こうから、男の人が顔を出した。


「神父様!」


 叫ぶと、神父様の目が大きくなった。次の瞬間、眉尻が下がり、口元が震えるようにほころぶ。


 両腕が広がった。


 わたしは、その中へまっすぐ飛び込んだ。

 石鹸と薪の匂い。前より少し細くなった肩。


「おかえり。マシュ」


 その温もりは、わたしがまだ世界の広さを知らなかった頃から、何も変わっていなかった。

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