四 強制介入
それから、何度も演習を繰り返した。
呼吸。拍。標準振動。箒への接続。浮遊移行。
少尉は前よりも言葉が少なくなった。
制御官の指示も、さらに短くなった。
お二人の間にある空気は、白い演習場よりも冷たかった。
声を荒げるわけではない。
互いを責めるわけでもない。
けれど、少尉が何かを言いかけるたび、制御官の沈黙がそれを切った。制御官が指示を出すたび、少尉の端末を持つ指がほんの少し止まった。
わたしは、気づかないふりをした。
気づけば呼吸が乱れる。
呼吸が乱れれば、また記録される。
だから、見ない。
ただ、標準振動に合わせる。
「帝国標準振動、提示」
白い空間が深くなる。
誰のものでもない拍が、床から、壁から、天井から、わたしの身体へ押し寄せてくる。
吸う。保持。放出。
制御官を見てはいけない。
制御官の拍を思い出してはいけない。
命令の前の沈黙を、身体の中で数えてはいけない。
わたしは標準に合わせる。
標準で、飛ぶ。
「浮遊移行」
制御官の声が落ちた。
その瞬間、身体が勝手に戻りかける。
――違う。
白い拍へ合わせる。
誰もいない拍へ。
指先から箒へ魔力を通す。胸より低い場所で、源泉が小さく震えた。
足裏から重さが抜けていく。
――違う。
戻ってはいけない。
けれど、足裏が床から離れる直前、胸の奥で何かが反転した。
制御官の命令の前にある、あの短い沈黙が蘇る。
一拍にも満たない硬さ。
余分のない声。
わたしを落とさない、冷たい輪郭。
箒が浮いた。
床から、指二本分ほど。
息を呑む。
――浮いた。
浮けた。
「停止」
制御官の声が落ちた。
箒が床へ戻る。
浮き上がりかけた胸の奥まで、一緒に沈んでいく。
「……今のは」
言いかけて、口を閉じた。
制御官が投影面を見る。
少尉も同じ記録を確認していた。
少尉が、観測結果を読み上げる。
帝国標準振動下、浮遊移行開始。
標準同期率、上昇なし。
特定制御官想起反応、発生。
源泉尖度、低下。
浮遊成立、微弱。
少尉が何かを言おうとした。
けれど、先に口を開いたのは制御官だった。
「再試行」
「……はい」
それからも、同じことが続いた。
標準に合わせようとした。
制御官を思い出さないようにした。
けれど、浮く直前になると、帝国標準ではなく、制御官の拍へ身体が勝手に戻ってしまう。
ほんの少し浮く。
でも止められる。
記録される。
そして、再試行。
少尉の声は、少しずつ低くなった。
制御官の沈黙は、少しずつ長くなった。
わたしは、だんだん小さくなっていく気がした。
間違えている。
けれど、何を間違えているのか分からない。
制御官なしで戻れるようにならなくてはいけない。
でも、戻ろうとすると、制御官の拍を思い出してしまう。
使ってはいけないものだけが、わたしを落とさない。
「もう一度」
「はい」
箒を握り直した。
源泉が、胸の奥で小さくうずくまる。
泣いているのではない。
たぶん、待っている。
でも、何を待っているのか、わたしにはまだ分からなかった。
◇
二週間が過ぎた。
状況は悪化していた。
ラリオーノフは制御卓の前に立ち、今日の訓練記録を見下ろした。
帝国標準同期率、改善なし。
浮遊移行、不成立。
特定制御官想起反応、継続。
ラリオーノフの頭が鈍い痛みに締めつけられる。首筋が張り、肩に無意味な力が入る。
過緊張。
自覚はある。
だが弛まない。
ヴァイマンの視線がわずかにこちらに向けられる。だがすぐに逸らされた。
何も言わない。
マシュは白い演習場の中央で、箒にまたがっている。
乱れた髪が汗で頬にはりつき、箒を握りしめる手は真っ白だ。荒い息で肩が上下している。
濃い疲労が全身から立ち上っていた。
今日も、できなかった。
その事実にラリオーノフは唇を噛みしめたくなる。
この二週間、やり方を変えて挑戦し続けた。拍同期訓練も取り入れながら標準との同期を目指した。
