三 原因未特定。検証継続中。
補助同期室の扉が閉じても、マシュの最後の返事は頭から消えなかった。
『はい』
いつもどおりの礼儀正しい声だった。だが消え入りそうな気持ちを必死に立て直すような、それでいてすり切れた心を隠すような声音だった。
ラリオーノフは制御卓の前に立ち、訓練記録を展開した。赤銅色の波形が投影面に広がる。外部基準排除、単一基準提示、帝国標準振動への切替。試行ごとの変動値が、帝国標準時間に沿って並んでいる。
身体損傷なし。緊急介入なし。結界損傷なし。
規定上、訓練は正常に終了していた。
指先で記録を送る。
特定制御官想起時、源泉尖度低下。
外部制御入力、なし。
数字は揃っていた。
揃っていることが、恐ろしかった。
ヴァイマンは後ろで黙っている。そのまま黙っていて欲しかった。
だが沈黙は長くなかった。
「大尉」
ヴァイマンの声は、いつもより固かった。
ラリオーノフは振り返らなかった。
「確認したいことがあります。先ほどの指示です」
端末の操作音がした。
「『以後の訓練でも、成立条件として採用しない』。今後の全工程に適用するという意味ですね」
「……そうだ」
「では、代替手順は?」
指が止まった。
「外部基準排除下での自律安定を優先する」
「今日、その方法で成立しましたか」
「まだ検証段階だ」
「成立しませんでしたね」
否定を許さないほど、穏やかな声だった。
「ですが、大尉の命令前間隔を想起した試行では、外部制御入力なしで源泉尖度が低下しています」
「だからこそ、切り分ける必要がある」
「切り分けることと、使用を禁じることは違います」
返答は早かった。
ラリオーノフは振り返った。
ヴァイマンは数歩離れたところに立っている。端末を脇に抱え、いつもどおり背筋を伸ばしていた。
微笑んではいなかった。
「彼女が何によって安定したのか、まだ確定していないのでしょう」
「特定個体の想起反応だ」
「それは観測された条件です。機構ではありません」
「起点が私であることは変わらん」
「変わりません。ですが、外部入力なしで収束したことも変わりません」
ヴァイマンは端末を開いた。
赤銅色の波形が、二人の間に立ち上がる。
「依存なのか、内部化された安定手順なのか。まだ分からない。だから検証が必要なんです」
「その状態で、成立条件として採用できるか」
「採用しろとは言っていません」
ヴァイマンの声が、わずかに鋭くなった。
「では、想起条件での再試行は認めますか」
ラリオーノフの奥歯が噛み合った。
「外部基準を排除し、標準への自律移行を試みる」
「では、明日も彼女に標準を提示するのですか」
「必要ならば」
「明後日も?」
「訓練計画に従う」
「その次は?」
「少尉」
止まらなかった。
「同じ条件で、同じ不成立を繰り返すのですか」
ラリオーノフは制御卓の縁を握った。
「反復によって適応が進む可能性はある」
「一般的な標準同期訓練では、そうでしょう」
ヴァイマンは退かなかった。
「ですが、マシュさんについては?」
ラリオーノフは答えなかった。
「今日の観測では、標準同期率の改善は確認されていません」
「単日の結果だ」
「再現試験もあります」
「条件が異なる」
「では、あと何回ですか」
ヴァイマンが一歩近づいた。
「何回、彼女に戻れないことを確認させれば、別の方法を検討するのですか」
喉が締まった。
違う。
自分は、そんなことをしているのではない。
訓練だ。
標準へ適応させるための工程だ。
反復し、誤差を切り分け、成立条件を探す。そのために――
『標準には、誰もいません』
呼吸が止まった。
顔を上げると、ヴァイマンと目が合った。
自分の変化は、見逃されてはいなかった。
「……大尉」
声が低くなった。
「彼女は今日、自分の中で起きたことを説明できるようになったんです」
振り払いたいのに思い出す。波形と数値を見つめるマシュの真剣な顔――喉の奥が熱い。
「分かっている」
「研究者になりたい子でしょう」
制御卓を握りしめる手に力を込める。
「分からないことが分かるようになった。それが嬉しかったんです」
少し分かりました――マシュの声が響いてくる。
「だからこそ……」
ラリオーノフは言った。
「誤った方向に進ませるわけにはいかん」
「誤っていると、証明できましたか」
ヴァイマンの声が硬くなった。
「それとも、帝国標準に接続できないから、誤りとするのですか」
「貴様は試験条件を忘れたのか」
「忘れていません!」
声が跳ねた。
ヴァイマン自身が驚いたように口を閉じる。
低く息を吐いた。
「……失礼しました」
