六 壊れていない拍
夜の運河に、白い灯籠の光が浮かぶ。祝祭の灯りだ。
帝国標準時間、午後十時三十二分。
波の上を滲むようにして流れていく光を、わたしは車窓からぼんやり眺めた。
空は薄い藍色で満たされ、地平に近づくに連れて朱が滲んでいた。夜と呼ばれる時刻なのに、闇は遠くで足踏みをしている。
白夜だった。
寝台に腰掛けたまま、膝の上の鞄を両手で押さえる。灯籠の光が後ろに流れていく。
昼と夜の境界が曖昧なこの時期は、いつも自分の輪郭まで薄くなる気がする。
薄く瞼を落とす。終わらない薄明。波に揺れる燭火の光。目を閉じても闇の白さが残る。
北方幹線第七夜行列車――白夜号の振動に全身を預ける。
鉄と車輪と遠ざかる土地が勝手に刻む不揃いな拍。それは誰かに決められた四拍ではない。
針のように細かった同期塔の輪郭が、灯籠の列と夜気の中に溶けていく。
帝都標準結界圏を抜けたのを感じる。肺が膨らみ、空気がたっぷりと入ってきた。肩から力が抜けていく。
荷物を網棚に乗せ、寝台に横たわった。
心臓がゆっくりと拍を刻み始める。飛びがちだった脈が整っていく。
全身を押さえつけていた見えない手が、ゆっくりと剥がれていくのを感じる。――息ができる。
照明が絞られていく。消灯時間だ。分厚い臙脂色のカーテンが音もなく閉まる。
寝台脇の真鍮の読書灯を点けようか迷ったが、そのまま眠ってしまうことにする。
毛布に包まり、足首に触れる。監測環の感覚を確かめた。
温もりはない。
けれど――その先に、いる。
わたしの呼吸がいつもより安定していることに、気がついてくださっているだろうか。
作られた暗闇の中で、昨夜のことを思い出す。
『貴様をテルベリア管区へ一時移送する』
管理区にやってきた制御官は抑揚のない声でそう言った。
わたしが白い演習場で制御を受けたことには何も触れず、ただ、いつも以上に感情を減衰させた顔つきで、わたしを見下ろしてきた。
『祝祭休業期間を利用した補助訓練だ』
管理区の白い照明の下で、必要な言葉だけが並べられていく。
『同行監督官を一名つける。貴様への直接的な基準提示と飛行誘導は行わない』
そこで一度、言葉が切られた。
『本官とヴァイマン少尉は同行しない』
わたしは顔を上げた。
制御官の表情は変わらなかった。
何かを尋ねようとして――やめた。
尋ねても、答えは変わらない気がした。
『――誤解のないよう言っておく』
制御官が息を吸う。
その間隔が、いつもより少しだけ長かった。
『これは処罰ではない』
制御官が一度口を閉じる。わたしに届くのを確かめているようだった。
『放逐でもない』
視線は外されない。言葉以上のものがそこにある気がした。
『それから』
制御官は、そこでもう一度、言葉を切った。
『貴様が間違っているという判断でもない』
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
正しい、と言われたわけではない。
大丈夫だ、と言われたわけでもない。
けれど、間違っているわけではない。
その不器用な一文だけが、白い部屋の中で、奇妙に浮いて聞こえた。
『帝都外で、本官基準への想起反応がどう変化するか確認する』
制御官は続けた。
『低同期圧環境下における、貴様自身の安定手順を検証するためだ』
わたしの中で蹲っていた源泉が、少しだけ顔を上げた気がした。
自分の安定手順。
あの白い演習場で、ようやく見つけたもの。
けれど、使ってはいけないと言われたもの。
それを、もう一度探す。
今度は、別の場所で。
『……分かりました。テルベリアに行きます』
わたしも制御官から目を離さなかった。
『そこで、わたしの飛び方を探します』
制御官の表情は最後まで変わらなかった。
ただ端末の通知音が鳴るまで、わたしを静かに見つめていた。
――魔導炉の低い唸りが耳に心地よい。
揺れを抑える慣性減衰陣は展開されているはずなのに、原始的な振動は抑えきられることなく、わたしの全身を包んでくる。
向かいの寝台のカーテンの奥で、端末の操作音が小さく鳴った。
同行監督官のアリサ・イリイーニシュナ・ヴォルコワ少尉だ。
管理区へ移る日、女子寮での荷物の引き渡しに立ち会ってくださった医療監測官だ。
あのときも、お人形を手放せずにいたわたしの様子を確かめ、制御官へ報告してくださった。
乗車してからも、少尉はわたしの顔色を見て、痛みや息苦しさがないか尋ねた。監測環の数値を確認すると、それ以上は何も言わなかった。
確認すべき時刻に確認し、記録すべきものだけを記録する。
その距離が、今のわたしにはありがたかった。
慰められたり、励まされたりしたら、きっと泣いてしまう。
毛布から少しだけ顔を出す。壁に「帝国標準時間」と「地方補正時」の小さな表示が灯っている。
出発したときよりも差が広がっている。
それが制御官との今の距離だった。
線路の拍が変わった。
一定ではない。けれど、乱れてもいない。
標準ではない拍。
でも、壊れていない拍。
その音を、胸の奥の源泉が、静かに聞いていた。




