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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第四章
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36/37

五 私から離れろ。

 帝国標準時間、午後六時四十一分。

 補助同期室の照明は、白い演習場を嫌でも思い出させた。

 ラリオーノフは制御卓の前に座り、マシュの訓練記録を展開した。ヴァイマンは斜め後ろに立っていた。

 お互い何も言わなかった。

 投影面に赤銅色の波形が広がる。帝国標準振動への移行失敗。源泉圧上昇。振幅拡大。制御介入。


 すべてが記録されていた。


 マシュが叫んだ瞬間も。

 ラリオーノフが制御コードを通じて介入した瞬間も。

 彼女の膝が、白い床に落ちたときまで――


 すべて、正確に。


「――一次報告を作成します」

 先に口を開いたのはヴァイマンだった。

 声は掠れていた。

 疲労ではない。怒りでもない。もっと乾いたものが、声の底に沈んでいた。

「不要だ」

 ラリオーノフは短く返す。

「私が書く」

 ヴァイマンは答えなかった。ただわずかに視線を落とした。


 ラリオーノフは端末を開く。

 空調の回る音が壁に消えていく。

 報告書式展開。空欄を軍の言葉で埋めていく。


 対象個体識別コード――E2-TER-0000-7F3A2C。

 教育用制御コード――SACC-3126-04-FL-ST。

 訓練種別――帝国標準振動下における単独飛行適性補助訓練。

 実施環境――第三屋内演習場。多層結界正常。外部干渉なし。

 結果――未達。


 未達。


 その二文字は、あまりに小さかった。

 マシュの叫びも、白い床に落ちてすぐ乾いた一滴も、そこに収めきれない。

 ラリオーノフは卓に腕をつく。そのまま顔を伏せれば、冷たい息が漏れた。

 指が悴む。遅延が積み上がる。

 ――続きを書かなくてはならない。


 帝国標準振動提示時、対象個体に反復的拒絶反応を確認。

 浮遊移行前、源泉尖度上昇。標準同期率、規定値に達せず。本官基準想起反応、継続。

 情動波形急上昇および源泉振幅拡大を確認。

 本官介入により鎮静化。


 そこまで打って、指が止まる。

 鎮静化。

 記録としては正しい。

 振幅は介入閾値に達していた。あのまま放置すれば、彼女の身体接続が損傷した可能性がある。

 止めなければならなかった。

 だが――。

 そこに至るまで、何度、彼女に戻ることを禁じた。

『制御官』

 赤銅色の光の向こうで、小さな口が動く。

『わたしは……』

 その先を、ラリオーノフは知らない。

 聞く前に、鎮めた。


 口の中が血を含んだように苦い。ラリオーノフは奥歯を噛み締める。


 文面を整える。


 情動鎮静。

 魔力減衰。

 呼吸補助。

 身体損傷なし。

 結界損傷なし。

 周辺被害なし。

 異常なし。


 まただ。

 この鈍い報告で、時間ばかりを稼ぎ続けている。

「大尉」

 ヴァイマンの声が落ちる。

 ラリオーノフは画面から目を離さなかった。

「……何だ」

「その文面では、彼女がなぜ崩れたかが消えます」

 ラリオーノフは拳を握りしめる。

「崩れたとは記録しない」

「では何と」

「標準振動移行時における情動負荷上昇」

「時系列が違います」

 ラリオーノフの指が止まった。

「急上昇は、移行試行の後です。内部手順を使えない理由を、彼女が尋ねていたときです」

「問答の内容は訓練記録に残っている」

「ですが、一次報告にはありません」

 ヴァイマンの声は静かだった。

「直接提示を停止した後も、振幅は拡大し続けた。そこまでが観測事実です」

「何が言いたい」

「原因を断定しろと言っているのではありません」

 一拍が落ちる。

「観測された順序を、変えないでください」

 ラリオーノフは振り返った。

「それから、最後の『異常なし』もです」

「身体損傷、結界損傷、周辺被害は確認されていない」

「では、介入後の追加異常なし、と記載してください。緊急介入を要した事実まで、異常なしにはできません」

 ラリオーノフは答えなかった。