ラリオーノフが演習場にいること自体が想起反応の起点になっている可能性を考え、ヴァイマンによる単独演習も実施した。
帝国標準との同期は、やはり成立しなかった。
だが五日前、その演習で、別の結果が出た。
『貴方を探し続けています』
五日前、感情を極限まで折り畳んだ瞳で、ヴァイマンがそう報告してきた。
ヴァイマンが記録を提出してくる。
マシュの源泉は極端な乱れはなかった。だが主周波数が不規則に尖り、副周波数がそれを追うように揺れている。
それがある時点で変化した。
尖度が低下する。
副周波数の山が緩やかになる。
乱れていた拍が、別の位置へ向かってまとまり始めた。
帝国標準の基準線には重ならない。
それでも、波形は崩れなかった。
ラリオーノフの視界が一瞬空白に落ちる。
ヴァイマンの冷ややかな視線に刺される。
目の前には異様なほどに澄んだ主周波数が立ち上がっていた。
『……標準時間十六時四十五分。浮遊に成功』
ヴァイマンの谷底を滑り落ちていくような声が、ラリオーノフを一層深いところへ突き落としてくる。
『高度五メートル、三十秒保持、水平移動五十メートル。クリア』
その言葉に、ラリオーノフの全身から熱が奪われた。目の焦点が合わない。
『彼女は飛べました』
視界が揺れる。卓で身体を支えるので精一杯だった。
『貴方がいないところで、貴方を基準として』
ヴァイマンの声には、喜びよりも疲労が滲んでいた。
ラリオーノフは波形を拡大した。
マシュの主周波数は、なめらかだった。
外部から補正を与え続けた波形ではない。
揺らぎが消えたわけではなかった。小さな変動を繰り返しながら、その都度、元の位置へ戻っている。
自分で。
何度も。
それなのに、その位置は帝国標準ではなかった。
『……制御入力は』
『ありません』
『本官署名への外部接続は』
『確認されていません』
ヴァイマンが記録を切り替えた。
『想起反応は継続しています。ですが、実際の外部同期は成立していません』
ラリオーノフは卓に手をついた。ヴァイマンの声が続く。
『想起を指示したのではありません。標準への移行試行中に生じました。急性逸脱がなかったため、僕の判断で継続しました』
自分の波形が、彼女の内部で再構成されている。
それだけで、飛行を維持できるところまで来ていたのか。
いつからだ。
どの時点で、彼女の源泉はこの位置を覚えた。
『……大尉』
ヴァイマンが、別の記録を開いた。
『飛行の後、彼女が何と言ったか、ご覧になりますか』
ラリオーノフは答えなかった。
だがヴァイマンは映像を再生する。
画面の中で、マシュが箒から降りていた。
赤銅色の髪は乱れ、その頬も赤く上気していた。
呼吸は荒く、両手はまだ箒を握ったままだった。
その顔が、持ち上がる。
『制御官!』
はじけるような声だった。
マシュは記録用の端末へ駆け寄り、画面に向かって手を振った。
『飛べました!』
画面いっぱいに笑顔が広がる。
『わたし、飛べました!』
息を切らした顔から喜びが溢れ出す。
ラリオーノフは何も言えなかった。
消せ、と命じることもできなかった。
記録の中で、マシュがもう一度笑った。
その笑顔は、ラリオーノフが見たことがないものだった。
あれほど訓練を重ねてきて――
この少女が、こんな顔で笑うことを知らなかった。
――次の日、ラリオーノフはその喜びを切った。切らざるを得ないと、自分に言い聞かせた。
『帝国標準同期下での単独飛行という試験条件を満たしていない』
マシュの顔から笑顔が抜けた。
『ですが、制御官。わたしは――』
『標準逸脱行為だ』
途中で遮る。マシュの顔が少し白くなった。
『標準同期が成立していない以上、飛行できたという事実だけでは、運用上の安全性を証明できん』
どれだけ酷かろうと、それが事実だった。
帝国標準の下で、一人で飛ぶ。
七月に要求されているのは、それだ。それ以上でも以下でもない。
『貴様が達成したのは、別の条件だ』
だから、試験には使えない。
成立として認めるわけにはいかない。