だが、退かなかった。
「七月の飛行適性試験。帝国標準との同期下で、単独飛行を成立させること」
「そうだ」
「未達なら、意識主体継続性査定へ移行する。源泉出力分離、長期安定化管理。人格の継続は保証されない」
「……承知している」
「僕もです」
ヴァイマンの声が掠れた。
「僕だって、分かっているんです」
一拍の沈黙。
「今日、僕は彼女に基準を提示しました」
ヴァイマンが端末へ視線を落とす。
「一八パーセントで停止した。振幅が戻るのを待って、次の試行を開始した。すべて規定どおりです」
端末の縁を押さえる指が、白くなっていた。
「帝国標準への切替も、僕が操作しました」
ラリオーノフは何も言わなかった。
「彼女が戻る場所を失っても、僕は記録を取り続けた」
ヴァイマンの喉が動いた。
「僕も、あの訓練を続けたんです」
その声は、もう誰かを責めるものではなかった。
「僕は、彼女を追い詰めたいわけではありません」
分かっている。
そう言いたかった。
だが、それを口にすれば――
自分で自分を許してしまう。
「このままでは、僕たちは同じことを繰り返します」
ヴァイマンが顔を上げた。
「そして、七月になります」
ラリオーノフは制御卓を握りしめた。
「……だから、時間が必要だ」
絞り出す。
「成立条件を特定し、標準への移行可能性を検証する」
「時間は、もう与えられています」
返答は静かだった。
「七月までです」
分かっている。
自分が求めた。
標準適応の可能性があると報告し、現行体系を再定義する兆候はないと答えた。
『ありません』
あの嘘が――マシュの期限になった。
ヴァイマンが端末を操作した。
「所見を提出します」
背筋が強張る。
「……何と書く」
「帝国標準への移行は確認されず。特定制御官の想起条件下において、外部制御入力なしで自律収束傾向を確認」
「それは事実だ。ならば、それだけを書け」
「所見欄には、成立条件についての考察が必要です」
「未特定。検証継続中。それでいい」
「……大尉」
ヴァイマンの声から、疲労が滲んだ。
「成立条件を標準外として正式に認めれば、管理区分が再検討される。僕も分かっています」
ラリオーノフは顔を上げた。
「では、なぜ書こうとする」
「書かなければ、彼女が標準に適応できない理由も説明できません」
「書けば、訓練継続の判断権が我々から離れる」
「書かなければ、七月の試験で不成立のままです」
言葉が止まった。
「どちらも危険なんです」
ヴァイマンの指が、端末の縁を押さえ直した。
「僕だって、標準外安定点が成立したなどと断定したくありません。機構も分からない。その言葉が報告書に載れば、どう扱われるかも分かっています」
低い駆動音が、二人の間を埋めた。
「だから、観測事実は欠かさず残し、解釈は未確定として検証するしかないんです」
ラリオーノフは赤銅色の波形を見た。
収束。
安定。
外部制御入力なし。
どれも、自分が観測した事実だった。
「……貴様には分からん」
気づけば、そう言っていた。
ヴァイマンの表情が止まった。
「……何が、ですか」
答えられなかった。
ヴァイマンは、査定の条件も、管理区分変更の危険も理解している。
それでも、記録と検証を続けようとしている。
だが、知らない。
今朝、自分が認証欄に触れなかったことも。
その先に、何が待っているのかも。
そして、それを知ること自体が、どれほど恐ろしいかも。
「大尉」
ヴァイマンの声が近づいた。
「僕にも、分からないことはあります」
ラリオーノフは顔を上げた。
「今日の収束が何を意味するのかも、標準外安定点が成立した場合に何が起こるのかも。確証はありません」
ヴァイマンが端末へ視線を落とす。
「ですが、所見に『検証継続中』と書くなら、次に何を確かめるのか決めなければなりません」
ラリオーノフの指が止まった。
「先ほどの質問に、まだ答えていただいていません」
嫌な予感がした。
「想起条件での再試行は、認めますか」
今朝の認証欄が脳裏に浮かんだ。
午前五時五十九分。
静穏化処置――未実行。
指先が冷えていく。
「……現時点では、確証がない」
「分かっています」
ヴァイマンの声は低かった。
「僕も、怖いんです」
その言葉だけが、ひどく小さかった。
「ですが、大尉。それでは答えになっていません」
ラリオーノフは口を開いた。
何も出てこなかった。
「……検証中だ」
また、同じ言葉だった。
何を検証するのか問われているのに、その答えを返せなかった。
ヴァイマンが目を閉じた。
短く息を吸い、吐く。
次に目を開けたとき、その表情には疲労が浮かんでいた。