「彼女は、自分の中に見つけた手順を禁じられた。その条件下で試行を繰り返し、今日、源泉の急上昇が起きた」

「所見に感情を混ぜるな」

「感情ではありません」

 ヴァイマンの目は逸れなかった。

「現象です」

 視線の先にいるヴァイマンの顔は、壁の色を吸い込んだように白かった。

 濃い疲労に沈んだ目が、ラリオーノフを逃さず見つめる。

「彼女は標準に合わせられない。……戻れないんです。だから唯一戻れた内部手順を使おうとした」

 ヴァイマンの声は緩慢だった。それが疲労からくるだけでなく、意図的であることにラリオーノフは気がついていた。

「それが私を基準としている」

「はい」

「だから禁じた」

「そして、彼女は壊れかけました」

 視線が交わる。

 互いに動かない。だが言葉だけが、深く踏み込んでくる。

「大尉……」

 ヴァイマンの喉が浅く上下した。

 白い照明の下では逃げ場がなかった。

 ラリオーノフを見下ろしてくる顔は、絶望よりも深い痛みを堪えていた。

 怒りではない。

 失望でもない。

 ただ苦しみにもがき続ける顔だった。

 ――ラリオーノフが口を開いた瞬間、通知音が鳴った。

 眼前に通信文が展開する。

 発信元――アンドレイ・ペトロヴィチ・マリーニン大佐。

 種別――即時出頭命令。

 対象――セルゲイ・アレクセーエヴィチ・ラリオーノフ大尉。

 対象――ユーリ・アルテミエヴィチ・ヴァイマン少尉。


 ヴァイマンの眉間に皺が寄る。

 ラリオーノフは何も言わず、立ち上がった。


 帝国標準時間、午後七時三分。

 マリーニンの執務室の空気は、補助同期室よりも乾いていた。

 マリーニンは椅子の背にもたれない。

 いつも通り、わずかな弛みもない姿勢でラリオーノフとヴァイマンを見据える。

「対象個体は、貴様の基準を想起することで飛行移行に成功した」

 ラリオーノフは、見えない銃口の冷たさを眉間に感じる。

「五日前の記録だ」

 マリーニンの机上にはすでに、今日の逸脱未遂を含むマシュの全記録が、学院全体のログと共に展開していた。

「その成功を貴様は成立と認めなかった」

 ラリオーノフは喉に力を込める。

「帝国標準との同期下ではありません」

「正しい」

 マリーニンの声は淡々としている。

「したがって、七月の飛行適性試験における成立条件には該当しない」

「はい」

 マリーニンが映像を停止する。

「そして今日も、貴様はその手順の使用を認めなかった」

「特定制御官への想起固定を排除する必要がありました」

 マリーニンの目は動かない。

「その後、対象個体は内部手順の使用禁止について問い、出力が上昇した。標準振動の直接提示を停止した後も振幅拡大は続き、制御官介入を要した」

「はい」

 部屋の温度がなくなっていく。

「周辺被害なし。身体損傷なし。結界損傷なし」

「はい」

「問題なし、か」

 その一言は撃鉄を起こす音だった。

「対象個体は標準への移行を成立させられず、内部手順の使用も許されず、最後には緊急介入を要した」

 マリーニンの声はどこまでも平坦だった。

「貴様の訓練計画は、何を達成した」

 答えられなかった。標準同期率に改善はない。自律的標準移行も成立していない。

 ――ラリオーノフの胸がゆっくりと潰れていく。同時に喉から言葉がせりあがってきた。

「……提案があります」

 気がついたときにはそう言っていた。

 マリーニンの片眉がわずかに上がった。

「言ってみろ」

「訓練環境変更案です」

 ヴァイマンの視線が、一瞬こちらに向いた。

 ラリオーノフはマリーニンから目を逸らさなかった。

「帝都標準結界圏外での再評価を提案します」

 マリーニンが机上で指を組んだ。

 続けろという意味だった。

「現行の帝都標準結界下における反復訓練では、本官基準想起反応の遮断が困難です。対象個体の自律的標準同期移行にも、進展は認められません」

 記録を切り替える。

「一方、対象個体は北方地区テルベリア管区における学院選抜試験で、高い制御能力を示しています。点火、送風、基礎出力制御、応答速度。いずれも高水準です」

 選抜時の源泉波形が、投影面に広がった。

「テルベリア管区は帝都中枢結界圏に比して同期圧が低く、基準振動の強制性も限定的です。したがって、祝祭休業期間を利用し、原籍地周辺の低同期圧環境下で自律安定性と飛行移行能力を再評価することを提案いたします」