――そう説明できた。
できてしまった。
『……はい』
マシュは頷いた。
納得したのではない。
理解しようとしている――それはラリオーノフにも分かった。
だが、それ以上何も言わなかった。
何も言うことができなかった。説明できるのは認められない理由ばかりだった。
ならば、どうすれば認められるのか――
答えはなかった。
――そして今日。
マシュは飛べなかった。
ラリオーノフは演習場の中央を見た。
マシュはまだ箒にまたがっていた。赤銅色の髪は汗で頬にはりつき、指は白くなるほど箒の柄を握りしめている。呼吸は荒い。
ヴァイマンが端末を確認する。
「疲労指標が上がっています」
「把握している」
「本日の工程は、ここで終了してもよいのではありませんか」
ラリオーノフは波形を見た。
振幅拡大は、介入閾値未満。
源泉圧も、警戒域には達していない。
急性逸脱なし。
再試行そのものが危険な数値ではない。
だが――五日前に浮遊を成立させた波形が、脳裏を横切った。
あれを使えば、飛べる。
そう分かっている。
分かっていながら、それを禁じている。
「……次の試行を最後とする」
ヴァイマンは短く息を吐いた。
「承知しました」
ラリオーノフはマシュへ向き直る。
「再試行」
マシュの肩が、かすかに震えた。
「……はい」
「呼吸が浅い。四拍で吸え」
「はい」
「標準振動を先に見るな。身体側の拍を落とせ」
「はい」
「源泉を急がせるな」
「はい」
はい。
はい。
はい。
返事だけが白い演習場に落ちていく。
マシュは箒に魔力を通した。
帝国標準振動が提示される。
赤銅色の波形が、わずかに揺れた。
呼吸は合っている。
出力も規定内だ。
それなのに、浮遊移行の直前で源泉が逸れた。
まただ――ラリオーノフは歯を食いしばる。
「違う」
そう切れば、マシュの目が揺れた。
「……はい」
箒は浮かなかった。
ヴァイマンが何かを言いかけた。
だが言わなかった。
その飲み込まれた無言すら、ラリオーノフを苛立たせる。
「制御官」
マシュが顔をあげる。
声は小さい。
けれど折れてはいない。
「なんで、前の方法ではだめなんですか」
ラリオーノフは答えなかった。
「できたのに」
「だめだ」
即答する。
マシュの瞳が大きくなる。
「なぜですか」
「帝国標準に適合していない」
「どうして標準でなければならないのですか」
ヴァイマンがわずかに顔を上げた。
ラリオーノフはマシュを見る。演習場の中心までが、やけに遠く感じた。
「標準は、事故を防ぐための基準だ」
声が低くなる。
「個体の出力を一定範囲に収め、共鳴と暴発を抑え、他者を巻き込む人的災害を生まないための最低線だ」
言いながら、脳裏に演習場ではない別の白さが走った。
光ではない。雪でもない。
これは――灰だ。
崩れた観測堡の壁。
溶けた金具。
誰のものか分からない魔力痕。
呼応する恐怖。
互いに焼き尽くし合う源泉。
かつて観測堡だった場所に降り積もる灰。
それは人の――
「……標準とは、自由を縛る言葉ではない」
息を吸った。
「死体を減らすための線だ」
その言葉だけは確かに演習場に響いた。
「だから我々制御官がいる」
マシュの口が閉じられる。
その表情を読もうとする。
理解したのか。
恐れたのか。
それとも――
やがて彼女は、箒を握ったまま、かすれた声で言った。
「……標準なんか、知りません」
空気が止まった。
ヴァイマンが息を呑む。
ラリオーノフの胸の奥で、何かが冷たく弾けた。
「……何だと」
「知りません」
マシュの声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「わたしには、分かりません」
金色の瞳が濡れている。
「標準でなければいけない理由は、分かります。でも、わたしの身体がどうしても戻れないことは、どうしたらいいのですか」
ラリオーノフは何も言えなかった。
「制御官が仰ったではありませんか」