「大尉」
掠れた声は、もはや懇願にも聞こえた。
「あなたは、何を恐れているんですか」
ラリオーノフは動けなかった。
「彼女が大尉の基準を必要とすることですか。それとも――」
ヴァイマンが言葉を止めた。
「彼女が、帝国標準を必要としなくなることですか」
息が止まった。
違う――
違うはずだ。
自分が求めているのは、彼女の自律性だ。
自分がいなくても、標準下で安定すること。
飛行すること。
七月の試験を通過すること。
ただ、それだけの――
けれど――その先で――
指先から熱が奪われていく。
古い本の旧い言葉に全身を覆い尽くされる。
マシュが帝国標準ではなく、自分自身の成立位置を見つけたなら。
帝国の命令も、制御も、標準も。
彼女にとって、必要のないものになったなら。
そのとき、彼女はどう分類される。
そして――
自分は、何者になる。
「……私的な意図はない」
言ってしまった。
マリーニンに告げたのと、同じ言葉。
そして、確かな嘘。
ヴァイマンの目が、わずかに揺れた。
「……そうですか」
それ以上、追及されなかった。
それがかえって苦しかった。
ヴァイマンが自分の端末に並ぶ記録を、もう一度確認した。
「僕には、まだ答えがありません」
ぽつりと言った。
ラリオーノフは顔を上げた。
「大尉の基準を完全に排除する方法も、それを帝国標準へ移す方法も、今のところ分からない」
ヴァイマンの声は低かった。
「ですが、外部制御入力なしで、彼女の源泉が収束に向かったことは、もう否定できません」
ラリオーノフは身を乗り出す。
「否定していない」
「では、否定しないでください」
返答は鋭かった。
ヴァイマン自身が、言葉を強くしすぎたことに気づいたようだった。
けれど、引かなかった。
互いに睨み合う。冷たい視線は無言以上の重みを持っていた。
「僕たちは、あの子に、自分で見つけたものまで間違いだったと思わせてしまったのではありませんか」
ヴァイマンの声が、ほんの少し震えた。
「あれほど一生懸命に、記録して、確かめて……」
言葉が途切れた。
否定できなかった。
マシュは最後まで、礼儀正しく答えていた。
『はい』
泣かなかった。
反抗もしなかった。
「……私は」
自分の声はもう、唸り声のなり損ないのようだった。
「貴様に、何を要求されている」
ヴァイマンはすぐに答えなかった。
その沈黙には、迷いがあった。
少尉として。
副制御官として。
そして、十二歳の少女を目の前にしている一人の人間として。
「次の手順を、考えてください」
やがて、そう言った。
「標準への適応を諦めろとは言いません。大尉の基準を無条件で認めろとも言いません」
ヴァイマンが、投影面を指す。
「ですが、彼女が戻れる場所を一つ見つけたのなら、それを壊さずに、標準へ接続する方法を探してください」
ラリオーノフは口を開いた。
何も出てこなかった。
「僕も探します」
ヴァイマンの声に、もう鋭さはなかった。
「研究院にも、できる限りの解析を依頼します。今日の事実は、欠けなく記録します」
ラリオーノフは答えられなかった。
ヴァイマンはしばらく待っていた。
やがて、端末を閉じる。
「一つだけ、覚えておいてください」
ラリオーノフは顔を上げられなかった。
「大尉が確かめないままでも、いずれ別の誰かが、彼女の扱いを決めます」
声は、どこまでも静かだった。
「その人が、今日のマシュさんの声を聞いているとは限りません」
喉が締め上げられた。
言い返す言葉は、もうなかった。
扉の認証音が響いた。
ヴァイマンは、まだ出ていかなかった。
ほんの一拍、何かを待つように立っていた。
ラリオーノフは何も言えなかった。
ヴァイマンの目が伏せられる。
やがて――扉が閉まる。
補助同期室に静寂が戻った。
ラリオーノフは制御卓に両手をついた。
息が、うまく入らない。
投影面には、今日の観測記録が残されていた。
制御官からの入力なし。
源泉尖度、低下。
自律収束傾向、あり。
その記録に、マシュの笑顔が重なる。
『少し、分かりました』
その直後に、自分が何と言ったのか。
覚えている。忘れるはずがない。
『それは使うな』
赤銅色の波形が、投影面の上で静かに収束していく。
彼女は、自分で戻ろうとした。
自分で、戻るための向きを見つけた。
それなのに――
自分は、その手順を禁じた。
ラリオーノフは端末を開いた。
本日の訓練所見。
入力欄は、まだ空白だった。
――未特定。
そう打とうとして、指が止まる。
今朝と同じだった。
認証欄に触れなかった指が、今度は、報告文の上で動かなくなっていた。