「帝都標準結界圏外へ移す、ということだな」

「はい」

「根拠は」

「現在の帝都訓練環境が、対象個体の標準適応ではなく、本官基準の想起固定を促進している可能性があるためです」

 マリーニンは頷かなかった。

「テルベリアの選抜試験に、飛行実技は含まれていない」

「承知しています」

「ならば、当時の高成績は飛行適性の証明にならん」

「そのとおりです」

 ラリオーノフは、別の記録を展開した。

 墜落事故後、第三屋内演習場で行った再評価試験。

 静穏化処置下での点火。

 送風。

 微小刺激への応答。

「本官は墜落事故後、当該個体の基礎制御能力を再評価しています。選抜時と同等の高い再現性が確認されました」

 映像のマシュの指先に、小さな炎が灯る。

 出力は安定していた。

 炎は伸び上がることも、消えかけることもなく、ただその指先に留まっている。

「したがって、対象個体が全般的に魔導制御不能であるとは判断できません」

 ラリオーノフは続けた。

「ただし、飛行移行時の帝国標準同期不成立については、原因を特定できていません。現在の訓練環境では、本官への想起反応がその切り分けを妨げています」

「テルベリアへ戻せば解決する、と?」

「断定はできません」

 ラリオーノフは即答した。言い淀むことではなかった。

「ですが、少なくとも環境条件を変更することで、対象個体自身の安定手順を観測できる可能性があります」

「標準への再接続は」

「帰都後、改めて検証します」

 マリーニンの目が細くなった。

「つまり、現時点で再接続の手順はない」

「ありません」

 室内が静かになった。

 ――認めてしまった。

 答えはない。ただの時間稼ぎにしかならないかもしれない。

 それを、上官に明言した。

 マリーニンの視線がヴァイマンに移る。

「ヴァイマン少尉」

「はい」

「大尉案に同意するか」

 ヴァイマンは一拍だけ沈黙した。

「はい」

「理由を述べろ」

「現行環境での訓練継続は、対象個体の標準適応を促進していません」

「では、何を促進している」

 ヴァイマンの喉がわずかに動いた。だが、答える。

「大尉基準の想起固定です」

 ラリオーノフは動かなかった。

 動けば、それすら記録される気がした。

 マリーニンは頷きもしない。

「続けろ」

 ヴァイマンが姿勢を正す。

「対象個体は、大尉の姿や声、命令前の沈黙を手掛かりに、その拍を内部手順として再構成します。大尉が不在の場合も、記憶された拍および命令前間隔を用いて自己同期を試みます」

「つまり、大尉を排除しても切れない」

「はい」

「では、なぜテルベリアで切れる」

 ヴァイマンの視線がラリオーノフに向く。だがそれも一瞬だった。

「切れるとは限りません」

 ヴァイマンの声は疲れていた。それでも曖昧ではなかった。

「ただし、帝都標準結界圏内では、もはや標準振動そのものが対象個体の拒絶反応を誘発しています。北方低同期圧環境なら、標準への強制遷移ではなく、対象個体自身の安定手順を観測できる可能性があります」