マシュの源泉が揺れた。
「自分の減衰係数を持てって」
赤銅色の波形が、僅かに立ち上がる。
「自分の中に基準を持てって」
ラリオーノフの胸が締まった。
その言葉を覚えている。
自分が教えた。
外側の拍に引きずられるな。
自分の状態を見失うな。
そう命じた。
「『私を見失うな』って」
マシュが箒から降りた。
一歩、こちらへ近づく。
箒の穂先が床を擦る。
「言ってくださったじゃないですか!」
源泉が跳ねた。
赤銅色の光が、一瞬、白い演習場を染める。
「マシュさん、出力を――」
ヴァイマンの声が飛んだ。
だがマシュは、もう端末を見ていなかった。
「だから、わたし、探したんです!」
ラリオーノフは制御階層を開く。
出力変動を確認する。
振幅拡大。
上昇が速い。
「少尉、基準提示を停止しろ」
「停止します!」
白い標準振動の直接提示が消える。
だが、赤銅色の波は収まらなかった。
「わたしの中で、戻れる場所を!」
マシュの声が震えた。
「制御官がいなくても、戻れるように!」
胸が焼けた。
違う。
その方法では、標準に接続できない。
それでは、七月の試験を――
「標準では戻れません!」
金色の瞳から涙が落ちる。
「でも、わたしは戻ろうとしています!」
赤銅色の波が膨らんだ。
床の減衰層が反応する。
箒が軋む。
「それも、いけないのですか!」
声が、演習場を貫いた。
命令への反抗ではない。
訓練条件への異議でもない。
自分が教えたことを守ろうとしている少女の、問いだった。
それに答える言葉は――
どこにもなかった。
「大尉!」
ヴァイマンの声が跳ねた。
「振幅拡大、三二パーセント!」
ラリオーノフは制御階層へ潜った。
介入閾値。
規定値到達。
迷っている時間はない。
赤銅色の波が、白い壁に向かって広がっている。
源泉圧が上昇する。
このままでは、身体側の接続が損傷する。
止めなければならない。
何があっても――
火花が散る。
記憶の向こう側から灰の臭いが押し寄せてくる。
焼け落ちた床。
人の形を失った影。
胸郭の奥で、息が途切れる。
演習場の白さに重なるのは――
四年前の記憶。
制御しなければ――それはもう本能だった。
落としてはならない。
誰も、失ってはならない。
「制御官」
マシュの声が聞こえた。
急に、静かだった。
その静かさが恐ろしかった。
「わたしは……」
小さな足が、床からわずかに浮いた。
赤銅色の波が、膨らむ。
ラリオーノフは最後の制御階層に触れた。
SACC-3126-04-FL-ST。
制御官介入。
呼吸補助。
情動鎮静。
魔力減衰。
源泉尖度低下。
赤銅色の波が、削られていく。
鋭く立ち上がった山が、一つずつ低くなる。
不規則な振動が収束する。
源泉圧が下がる。
危険域を離脱。
身体接続、維持。
急性損傷、なし。
マシュの肩から力が抜けた。
浮きかけた足が床へ戻る。
箒が傾いた。
マシュは膝から崩れ落ちた。
ラリオーノフは制御入力を維持したまま、最後の収束を確認する。
源泉尖度、正常域。
緊急介入、完了。
規定どおり――
事故は起きなかった。
マシュは白い床に膝をついていた。
ラリオーノフは端末から目を離した。
赤銅色の髪が顔を覆っていた。
涙が、一滴落ちた。
床面に触れ、小さな染みを作る。
誰も動かなかった。
やがて、マシュが立ち上がった。
箒を拾う。
乱れた髪を直そうとして、途中で手を下ろした。
それから、こちらへ向き直った。
深く、頭を下げる。
「本日のご指導、ありがとうございました」
声は丁寧だった。
崩れていなかった。
ラリオーノフは返事ができなかった。退室しろとも、言えなかった。
ヴァイマンも何も言わない。
マシュは箒を抱え直し、もう一度だけ小さく礼をした。
そして、振り返らずに歩き出した。
白い床を、小さな靴音が横切る。
扉が開いて、閉じる。
残されたのは沈静化された波形の残響と、ラリオーノフの胸に刻まれた彼女の叫びだけだった。