「大尉案と同じだな」

「はい」

 マリーニンの視線が再びラリオーノフへ戻る。

「貴様は最も強い干渉因子である」

「はい」

 声は乾いていた。

「自覚はあるのだな」

「あります」

 その返事だけは曖昧にしなかった。

「本官は同行しません」

 マリーニンの目がわずかに動いた。

「現地での訓練も、直接指導も行いません。環境条件を変更した状態で、対象個体自身の反応を観測する必要があります」

 言いながら喉が強張った。

 マシュが自分の知らない場所で、何を基準に戻るのかを確かめる。

 そこで自分が必要ではないという結果が出るかもしれない。

 それでも――

「……確かにテルベリアにも危険はあります」

 ラリオーノフはマシュの記録ごとマリーニンを見る。

「地脈干渉が強く、帝国標準結界の安定性も低い」

 マシュの飛行映像がまだ机上に残っている。白い演習場を確かに飛んだ少女。

「ですが帝都で本官を基準に飛ぶ状態を固定化するよりは、まだ修正可能性があると判断します」

 マリーニンとの間に浮かぶマシュは、期待に溢れた顔でラリオーノフを見つめていた。

「それは対象個体のためか」

 一瞬で部屋の圧力が増した。

 マリーニンの表情は変わらない。だが発せられる冷たさの質が変化した。隣のヴァイマンが一瞬身じろぎする。

「七月試験に向けた訓練条件の切り分けです」

「質問に答えろ」

 肺が凍りつく。皮膚も肉も骨も裏返されていく。

 対象個体《マシュ》のためか――熱が奪われていく。遅延が積み上がる。

 七月試験のため。帝国のため。

 規律のため。標準維持のため。

 頭の中で積み上げられていく言葉は、ただの思考の残骸にすぎなかった。

 マシュのため。

 自分から遠ざけるため。

「――……」

 息を吸う。飲み干したものがなにかは、考えなかった。

「……対象個体の継続教育可能性を維持するためです」

 沈黙が落ちる。

 マシュの動画はとうに再生を終了していた。

 マリーニンの視線がわずかに上がる。ラリオーノフは気がつく。

 見られているのは心臓の裏側ではなく、目の奥の光だった。

「同行監督官として女性少尉一名」

 その言葉は執務室を鳴らすように響いた。ヴァイマンの目が見開く。

「任務内容は生活安全確認、訓練環境記録、魔力出力記録採取、緊急時通信。対象個体への直接的基準提示および飛行誘導は禁止」

 ラリオーノフは表情を変えない。姿勢も保持する。呼吸の乱れも補正した。

「個体に不要な干渉を避けるため、貴様もヴァイマン少尉も同行しない」

「はい」

 返事に余計な感情は混ぜなかった。全てがログに残される。

「個体本人には、貴様から伝えろ」

 マリーニンの目は決してラリオーノフから外されなかった。

「はい」

 当然だと思った。ラリオーノフが言わず、誰が言う。

「最低限は正確に言え」

 そのマリーニンの言葉を理解するのに、一瞬だけ遅延が生じた。

「これが処罰ではなく、放逐でもないこと」

 学院の記録が消される。マシュの記録だけが残される。


「そして対象個体が間違っているわけではない、ということだ」


 ヴァイマンがわずかに顔を上げた。

 ラリオーノフの視線の先のマリーニンの顔には赤銅色の波形が被さっていた。

「それは……」

「言えるはずだ」

 冷たい声に刺される。だがそれは命令ではなく、分類に近かった。

「当該個体の基礎制御能力には問題がないと、貴様自身が報告した」

 固い沈黙がラリオーノフの喉に詰まっていく。

「帝国標準下での単独飛行の成立条件を特定できていないことと、対象個体が誤っていることは別だ」

 マリーニンは表情を変えなかった。

「その区別を、本人に伝えろ」

 言えないわけではない。

 マシュは間違えていない。

 壊れてもいない。

 それは――それだけは、確かだった。

「……承知しました」

 マリーニンの指がようやく動く。軍の公式書類の書式が展開する。

「承認する」

 あまりに早かった。

 ラリオーノフは反応を取り戻す。

「期間は祝祭休業開始日より七日間。対象個体はテルベリア管区、原籍教会を基点とする。活動区域は現地の安全管理条件に従う。同行監督官は総監部より派遣する」

「承知しました」

「これは猶予ではない。試験条件の切り分けだ」

「はい」

「七月の期限は変わらない」

「承知しています」

「未達時の運用更新も撤回しない」

「……はい」

 声は揺れなかった。揺らさなかった。軍人として正しい振るまいを繰り返す。

 マリーニンが最後の署名を終える。そして顔を上げた。

「大尉」

「はい」

 マリーニンの口が一拍閉じる。視線は外されない。だが銃口の冷たさが体から剥がれたのをラリオーノフは感じた。

 

「遠ざけることと、捨てることを混同するな」


 その言葉は、ラリオーノフの胸の裏側を確かに暴いてきた。

 マリーニンの視線がヴァイマンに向けられる。


「ヴァイマン少尉」

「はい」

「現地から上がる記録を補助解析しろ。だが、解釈を急ぐな」

「承知しました」

 ヴァイマンの声はもう掠れていなかった。マリーニンが頷く。

「二人とも、今夜中に移送前条件を整理しろ。本人通達は三十分以内。同行監督官の選定はこちらで行う」

「はい」

「下がれ」

 ヴァイマンと共に敬礼する。

 その動作ももはや自分のものでないように思えた。

 

 執務室の扉が閉じる。


 白い回廊に出た瞬間、ヴァイマンが小さく息を吐いた。保っていたものが一瞬だけ緩んだ音だった。

 ラリオーノフは歩き出す。まだ力は抜けない。体の重みも乾ききった喉の痛みも和らがせない。

「大尉」

 背後から、ヴァイマンの声が聞こえた。ラリオーノフは振り返らない。

「彼女に、嘘だけは言わないでください」

 ラリオーノフは足を止めなかった。

 嘘。何をもって嘘とする。

 もうラリオーノフは沈黙で十分に誤魔化している。

「言えないことはある」

「分かっています」

 ヴァイマンの声には苛立ちが混じっていた。

「でも、言えることまで隠さないでください」

 ラリオーノフは答えなかった。

 答えないことが、もう嘘に近かった。

 それでも、行かねばならない。

 マシュに告げなければならない。

 自分から離れろ、と。

 軍の言葉で。訓練の名で。

 処罰ではないと、放逐ではないと。

 半分だけ本当の理由を添えて。

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